膿
昨日、事件が起きた。
夜道を歩いていた神近が、突然、何者かに襲われたのだ。
通りかかった近所の男が駆けつけ、不審者を追い払ったため、幸いにも軽いけがで済んだ。だが左腕には赤黒い痣が広がり、腫れ上がっている。
聞くところによると、男たちは神近を捕らえようとしたらしい。
腕を強く引かれ、転倒した拍子に手をついて痛めたのだという。
志乃は怒りに震えていた。
――病も貧しさも分け隔てなく、誰の命も救おうとするあの人に、なぜ。
村ではすぐに寄り合いが開かれ、交代で神近を護衛することが決まった。夜の外出も控えてもらうことに。
けれど、当の本人は苦笑して言った。
「子どもじゃないんですから、門限はご勘弁を。」
その言葉に仁朗の父も思わず笑ったが、志乃の胸は締めつけられるようだった。
その神近の腕に、志乃は冷やした手ぬぐいを静かに当てていた。
最近、昼の仕事を終えると、志乃は必ず神近のもとに通っている。診療の手伝いをするうちに、薬草や病の名も覚えた。
夏に多かった腸の病や化膿も減り、代わって風邪の患者が増えた。
季節の移ろいを読む――それが医の力なのだと志乃は知った。
夕刻、西日が診療所の床を橙に染めたころ、荒い息をつきながら一人の男が飛び込んできた。
「先生、父ちゃんを見てくれ!」
声の主は壮次。村でも札付きの荒くれ者で知られている。
志乃は思わず身を引いたが、神近は立ち上がりながら即答した。
「行きましょう。」
門限は初日から、破られることとなった。
仁朗の父は、材木店で務める者の中で最も体格の良い佐之助を呼び、護衛を頼んだ。
道すがら、壮次は話した。
一週間ほど前から父の尻が腫れていたが、歩くこともできなくなった。今日の昼過ぎから高熱が出てうなされている、と。
「志乃さんは――」
神近が言いかけたところで、志乃は言葉をかぶせた。
「行きます。」
仁朗の父は笑った。
「強くなったなあ。昔は姉ちゃんの後ろに隠れてたのに。」
その目尻の優しい皺が、どこか紀一を思い出させた。
壮次の家は、村はずれの川沿いにぽつんと建っていた。
戸を開けると、むっとした熱気が流れ出た。布団の上でうめく男――壮次の父。
見るからに肥えた体だが、足は象のようにむくんでいる。壮次が着物をめくると、左尻は赤黒く腫れ上がっている。
「これは……」
神近が脈を取り、軽く腫れた部分を押さえる。
「うっ……!」
苦痛に顔をゆがめる壮次の父。その息は荒く、汗にまみれていた。
「すぐに処置が必要です。清い水を――できれば沸かした湯を。」
壮次が頷き、動いた。仁朗は持ってきた薬箱から刃物と布を取り出す。志乃は鍋を火にかけた。
煮出すのは防已――オオツヅラフジの根。夏に皆で採った薬草だ。
薬湯の香が室内に立ちのぼる。湿った空気の中で、神近の声が落ち着いて響いた。
「膿がたまっています。このままではこの熱が全身に回ります。膿を出さないと命に関わるでしょう。」
「切ってくれ。」
うつろな瞳を開き、壮次の父がかすかに言った。
神近は短く息を吸い、頷いた。
「見るのが辛い方は外で。」
しかし、誰も動かなかった。
志乃は神近の視線を受け、強く頷いた。覚悟はできている。
「膿の芯は、触れるとわかります。」
神近は志乃と仁朗の手を導き、患部に触れさせた。
皮膚の下に、まるで何かがうごめいているような、粘りのある抵抗。
「……!」
志乃は息を呑んだ。
次の瞬間、神近の手元が閃いた。
刃が走り、肉を割った。
ぷつり――鈍い音と共に、黄色い膿が勢いよく噴き出す。
布で押さえた神近の手際は無駄がない。志乃は膿の匂いと流れ出る血におののきながらも、布を替え続けた。
湯を注ぎ、血を洗い流す。
布が、赤から黄へ、そしてまた赤へと染まっていく。
やがて、膿は止まり、息を荒げていた男の顔から力が抜けた。
「楽に……なった……」
その一言に、壮次の目が潤んだ。
「皆さん、お疲れさまでした。」
神近は手を洗いながら静かに言った。
その横顔には疲労の影もあったが、不思議なほど穏やかな光が宿っていた。
帰り道、志乃は月を仰いだ。
人を救うということは、血の匂いと、痛みと、恐怖の向こうにあるのかもしれない。
――あの人の優しさは、鋭い刃の覚悟と背中合わせにあるのだ。
それを思うと、志乃は胸の奥が熱くなった。
夜風が冷たく、星が滲んで見えた。
志乃は歩きながら、そっと自分の指先を見た。
膿を拭ったあの感触が、まだ消えない。
そして――あの時見た、神近のまなざしも。




