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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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2/31

 昨日の強い日差しが嘘のように、今朝は曇り空だった。

湿り気を帯びた風が、もうすぐ梅雨がやってくると告げている。


志乃はいつもより早く家を出て、浜辺を横目に、仁朗の家へ向かった。目的は海苔摘みではない。神近に会うためだ。

「おばさん、昨日はありがとうございました。医者様は?」

「家に泊まってもらおうと思ったけどね、『ご迷惑をおかけしますから』って、どうしても断られてね。材木屋の小部屋にいるよ。朝餉ができたから、呼んできてちょうだい。」

材木屋までは道を挟んですぐ。すでに仁朗の父が作業を始めており、木の香りがあたりに漂っていた。志乃が挨拶をして小部屋に近づくと、子どもたちの賑やかな声が聞こえてきた。

「神様、もっとお話聞かせて!」

どうやら、あだ名がもう決まってしまったらしい。

神近は笑いながら子どもたちをあやしている。

「また明日おいで。」

浩太と幹太は名残惜しそうに去り、仁朗も父に呼ばれて作業場へと向かった。

「神近様、朝餉の準備ができております。お越しください、とのことです。」

「志乃様、おはようございます。昨日は本当にありがとうございました。あなたが見つけてくださらなければ、私は命を落としていたかもしれません。何かお礼をさせてください。」

「……では、様づけはやめていただけますか。私はただの村娘です。」

「では、私のことも様はやめにしましょう。『神様』も少しこそばゆいので。」

「では……神近先生、で。」

「“先生”もあまり変わりませんね。」

 二人は思わず顔を見合わせて笑った。

 神近の笑顔は柔らかく、志乃の胸の奥がじんわりと温かくなる。慎重で人見知りの自分が、こんなに早く人と打ち解けるなんて——不思議だった。

「お礼のことは、また考えておいてくださいね。」


 志乃は神近を仁朗の家へ案内すると、海苔摘みに向かった。昨日の失敗を思い出し、「まずやるべきことから」と心に言い聞かせる。海苔を摘み終えると、砂に小枝で文字をなぞり始めた。

紙を見ながら一心に書いていると、不意に声をかけられた。

「驚かせてすみません。字のお勉強を?」

振り返ると、神近が立っていた。

「はい。本を読みたくて……でも、まだまだです。」

「感心ですね。」

「でも、うちのおばあさんは女が勉強すると“かわいげがなくなる”って嫌がるんです。」

志乃の声は少し沈んだ。

神近は海を見つめ、ゆっくりと言葉を選んだ。

「学びに、男も女もありません。学ぶことは心を豊かにし、人を強くする。医者ならそれが命を救う力にもなる。」

その言葉は潮風のように真っすぐで、志乃の胸を打った。

少しだけ、背中を押された気がした。

浜辺で座り、聞くところによると、神近はこれから植物採取に向かうとのこと。

「先生、今日は倒れないでくださいね。一人じゃ心配です。仁ちゃんでも連れて行ってください。」

志乃が少し頬を膨らませると、神近は爽やかに笑った。

「はい、気をつけます。」


 志乃は摘んだ海苔を持って、母の営むうどん屋に戻った。

「今日はちゃんと戻ってきたな。」

嘉介がうどんをこねながら笑う。

「昨日はさすがに心配したんだから。」

母のなつも声をかけた。嘉介の妻・ちはるが加わる。

「お医者様、元気そうだった?」

志乃は少し頬を赤らめながら答える。

「うん、すっかり元気だったよ。」

「それなら平助さんを診てもらえるかしら。体がかゆくて眠れないそうなの。おばあさんも息子さんも同じ症状でね。」

志乃の家のうどん屋は、この辺りでは評判の店だ。

嘉介の打ったこしのあるうどん、母の醤油だし、そして志乃が摘む海苔。祖父母が始めた店は、今も家族で賑やかに回っている。

そんな日常の中で、志乃は自分に課された「笑っていなさい」という母の言葉を思い出した。器量ではなく、愛嬌で人の心をつかむ——それが母の教えだった。


 仕事が一段落すると、志乃は再び材木屋へ走った。

神近の姿は見えず、仁朗と探していると、木陰でしゃがんで書き物をしている彼を見つけた。

「神近先生、診ていただきたい人がいます。」

志乃が事情を話すと、神近はすぐに頷いた。

「仁朗さん、お願いがあるのですが。」

そんな穏やかな声に、仁朗もすぐにうなずく。

彼は木を削り、匙のような小道具を作った。

「神様、こんな感じでいい?」

「さすが仁朗さん、上出来です。」

 

 三人は連れ立って平助の家へ向かった。

家の中には、やつれた老人夫婦の姿。体のあちこちに赤い掻き傷がある。

「神近と申します。お体を見せていただけますか。」

神近は虫眼鏡を取り出し、丁寧に皮膚を観察した。

木で作った匙で皮膚を軽くこすり、その欠片を紙に乗せる。

そのとき、息子が戻ってきた。

神近は皆を呼び、虫眼鏡を差し出した。

「痒みの原因は『疥癬ひぜん』です。ここを見てください。」

志乃と仁朗が覗き込むと、紙の上でちりのように小さい虫が蠢いていた。

空気が一瞬止まる。

「皮膚の下に潜り込み、卵を産んで増えます。布団などからもうつります。犬も飼っておられるのですね?」

「ええ、よく体を掻いていまして……。」

神近が犬を調べると、やはり毛が抜けていた。

「犬も同じです。薬を作ります。その間に布団を干し、洗えるものはすべて洗ってください。」

三人は農家へ向かい、硫黄を分けてもらい、塗る薬を作った。

志乃が平助の家へ薬を届ける頃には、空はすでに茜色に染まっていた。

 

 帰り道、神近が柔らかく微笑んだ。

「今日は本当にありがとう。二人がいなければ、日が暮れても終わっていなかったでしょう。」

仁朗と志乃の胸に温かなものが広がる。

平助の一家は、帰り際に何度も手を合わせて感謝を述べた。

志乃はその光景を見つめながら思った——

人を救うことは、こんなにも尊く、美しいのだ。

「平助さんたちの痒みが治るまでは時間がかかります。その間、こちらにお世話になります。」

神近が深く頭を下げたとき、志乃は胸の奥でそっと安堵した。

彼がこの村にもう少しいてくれる——それが嬉しかった。

こうして、長い一日が静かに終わった。


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