血
明け方まだ暗いうちに、珍しく志乃のまぶたか開いた。
眠りが浅くなっていたようだ。
平治の泣き声、血の匂い、針が皮膚を貫く感触——それらが繰り返し胸の奥を刺す。
あの小さな体の震えが離れない。
それでも、やらねばならなかったのだ。
あの血の量では、迷えば命は消えていた。
わかっている。けれど心は、理屈とは別のところで震えていた。
神近のように、静かなまなざしで命と向き合うことが、私にできるのだろうか。
いつか自分も、あの人のように——。
そう思いながら、志乃はもう一度浅い眠りについた。
朝。
凍てつく空気を切るように歩きながら、志乃は診療所の扉を開けた。
中では神近が何かを刻んでいる。
「おはようございます。」
「おはようございます。昨日はお疲れさまでした。」
神近は手を止めず、木の根を小刀で細かく刻んでいる。
香り立つその匂いは、どこか鉄のような温もりを含んでいた。
「先生、それは何ですか。」
「当帰です。」
神近は微笑みながら答えた。
「昨日の平治くんの出血量を見ると、血を補う薬が必要です。当帰には“血を補う”力があります。彼の命をつなぐ薬を作ります。」
志乃は、刻まれる当帰の音を聞きながら、その一言に胸が震えた。
——血を補う。
それは、まるで命そのものを呼び戻すような響きだった。
「そういえば志乃さん、以前お借りした本ですが……どなたのものですか。」
神近が問うと、志乃はしばらく答えられないでいた。
「書き込みがたくさんありました。とても深い知識の持ち主のようで。」
志乃は静かに息を吸って答えた。
「……おそらく、父のものだと思います。」
その名を口にするたび、どこか遠い記憶の扉がきしむ音がする。
「私には、父の記憶がほとんどありません。ただ、人から聞く限り、家にこもって書き物ばかりしていたそうです。学者だったのかもしれません。祖母ですら、“植物が好きな賢い人だった”としか。」
神近は静かにうなずき、声を低くして尋ねた。
「志乃さんの家の庭……様々な草花が植えられていますが、どなたの手によるものですか。」
「分かりません。でも、あの庭だけは、父の気配を感じる気がするんです。」
神近が薬研を動かす音だけが響いた。
彼の表情に、わずかなかげりが差す。
「……夢を見るんです。」
志乃がぽつりとつぶやいた。
「夢の中で、父が私に向かって“賢しい子だ”と言うんです。それが現実だったのか、ただの願いなのかは分かりません。でも、父の存在が、今の私を動かしているのは確かです。」
神近は小さく息をのんだ。
「志乃さん……。」
「それに、神近先生には感謝しています。女だからと諦めかけていた自分に“できる”と教えてくださった。だから、私……」
志乃は神近の深緑の瞳を真っ直ぐに見すえた。
「……ついて行かせてください。私、結構頑固ですよ。」
神近は驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間、声を立てて笑った。
「知っています。」
志乃が頬を膨らませると、慌てて神近は頭を下げた。
「す、すみません!」
「冗談です。」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
その時、扉の音と共に声が飛び込んできた。
「神様ー!……あ、志乃もいるじゃん!」
「仁ちゃん、扉壊れる!」
息を弾ませて現れた仁朗が、にかっと笑う。
「神様、幹太の薬をもらいに来ました。昨日の薬、効いたみたいです!」
そして志乃に向かって言った。
「兄さん、明日和総に戻るってさ。祝言の日取りも決まったぞ。」
志乃は、胸に何か重たいものを感じた。
けれど、唇からこぼれたのはただ一言。
「……うん。」
その日の午後、神近と志乃は再び平治の家を訪れた。
家の中は昨日の喧噪が嘘のように静まり返っている。
座敷には母に支えられて座る平治の姿。
顔色は青白いが、目には力が宿っていた。
「血を補う薬を持ってきました。」
神近が穏やかに告げると、平治の母が頭を下げた。
「痛みはどうですか。」
平治が首を横に振った。
神近が脈を取り、志乃に目で合図を送る。
「糸は頃合いを見て抜きます。それまではよく休んで、この薬を飲みましょう。」
家族が深々と頭を下げた。
その姿を見つめながら、志乃は胸の奥に何か熱いものを感じた。
——この子は、生きる。
自分が針を持ったあの瞬間の恐怖も、迷いも、いまはすべて報われたような気がした。
帰り道。
粉雪が静かに舞いはじめていた。
神近は歩きながら言った。
「彼の命を救ったのは、志乃さんですよ。」
「……神近先生がいなければ、できませんでした。」
神近は足を止めた。
「志乃さん、謙遜はいりません。謙虚と卑下は違います。命の前で迷わず動けた——それは誇るべきことです。」
志乃はしばらく雪空を見つめ、それから静かにうなずいた。
「……ありがとうございます。では、神近先生もご自身をほめてください。中畑の人たちまでもが“あの先生に”と頼って来るのですから。」
神近は少し照れたように微笑み、言った。
「そうですね。……ありがとうございます。」
その声は、白い息となって空に消えた。
雪が肩に、髪に、音もなく降り積もっていく。
志乃はその背を見つめながら、胸の奥で静かに誓った。
——この道を、生きよう。




