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さんさ 志乃の医薬譚〜恋せよ乙女 医の道をゆけ〜  作者: 朝久野智秋
足楢編

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15/35

山茶(さんさ)

 年の瀬が迫る頃、足楢の町にも冬の匂いが満ちていた。

志乃の働く「金丸うどん」と、味噌・醤油蔵の「百合金商店」は、例年どおり年末年始の休みに入る。最終日の恒例は、従業員総出の餅つきだ。

金丸うどんは家族経営だが、百合金商店は従業員も多く、その家族を含めると庭いっぱいに人の輪が広がる。

笑い声、湯気、蒸した餅米の香り。志乃はこのにぎやかさが、以前は苦手だった。

――「家族」という形が、あまりにもまぶしかったからだ。

父と母、子どもたちが笑い合う姿。小さな娘を肩に乗せる父の腕。

ねたましいわけではない。ただ、胸の奥の古傷がうずく。

自分の中の「欠けているもの」に、どうしても目を背けられなかった。

祖母のちよは、この日を誰よりも楽しみにしていた。

かつては夫・金丸の一歩後ろを歩く控えめな賢妻であったが、十年前に夫を亡くして以来、家を守るために先頭に立ち続けてきた。

蒸しあがる餅米の香りの中で、ちよはいつものように語り出す。

夫が亡くなってからの苦労話、そして今年も商いが無事に続いたことへの感謝――。

そこに今年はひとつ、余分なお小言が加わっていた。

「嫁入り前の娘が夜更けに帰るなんて、どういうことかね。」

志乃は苦笑して、母のようにさらりと受け流す術を身につけねばと思った。


 百合金商店の庭は、いつにも増して華やかだった。

平蔵にも妻子ができ、源蔵も妻を迎えた。

赤子の泣き声、子どもたちの笑い声、にぎやかに響く。

志乃はふと、子どもたちを見る自分の目が変わったことに気づく。

――あの小さな命の一つひとつが、どれほどの危険と奇跡を経て生きているのか。

神近と過ごした日々が、その「命の重さ」を教えてくれたのだ。

ねたみの影はもう心にない。あるのはただ、静かな敬意だった。

転んで泣く子を、父が抱き上げる。

その温もりだけで、痛みが消えていく。

――それだけで、いいのだ。生きていける。

「珍しくニコニコしてるじゃない。」

かおるが笑って声をかけてきた。彼女はお腹をそっとなでている。

「つわりがやっと終わってね。でも、夫にはまだ“つらい”って言ってるけど。少しは楽させてもらわないとね。」

冗談めかした声に、志乃も笑った。かおるはいつも強く、そしてかしこい。

蒸しあがった餅米を臼に運ぶのは男衆の役目だ。

ぺったん、ぺったん。子どもたちが掛け声をそろえる。

転んで尻もちをつく子、笑い合う声。

つきあがった餅を女性たちが丸め、志乃と母のなつは、のし餅を整える。今日来る客に配る分だ。

楽しい餅つきの最中、店の準備のために志乃はなつと百合金商店を後にした。

 

 昼下がり。

「金丸うどん」に、紀一が現れた。

志乃は洗い物に追われていて、気づいたのはなつに呼ばれてからだった。

「きいっちゃん、いつ帰ってきたの?」

「昨日。久しぶりに帰ってきて安心したのか、昼前までぐっすり。」

「そっか、夏以来だもんね。」

そう口にした瞬間、志乃の胸に夏の日がよみがえった。

あの時、紀一は何かを言いかけていた。

(何だったのか……今、聞こうか……)

「志乃、このあと、時間ある?」

「……え?」

「仁朗には言ってある。」

診療所に行く予定だったが、根回し済みらしい。志乃は小さくうなずいた。

ちょうどその時、香ばしい匂いとともに、焼きたての餅が運ばれてきた。


 小春日和の午後、紀一に導かれて歩いた道は、懐かしい丘へと続いていた。

幼い頃、紀一と佳乃、そして時々仁朗と一緒に「探検」と称して駆け回った丘。

そこは、足楢そくならの町とその奥の海を一望できる場所。

振り返ると反対側にも海が見える。

普段生活していると気付かないが、ここは海に突き出した半島なのだ。

風の音、木の匂い、そして冬の光。

「いい眺めだよな。」

紀一がぽつりとつぶやいて、草の上に座った。

志乃はうなずいて、紀一の横に腰を下ろした。

「志乃さ、夢ってある?」

「夢……?」

問われて、言葉が見つからなかった。

決められた縁談、家業の手伝い――自分の未来は、これからも“誰かが敷いた道”の上にあると思っていた。

けれど、今は違う。

「勉強を続けたい。」

その言葉が、自然に口をついて出た。

「何のために?」

「……わからない。でも、そうしたいと思う。」

自分の中に小さな炎のようなものを感じながら、志乃は笑った。

「志乃。俺はさ」

紀一は静かに、志乃の手に自分の手を重ねた。

「俺は――好きな人と足楢で生きていきたい。」

冷えた指先に、紀一のぬくもりが伝わってくる。

志乃は一瞬、頭が真っ白になった。そして、その後にこみあげてきた思い。

――どうしてもこの手を握り返すことはできない。

 

 数日前、仁朗から聞いた話が胸をよぎる。

紀一は奉公先の娘と結婚し、いずれその家の跡継ぎになるという。

志乃は驚いた。

彼は不破材木店の長男だ。いずれ足楢に戻るものと信じて疑わなかった。


 紀一の気持ちが重なる手から伝わってくる。

本当は……本当は……この手を握り返したい。

今までは、紀一の気持ちがよくわからなかった。

ーー幼なじみ。

だから本を貸してくれたり、気にかけてくれるのだろう。

でも、もしかすると……

紀一の自分に対する気持ちが確信に変わった。

だけど……

ただのうどん屋の娘と大店おおだなのお嬢様。

どちらが紀一にとって、そして紀一の家にとって価値があるかは誰にでもわかる。

こうやって自分の初恋は終わる。

終わらせるしかないのだ。


「きいっちゃん、足楢が好きだもんね。」

ようやく絞り出した言葉が、冷たい風に溶けた。

本当は違う言葉を言いたかった。けれど、どうしても言えない。

「お稲荷様にお参りしてきたよ。きいっちゃんの健康と、商売繁盛を。」

志乃は自分の手の代わりに、お守りを彼の手に握らせた。

そして、遠くの海を見た。

紀一の表情を見る勇気は、どうしても持てなかった。

 

 丘を下りる帰り道。

冬枯れの道に、ひときわ鮮やかな紅が目を引いた。

――山茶花さざんか

赤い花弁が、冷たい風の中で凛と揺れている。

紀一が昔、志乃に贈った櫛にも、この花が描かれていた。

その意味を、いまなら少しだけ分かる気がした。

たとえ誰にも気づかれなくても、凍える風の中で咲く花のように――。

志乃は生きていく。ひたむきに、まっすぐに。


 年の瀬の空に雪がちらついた。

冷たい光の下、志乃の心には、確かな温もりが一つだけ残っていた。

それは、誰にも渡さぬ、小さな希望の灯だった。


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