山茶(さんさ)
年の瀬が迫る頃、足楢の町にも冬の匂いが満ちていた。
志乃の働く「金丸うどん」と、味噌・醤油蔵の「百合金商店」は、例年どおり年末年始の休みに入る。最終日の恒例は、従業員総出の餅つきだ。
金丸うどんは家族経営だが、百合金商店は従業員も多く、その家族を含めると庭いっぱいに人の輪が広がる。
笑い声、湯気、蒸した餅米の香り。志乃はこのにぎやかさが、以前は苦手だった。
――「家族」という形が、あまりにもまぶしかったからだ。
父と母、子どもたちが笑い合う姿。小さな娘を肩に乗せる父の腕。
ねたましいわけではない。ただ、胸の奥の古傷がうずく。
自分の中の「欠けているもの」に、どうしても目を背けられなかった。
祖母のちよは、この日を誰よりも楽しみにしていた。
かつては夫・金丸の一歩後ろを歩く控えめな賢妻であったが、十年前に夫を亡くして以来、家を守るために先頭に立ち続けてきた。
蒸しあがる餅米の香りの中で、ちよはいつものように語り出す。
夫が亡くなってからの苦労話、そして今年も商いが無事に続いたことへの感謝――。
そこに今年はひとつ、余分なお小言が加わっていた。
「嫁入り前の娘が夜更けに帰るなんて、どういうことかね。」
志乃は苦笑して、母のようにさらりと受け流す術を身につけねばと思った。
百合金商店の庭は、いつにも増して華やかだった。
平蔵にも妻子ができ、源蔵も妻を迎えた。
赤子の泣き声、子どもたちの笑い声、にぎやかに響く。
志乃はふと、子どもたちを見る自分の目が変わったことに気づく。
――あの小さな命の一つひとつが、どれほどの危険と奇跡を経て生きているのか。
神近と過ごした日々が、その「命の重さ」を教えてくれたのだ。
ねたみの影はもう心にない。あるのはただ、静かな敬意だった。
転んで泣く子を、父が抱き上げる。
その温もりだけで、痛みが消えていく。
――それだけで、いいのだ。生きていける。
「珍しくニコニコしてるじゃない。」
かおるが笑って声をかけてきた。彼女はお腹をそっとなでている。
「つわりがやっと終わってね。でも、夫にはまだ“つらい”って言ってるけど。少しは楽させてもらわないとね。」
冗談めかした声に、志乃も笑った。かおるはいつも強く、そしてかしこい。
蒸しあがった餅米を臼に運ぶのは男衆の役目だ。
ぺったん、ぺったん。子どもたちが掛け声をそろえる。
転んで尻もちをつく子、笑い合う声。
つきあがった餅を女性たちが丸め、志乃と母のなつは、のし餅を整える。今日来る客に配る分だ。
楽しい餅つきの最中、店の準備のために志乃はなつと百合金商店を後にした。
昼下がり。
「金丸うどん」に、紀一が現れた。
志乃は洗い物に追われていて、気づいたのはなつに呼ばれてからだった。
「きいっちゃん、いつ帰ってきたの?」
「昨日。久しぶりに帰ってきて安心したのか、昼前までぐっすり。」
「そっか、夏以来だもんね。」
そう口にした瞬間、志乃の胸に夏の日がよみがえった。
あの時、紀一は何かを言いかけていた。
(何だったのか……今、聞こうか……)
「志乃、このあと、時間ある?」
「……え?」
「仁朗には言ってある。」
診療所に行く予定だったが、根回し済みらしい。志乃は小さくうなずいた。
ちょうどその時、香ばしい匂いとともに、焼きたての餅が運ばれてきた。
小春日和の午後、紀一に導かれて歩いた道は、懐かしい丘へと続いていた。
幼い頃、紀一と佳乃、そして時々仁朗と一緒に「探検」と称して駆け回った丘。
そこは、足楢の町とその奥の海を一望できる場所。
振り返ると反対側にも海が見える。
普段生活していると気付かないが、ここは海に突き出した半島なのだ。
風の音、木の匂い、そして冬の光。
「いい眺めだよな。」
紀一がぽつりとつぶやいて、草の上に座った。
志乃はうなずいて、紀一の横に腰を下ろした。
「志乃さ、夢ってある?」
「夢……?」
問われて、言葉が見つからなかった。
決められた縁談、家業の手伝い――自分の未来は、これからも“誰かが敷いた道”の上にあると思っていた。
けれど、今は違う。
「勉強を続けたい。」
その言葉が、自然に口をついて出た。
「何のために?」
「……わからない。でも、そうしたいと思う。」
自分の中に小さな炎のようなものを感じながら、志乃は笑った。
「志乃。俺はさ」
紀一は静かに、志乃の手に自分の手を重ねた。
「俺は――好きな人と足楢で生きていきたい。」
冷えた指先に、紀一のぬくもりが伝わってくる。
志乃は一瞬、頭が真っ白になった。そして、その後にこみあげてきた思い。
――どうしてもこの手を握り返すことはできない。
数日前、仁朗から聞いた話が胸をよぎる。
紀一は奉公先の娘と結婚し、いずれその家の跡継ぎになるという。
志乃は驚いた。
彼は不破材木店の長男だ。いずれ足楢に戻るものと信じて疑わなかった。
紀一の気持ちが重なる手から伝わってくる。
本当は……本当は……この手を握り返したい。
今までは、紀一の気持ちがよくわからなかった。
ーー幼なじみ。
だから本を貸してくれたり、気にかけてくれるのだろう。
でも、もしかすると……
紀一の自分に対する気持ちが確信に変わった。
だけど……
ただのうどん屋の娘と大店のお嬢様。
どちらが紀一にとって、そして紀一の家にとって価値があるかは誰にでもわかる。
こうやって自分の初恋は終わる。
終わらせるしかないのだ。
「きいっちゃん、足楢が好きだもんね。」
ようやく絞り出した言葉が、冷たい風に溶けた。
本当は違う言葉を言いたかった。けれど、どうしても言えない。
「お稲荷様にお参りしてきたよ。きいっちゃんの健康と、商売繁盛を。」
志乃は自分の手の代わりに、お守りを彼の手に握らせた。
そして、遠くの海を見た。
紀一の表情を見る勇気は、どうしても持てなかった。
丘を下りる帰り道。
冬枯れの道に、ひときわ鮮やかな紅が目を引いた。
――山茶花。
赤い花弁が、冷たい風の中で凛と揺れている。
紀一が昔、志乃に贈った櫛にも、この花が描かれていた。
その意味を、いまなら少しだけ分かる気がした。
たとえ誰にも気づかれなくても、凍える風の中で咲く花のように――。
志乃は生きていく。ひたむきに、まっすぐに。
年の瀬の空に雪がちらついた。
冷たい光の下、志乃の心には、確かな温もりが一つだけ残っていた。
それは、誰にも渡さぬ、小さな希望の灯だった。




