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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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12/34

 昨日、事件が起きた。

夜道を歩いていた神近が、突然、何者かに襲われたのだ。

通りかかった近所の男が駆けつけ、不審者を追い払ったため、幸いにも軽いけがで済んだ。だが左腕には赤黒い痣が広がり、腫れ上がっている。

聞くところによると、男たちは神近を捕らえようとしたらしい。

腕を強く引かれ、転倒した拍子に手をついて痛めたのだという。

志乃は怒りに震えていた。

――病も貧しさも分け隔てなく、誰の命も救おうとするあの人に、なぜ。

村ではすぐに寄り合いが開かれ、交代で神近を護衛することが決まった。夜の外出も控えてもらうことに。

けれど、当の本人は苦笑して言った。

「子どもじゃないんですから、門限はご勘弁を。」

その言葉に仁朗の父も思わず笑ったが、志乃の胸は締めつけられるようだった。

その神近の腕に、志乃は冷やした手ぬぐいを静かに当てていた。


 最近、昼の仕事を終えると、志乃は必ず神近のもとに通っている。診療の手伝いをするうちに、薬草や病の名も覚えた。

夏に多かった腸の病や化膿も減り、代わって風邪の患者が増えた。

季節の移ろいを読む――それが医の力なのだと志乃は知った。

 

 夕刻、西日が診療所の床を橙に染めたころ、荒い息をつきながら一人の男が飛び込んできた。

「先生、父ちゃんを見てくれ!」

声の主は壮次。村でも札付きの荒くれ者で知られている。

志乃は思わず身を引いたが、神近は立ち上がりながら即答した。

「行きましょう。」

門限は初日から、破られることとなった。

仁朗の父は、材木店で務める者の中で最も体格の良い佐之助を呼び、護衛を頼んだ。

道すがら、壮次は話した。

一週間ほど前から父の尻が腫れていたが、歩くこともできなくなった。今日の昼過ぎから高熱が出てうなされている、と。

「志乃さんは――」

神近が言いかけたところで、志乃は言葉をかぶせた。

「行きます。」

仁朗の父は笑った。

「強くなったなあ。昔は姉ちゃんの後ろに隠れてたのに。」

その目尻の優しい皺が、どこか紀一を思い出させた。

 

 壮次の家は、村はずれの川沿いにぽつんと建っていた。

戸を開けると、むっとした熱気が流れ出た。布団の上でうめく男――壮次の父。

見るからに肥えた体だが、足は象のようにむくんでいる。壮次が着物をめくると、左尻は赤黒く腫れ上がっている。

「これは……」

神近が脈を取り、軽く腫れた部分を押さえる。

「うっ……!」

苦痛に顔をゆがめる壮次の父。その息は荒く、汗にまみれていた。

「すぐに処置が必要です。清い水を――できれば沸かした湯を。」

壮次が頷き、動いた。仁朗は持ってきた薬箱から刃物と布を取り出す。志乃は鍋を火にかけた。

煮出すのは防已ぼうい――オオツヅラフジの根。夏に皆で採った薬草だ。

薬湯の香が室内に立ちのぼる。湿った空気の中で、神近の声が落ち着いて響いた。

「膿がたまっています。このままではこの熱が全身に回ります。膿を出さないと命に関わるでしょう。」

「切ってくれ。」

うつろな瞳を開き、壮次の父がかすかに言った。

神近は短く息を吸い、頷いた。

「見るのが辛い方は外で。」

しかし、誰も動かなかった。

志乃は神近の視線を受け、強く頷いた。覚悟はできている。

「膿の芯は、触れるとわかります。」

神近は志乃と仁朗の手を導き、患部に触れさせた。

皮膚の下に、まるで何かがうごめいているような、粘りのある抵抗。

「……!」

志乃は息を呑んだ。

次の瞬間、神近の手元が閃いた。

刃が走り、肉を割った。

ぷつり――鈍い音と共に、黄色い膿が勢いよく噴き出す。

布で押さえた神近の手際は無駄がない。志乃は膿の匂いと流れ出る血におののきながらも、布を替え続けた。

湯を注ぎ、血を洗い流す。

布が、赤から黄へ、そしてまた赤へと染まっていく。

やがて、膿は止まり、息を荒げていた男の顔から力が抜けた。

「楽に……なった……」

その一言に、壮次の目が潤んだ。

「皆さん、お疲れさまでした。」

神近は手を洗いながら静かに言った。

その横顔には疲労の影もあったが、不思議なほど穏やかな光が宿っていた。


 帰り道、志乃は月を仰いだ。

人を救うということは、血の匂いと、痛みと、恐怖の向こうにあるのかもしれない。

――あの人の優しさは、鋭い刃の覚悟と背中合わせにあるのだ。

それを思うと、志乃は胸の奥が熱くなった。

夜風が冷たく、星が滲んで見えた。

志乃は歩きながら、そっと自分の指先を見た。

膿を拭ったあの感触が、まだ消えない。

そして――あの時見た、神近のまなざしも。


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