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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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13/35

 壮次の父のもとへは、あの日から三日続けて通った。

処置の翌日はまだ熱が高く、傷を洗えば濁った膿が絶え間なく流れ出た。

二日目にはそれが薄くなった。三日目には熱も引き、壮次の父はようやく上体を起こせるようになった。

仁朗は初めこそ青ざめていたが、翌日には率先して傷を洗っていた。

手際よく、ためらいもない。彼の順応力には、神近も舌を巻いていた。

志乃はといえば、「お尻を異性に見られるのは嫌ではないか」と最初は遠慮と恥じらいがあった。

だが、神近の助手としての使命感がその羞恥を凌駕した。

目の前の命を救うという一念が、少女の中に眠っていた何かを確かに目覚めさせていた。

あの夜、神近が間に合わなかったら――そう思うと、志乃はぞっとした。

人の命の灯が消える瞬間を、神近と過ごす日々の中で幾度となく見てきた。

人は生まれ、死ぬ。それは避けられぬことわりだ。

だが、神近は言う。

「その間にある光を守れるのなら、それを医が担うのだ」と。

その信念が、いつしか志乃の中にも根を下ろしていた。

 

 最近は紀一に借りた文学書よりも、神近が貸してくれる医書を読みふける日々。

紙の上の難解な文字に、命の重みを感じていた。

壮次の父が歩けるようになった日、彼は深々と頭を下げた。

「先生、それに皆、本当に……ありがとな。」

普段の強面が嘘のような柔らかな表情だった。

だが、すぐに顔を引き締めて言葉を継いだ。

「中畑のごろつきが、先生の人相書を持ってたらしい。……どうか気をつけて。」

神近は神妙に頷き、淡々と薬を包んで手渡した。

その静けさの裏に、なにか決意のような光があった。

 

 数日後、神近は和総かずさへの用事を理由に、仁朗を連れて旅立った。

材木を積んだ船が足楢と和総の間を往復しており、それに同乗しての旅だという。

紀一も時折この船で実家に帰る。

志乃は見送りながら、胸の奥に小さな棘のような痛みを覚えた。

——自分が男だったら、連れていってもらえただろうか。

その思いが浮かんだ瞬間、着物の袖に描かれた菊花の文様が目に入った。

変えられぬ現実の印のように見えて、ふと涙が込み上げた。

「人を羨ましいと思うのは、自分が本気で頑張れていない時。」

母の言葉を思い出し、志乃は両頬をぱんと叩いた。

自分を律するように。

 

 窓の外では、銀杏が黄金色に染まっていた。

季節の移ろいに気づいたのは久しぶりだった。

志乃は、神近に頼まれていた仕事を思い出した。

——庭のナツメとサネブトナツメの果実を収穫しておくように、と。

籠を手に庭へ出る。

風が冷たく、空は高い。

熟したなつめを一つ口に含むと、ほの甘い味が舌に広がる。

対して、サネブトナツメの実は酸味が強く、口の奥をきゅっと締めつけた。

サネブトナツメの種は酸棗仁という生薬となる。名前の通りの味だ。

「これが、眠りを整える薬になるのか……」

神近の言葉を思い出しながら、籠に赤い実を次々と入れていく。

収穫を終えるころには、指先に棗の香りで染み付いていた。

神近が初めてこの庭を訪れたとき、「ここは薬草園のようですね」と驚いていた。

薬の原料になる草木が多い。誰が植えたのかは分からない。

けれど志乃は、蔵で見つけたあの異国の医書の持ち主――つまり、かつてこの家に住んでいた者が植えたのだと感じていた。

それが父なのかもしれない。

けれど母を悲しませたくなくて、志乃は確かめる勇気を持てなかった。

 

 神近の手書きの紙には、こうある。

「サネブトナツメは実から種を取り出して、軽く湯に通すこと。」

その通りに準備していると、背後から肩を叩かれた。

「やっほー!」

驚いて振り返ると、隣に住む小なつがいた。

「もう、心臓が飛び出すかと思った。」

「さっきから何度も呼んでるのに、全然気づかないんだもん。」

頬をふくらませる小なつの無邪気さに、志乃は思わず笑った。

小なつは棗をつまみ食いしながら言う。

「志乃、久しぶりに家にいるね。みんな心配してるよ。」

「そう? ちょっと忙しかっただけ。」

「ねえねえ、仁朗さんって何か欲しいものないかな?」

志乃は目を細めた。まさか小なつまでもが——。

「直接聞けば? きっと喜んで話すと思うよ。」

「だって、内緒で贈りたいんだもん。」

「……そうね。絵筆と紙なんてどう? あの人、絵が上手だから。」

「ほんと? 志乃、ありがと!」

小なつは志乃をきゅっと抱きしめたと思ったら、風のように駆けていった。

その背を見送りながら、志乃は微笑んだ、

 

 厨房で火を起こし、湯を沸かす。

サネブトナツメの種と棗をそれぞれ湯に通し、ざるに上げて水気を切る。

居間を通り過ぎようとしたとき、母の声が聞こえた。

「まだ子どもですのに……」

「もう十六でしょう。いい話ですよ。」

声の主は斉万寺の住職の母らしかった。

志乃は息をのんだ。

——縁談。

居間をそっと通り抜けようとしたその瞬間、襖が開いた。

視線がぶつかる。志乃は小さく会釈し、そのまま逃げるように自室へ戻った。

しばらく息をひそめ、再び厨房に戻ると、母がざるの棗を見つめていた。

「ごめん、すぐ片づけるね。」

「これは、薬にするの?」

「うん。神近先生に頼まれて。」

母は少しだけ微笑んだように見えた。

「……やっぱりね。」

その声に、何か遠い記憶の影が滲んでいた。

志乃は棗を持って庭に出た。

 

 薄雲が空を漂い、秋の光が静かに射している。

棗をざるに広げ、天日にさらす。

その赤は、どこか血の色にも似て、命の温度を宿していた。

胸の奥でざわめく不安を押さえながら、志乃は空に向かって手を合わせた。

——神近先生がずっと足楢にいてくれますように。

風が吹き抜け、干した棗の実がかすかに鳴った。

まるで、遠くからの返事のように。


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