棗
壮次の父のもとへは、あの日から三日続けて通った。
処置の翌日はまだ熱が高く、傷を洗えば濁った膿が絶え間なく流れ出た。
二日目にはそれが薄くなった。三日目には熱も引き、壮次の父はようやく上体を起こせるようになった。
仁朗は初めこそ青ざめていたが、翌日には率先して傷を洗っていた。
手際よく、ためらいもない。彼の順応力には、神近も舌を巻いていた。
志乃はといえば、「お尻を異性に見られるのは嫌ではないか」と最初は遠慮と恥じらいがあった。
だが、神近の助手としての使命感がその羞恥を凌駕した。
目の前の命を救うという一念が、少女の中に眠っていた何かを確かに目覚めさせていた。
あの夜、神近が間に合わなかったら――そう思うと、志乃はぞっとした。
人の命の灯が消える瞬間を、神近と過ごす日々の中で幾度となく見てきた。
人は生まれ、死ぬ。それは避けられぬ理だ。
だが、神近は言う。
「その間にある光を守れるのなら、それを医が担うのだ」と。
その信念が、いつしか志乃の中にも根を下ろしていた。
最近は紀一に借りた文学書よりも、神近が貸してくれる医書を読みふける日々。
紙の上の難解な文字に、命の重みを感じていた。
壮次の父が歩けるようになった日、彼は深々と頭を下げた。
「先生、それに皆、本当に……ありがとな。」
普段の強面が嘘のような柔らかな表情だった。
だが、すぐに顔を引き締めて言葉を継いだ。
「中畑のごろつきが、先生の人相書を持ってたらしい。……どうか気をつけて。」
神近は神妙に頷き、淡々と薬を包んで手渡した。
その静けさの裏に、なにか決意のような光があった。
数日後、神近は和総への用事を理由に、仁朗を連れて旅立った。
材木を積んだ船が足楢と和総の間を往復しており、それに同乗しての旅だという。
紀一も時折この船で実家に帰る。
志乃は見送りながら、胸の奥に小さな棘のような痛みを覚えた。
——自分が男だったら、連れていってもらえただろうか。
その思いが浮かんだ瞬間、着物の袖に描かれた菊花の文様が目に入った。
変えられぬ現実の印のように見えて、ふと涙が込み上げた。
「人を羨ましいと思うのは、自分が本気で頑張れていない時。」
母の言葉を思い出し、志乃は両頬をぱんと叩いた。
自分を律するように。
窓の外では、銀杏が黄金色に染まっていた。
季節の移ろいに気づいたのは久しぶりだった。
志乃は、神近に頼まれていた仕事を思い出した。
——庭のナツメとサネブトナツメの果実を収穫しておくように、と。
籠を手に庭へ出る。
風が冷たく、空は高い。
熟した棗を一つ口に含むと、ほの甘い味が舌に広がる。
対して、サネブトナツメの実は酸味が強く、口の奥をきゅっと締めつけた。
サネブトナツメの種は酸棗仁という生薬となる。名前の通りの味だ。
「これが、眠りを整える薬になるのか……」
神近の言葉を思い出しながら、籠に赤い実を次々と入れていく。
収穫を終えるころには、指先に棗の香りで染み付いていた。
神近が初めてこの庭を訪れたとき、「ここは薬草園のようですね」と驚いていた。
薬の原料になる草木が多い。誰が植えたのかは分からない。
けれど志乃は、蔵で見つけたあの異国の医書の持ち主――つまり、かつてこの家に住んでいた者が植えたのだと感じていた。
それが父なのかもしれない。
けれど母を悲しませたくなくて、志乃は確かめる勇気を持てなかった。
神近の手書きの紙には、こうある。
「サネブトナツメは実から種を取り出して、軽く湯に通すこと。」
その通りに準備していると、背後から肩を叩かれた。
「やっほー!」
驚いて振り返ると、隣に住む小なつがいた。
「もう、心臓が飛び出すかと思った。」
「さっきから何度も呼んでるのに、全然気づかないんだもん。」
頬をふくらませる小なつの無邪気さに、志乃は思わず笑った。
小なつは棗をつまみ食いしながら言う。
「志乃、久しぶりに家にいるね。みんな心配してるよ。」
「そう? ちょっと忙しかっただけ。」
「ねえねえ、仁朗さんって何か欲しいものないかな?」
志乃は目を細めた。まさか小なつまでもが——。
「直接聞けば? きっと喜んで話すと思うよ。」
「だって、内緒で贈りたいんだもん。」
「……そうね。絵筆と紙なんてどう? あの人、絵が上手だから。」
「ほんと? 志乃、ありがと!」
小なつは志乃をきゅっと抱きしめたと思ったら、風のように駆けていった。
その背を見送りながら、志乃は微笑んだ、
厨房で火を起こし、湯を沸かす。
サネブトナツメの種と棗をそれぞれ湯に通し、ざるに上げて水気を切る。
居間を通り過ぎようとしたとき、母の声が聞こえた。
「まだ子どもですのに……」
「もう十六でしょう。いい話ですよ。」
声の主は斉万寺の住職の母らしかった。
志乃は息をのんだ。
——縁談。
居間をそっと通り抜けようとしたその瞬間、襖が開いた。
視線がぶつかる。志乃は小さく会釈し、そのまま逃げるように自室へ戻った。
しばらく息をひそめ、再び厨房に戻ると、母がざるの棗を見つめていた。
「ごめん、すぐ片づけるね。」
「これは、薬にするの?」
「うん。神近先生に頼まれて。」
母は少しだけ微笑んだように見えた。
「……やっぱりね。」
その声に、何か遠い記憶の影が滲んでいた。
志乃は棗を持って庭に出た。
薄雲が空を漂い、秋の光が静かに射している。
棗をざるに広げ、天日にさらす。
その赤は、どこか血の色にも似て、命の温度を宿していた。
胸の奥でざわめく不安を押さえながら、志乃は空に向かって手を合わせた。
——神近先生がずっと足楢にいてくれますように。
風が吹き抜け、干した棗の実がかすかに鳴った。
まるで、遠くからの返事のように。




