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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女 医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
足楢編

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17/35

 明け方まだ暗いうちに、珍しく志乃のまぶたか開いた。

眠りが浅くなっていたようだ。

平治の泣き声、血の匂い、針が皮膚を貫く感触——それらが繰り返し胸の奥を刺す。

あの小さな体の震えが離れない。

それでも、やらねばならなかったのだ。

あの血の量では、迷えば命は消えていた。

わかっている。けれど心は、理屈とは別のところで震えていた。

神近のように、静かなまなざしで命と向き合うことが、私にできるのだろうか。

いつか自分も、あの人のように——。

そう思いながら、志乃はもう一度浅い眠りについた。

 

 朝。

凍てつく空気を切るように歩きながら、志乃は診療所の扉を開けた。

中では神近が何かを刻んでいる。

「おはようございます。」

「おはようございます。昨日はお疲れさまでした。」

神近は手を止めず、木の根を小刀で細かく刻んでいる。

香り立つその匂いは、どこか鉄のような温もりを含んでいた。

「先生、それは何ですか。」

当帰とうきです。」

神近は微笑みながら答えた。

「昨日の平治くんの出血量を見ると、血を補う薬が必要です。当帰には“血を補う”力があります。彼の命をつなぐ薬を作ります。」

志乃は、刻まれる当帰の音を聞きながら、その一言に胸が震えた。

——血を補う。

それは、まるで命そのものを呼び戻すような響きだった。


「そういえば志乃さん、以前お借りした本ですが……どなたのものですか。」

神近が問うと、志乃はしばらく答えられないでいた。

「書き込みがたくさんありました。とても深い知識の持ち主のようで。」

志乃は静かに息を吸って答えた。

「……おそらく、父のものだと思います。」

その名を口にするたび、どこか遠い記憶の扉がきしむ音がする。

「私には、父の記憶がほとんどありません。ただ、人から聞く限り、家にこもって書き物ばかりしていたそうです。学者だったのかもしれません。祖母ですら、“植物が好きな賢い人だった”としか。」

神近は静かにうなずき、声を低くして尋ねた。

「志乃さんの家の庭……様々な草花が植えられていますが、どなたの手によるものですか。」

「分かりません。でも、あの庭だけは、父の気配を感じる気がするんです。」

神近が薬研やげんを動かす音だけが響いた。

彼の表情に、わずかなかげりが差す。

「……夢を見るんです。」

志乃がぽつりとつぶやいた。

「夢の中で、父が私に向かって“さかしい子だ”と言うんです。それが現実だったのか、ただの願いなのかは分かりません。でも、父の存在が、今の私を動かしているのは確かです。」

神近は小さく息をのんだ。

「志乃さん……。」

「それに、神近先生には感謝しています。女だからと諦めかけていた自分に“できる”と教えてくださった。だから、私……」

志乃は神近の深緑の瞳を真っ直ぐに見すえた。

「……ついて行かせてください。私、結構頑固ですよ。」

神近は驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間、声を立てて笑った。

「知っています。」

志乃が頬を膨らませると、慌てて神近は頭を下げた。

「す、すみません!」

「冗談です。」

ふたりは顔を見合わせて笑った。

その時、扉の音と共に声が飛び込んできた。

「神様ー!……あ、志乃もいるじゃん!」

「仁ちゃん、扉壊れる!」

息を弾ませて現れた仁朗が、にかっと笑う。

「神様、幹太の薬をもらいに来ました。昨日の薬、効いたみたいです!」

そして志乃に向かって言った。

「兄さん、明日和総かずさに戻るってさ。祝言の日取りも決まったぞ。」

志乃は、胸に何か重たいものを感じた。

けれど、唇からこぼれたのはただ一言。

「……うん。」


 その日の午後、神近と志乃は再び平治の家を訪れた。

家の中は昨日の喧噪けんそうが嘘のように静まり返っている。

座敷には母に支えられて座る平治の姿。

顔色は青白いが、目には力が宿っていた。

「血を補う薬を持ってきました。」

神近が穏やかに告げると、平治の母が頭を下げた。

「痛みはどうですか。」

平治が首を横に振った。

神近が脈を取り、志乃に目で合図を送る。

「糸は頃合いを見て抜きます。それまではよく休んで、この薬を飲みましょう。」

家族が深々と頭を下げた。

その姿を見つめながら、志乃は胸の奥に何か熱いものを感じた。

——この子は、生きる。

自分が針を持ったあの瞬間の恐怖も、迷いも、いまはすべて報われたような気がした。


 帰り道。

粉雪が静かに舞いはじめていた。

神近は歩きながら言った。

「彼の命を救ったのは、志乃さんですよ。」

「……神近先生がいなければ、できませんでした。」

神近は足を止めた。

「志乃さん、謙遜はいりません。謙虚と卑下は違います。命の前で迷わず動けた——それは誇るべきことです。」

志乃はしばらく雪空を見つめ、それから静かにうなずいた。

「……ありがとうございます。では、神近先生もご自身をほめてください。中畑の人たちまでもが“あの先生に”と頼って来るのですから。」

神近は少し照れたように微笑み、言った。

「そうですね。……ありがとうございます。」

その声は、白い息となって空に消えた。

雪が肩に、髪に、音もなく降り積もっていく。

志乃はその背を見つめながら、胸の奥で静かに誓った。

——この道を、生きよう。


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