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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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18/35

 吐く息は白いが、梅の木の枝先に、ひとつだけ小さなつぼみがほころんでいた。

春が、すぐそこまで来ているのだ。

仁朗の家の前を通ると、戸口の内はがらんどうで、いつもより静かに感じられた。

紀一の祝言のため、一家が和総かずさへ出かけているのだ。

そのため、ここ数日は志乃が神近の食事の世話をしていた。

仁朗の姉、さちも手伝ってくれるが、産後の身では無理をさせられない。

今日も志乃は、うどん屋の仕事を終えると、膳を風呂敷に包み、神近のもとへと足を急がせていた。

けれど、朝からのどの奥がひりひりと痛んでいた。

つばを飲み込むたび、針で刺すような痛みが走る。

風邪をひいたのだと気づいたのは昼過ぎだった。原因は分かっている。眠れていないのだ。

母に話そう、話さねば、と思いながら、どう切り出せばいいのかわからない。

神近に弟子入りして和総へ行きたい。

——けれど、女が医者の見習いのため遠くへ行くなど、世間が許すだろうか。

布団に入っても、その思いが胸を締めつけて眠れなくなる。

——もし、自分が男だったら。

そんな考えがふと頭をよぎる。

仁朗のように、性別ひとつで道が開けるなら、どれほど楽だろう。

「性別を変える薬があればいいのに。」

思わずつぶやいた自分に苦笑し、志乃は風呂敷を握り直した。


 神近の診療所に着くと、戸の内から低い男の声が聞こえてきた。

怒っているような、あるいは叱っているような声音だ。

神近の声はほとんど聞こえず、相手の言葉ばかりが響く。

このようなことが前もあったような、そんな考えが志乃の頭をよぎった。。

入るべきかどうか一瞬ためらったが、せっかくの食事が冷めてしまう。

志乃はおそるおそる戸を叩いた。

戸を開けたのは神近ではなく、目つきの鋭い小柄な男だった。

「ちょうどいいところに。志乃さん、こちらは藤木殿です。私の大事な友人です。」

神近が奥から顔を出した。

「友人? 便利に使われてるだけですよ、ねえ、神近せ・ん・せ・い。」

皮肉を交えた藤木の声に、神近は苦笑で応じた。

「文を出したら、大都(だいと)からすぐに来てくれたんです。」

「和総に来た“ついで”です!」

藤木は吐き捨てるように言ったが、どこか憎めない調子でもあった。

志乃が挨拶しようと口を開いた瞬間、のどの痛みが刺すように走った。

「……志乃と申します。」

かすれた声はほとんど出ず、自分でも驚いた。

「のどが痛いのですか?」

神近が心配そうにのぞき込み、志乃がうなずくと、「見せて」と穏やかに言った。

藤木がいる前で少しためらいながらも、志乃は口を開けた。

「少し薬を作ってきますね。」

神近はすぐに奥へ引っ込んだ。

残された志乃と藤木。

沈黙が気まずく、志乃は手にした膳を見て神近を追おうとしたが、

「置いておいてください。」

神近の声が奥から飛んできた。

神近の元に向かうと、机の上には淡い褐色の根。

それを刻む音が響いている。

「これは桔梗ききょうの根です。のどの痛みによく効くんですよ。」

神近の説明に、志乃は紀一から贈られた桔梗の彫りのつげ櫛を思い出した。

胸の奥が、微かにうずいた。


 お茶をいれて戻ると、藤木が静かに志乃を見つめた。

「あなたが志乃さんですね。」

低い声だが、どこか探るような眼差しだった。

「私はね、神近先生には一刻も早く大都へ戻ってほしいのです。しかし、どうしても一年、和総で修行をすると言って聞かない。」

志乃は黙って耳を傾けた。

「それで……あなたに聞きます。和総の薬問屋で働く気はありませんか。」

思いがけない言葉に志乃は目を見開いた。

藤木は続けた。

「女性の弟子をとるから、住む場所を用意してくれと。……まったく、無茶を言う。」

苦々しげに笑いながらも、どこか優しさがにじんでいた。

——神近先生は、私のためにここまで。

その思いが胸を熱くし、のどの痛みも忘れそうになった。

そのとき、神近が湯気の立つ椀を持って現れた。

「これをうがいしてから飲んでください。」

受け取った薬湯はほのかに甘く、根の香がする。

志乃は奥へ下がり、指示のとおりうがいをしてから一口含んだ。

のどを流れるたび、痛みがゆっくりとほどけていくようだった。


 戻ると、神近と藤木の会話が続いていた。

薬の効き目とともに、声が少しずつ戻るのを感じた志乃は、二人の話が途切れたところで口を開いた。

「神近先生、のどの痛みが楽になりました。声も出ます。」

頭を下げると、藤木がじっと志乃を見つめた。

「それで……どうされますか。」

先ほどの提案を、再び問われたのだ。

志乃は姿勢を正し、深く手をついて言った。

「お手数おかけしますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。」

かすれながらも、まっすぐ通る声が出た。

藤木はふうっと息をつき、少しだけ口元をゆるめた。

「……他でもない神近先生の頼みですから、いくつか当たってみましょう。でも、期限は延ばせませんよ。一年です。必ず戻ること。」

「わかっています。」

神近は静かにうなずいた。


 藤木を見送ったあと、神近は冷めた膳を静かに平らげていた。

志乃は残った薬湯をもう一杯飲み干し、神近を見つめた。

「先生、本当にありがとうございます。」

「何のことですか。」

「私の居場所を考えてくださって……。」

神近は箸を置き、少し微笑んだ。

「学べる環境を整えるのは、師の務めです。私は週の半分は医頼館で学び、残りは診療に当たる予定です。その時は、ぜひ手を貸してください。」

「はい、ぜひ。」

志乃の声は、もうかすれていなかった。

 

 二人で薬づくりに取りかかる頃には、外の雪は淡く光を返していた。

一仕事を終えて外に出ると、夕焼けに染まる空の下、梅の蕾が一層ふくらんで見えた。

——今日こそ、母に話そう。

志乃は冷たい風の中で、小さく唇を引き結んだ



☆桔梗湯☆

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