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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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11/34

 仁朗は鼻歌まじりに歩いていた。

浮足立ったように何度も神近を追い抜いては、振り返って笑う。

神近は苦笑してその背を追い、小走りになる。

昼の日差しはまだ柔らかいが、風に秋の冷たさが混じりはじめていた。

木々は黄と紅をまぜたように色づき、風が吹くたび葉がさらさらと音を立てる。

神近は歩きながら、ふと菊花の姿を探していた。

――このあたりに咲いていないだろうか。

太兵衛に聞いてみよう。そう思いながら、久宝屋への道をたどる。

が、途中で仁朗が足を止めた。

「神様、道が違いませんか。」

眉を寄せて抗議する。

「今日は、先に少し寄りたいところがあるんです。」

「後で久宝屋に行くならいいですけど……。」

しぶしぶ、仁朗もついてきた。

 

 たどり着いたのは、金物屋。

神近は慣れたように暖簾をくぐると、店の奥から声が響いた。

「神近先生!」

駆け寄ってきたのは、店主の参治だった。

「参治さん、無理を言ってすみません。」

「とんでもない。もう用意できていますよ。」

布の上に並べられたのは、小刀よりもさらに小ぶりな刃物、釣り針のように細く曲がった金具。

その光に、仁朗が目を丸くする。

「いずれ必要になります。」

神近は静かに言った。

凜とした声に、仁朗は思わず背筋を伸ばす。

「うちの職人に手入れさせました。新しいのも一本。」

参治は最後に、小さな鋏を置いた。

それはまるで繊細な指先のような作りで、光を吸うように鈍く輝いた。

神近は鋏を手に取り、静かに開閉した。

「さすがです。」

その声音に参治は満足げにうなずいた。

「先生!」

奥から小さな男の子が駆けてくる。

神近は膝を折り、目線を合わせた。

「すっかり元気になったね。」

あの高熱の日の顔を思い出す。

あの時の細い腕、冷たい額――。

その子が今は頬を赤く染め、笑っている。

神近が目を細めて微笑む。

「うちの子の命の恩人です。何でも言ってください。」

参治夫妻が深く頭を下げる。

神近はただ、穏やかにこの瞬間を心に刻んでいた。


 金物屋を後にし、久宝屋へ向かう道。

「娘さんに会えるといいですね。」

神近が冗談めかして言うと、仁朗は胸を張った。

「今日こそ話しますよ!」

拳を握りしめ、力こぶを作る。

だが、久宝屋の暖簾を前にすると、足がすくんだ。

何度も深呼吸しては、入り口の前で止まる。

「団子屋で待っていますか。」

神近が笑う。

「いえ、気合を入れているんです!」

仁朗は強がった。だが声が震えている。

中に入ると、太兵衛は外出中。

息子が迎えに来て、手際よく生薬の確認を始めた。

神近が籠からマガキの殻とあんずの種子を取り出した。

息子はアンズの種子、杏仁きょうにんを手に取り見つめる。

「大粒で、いいですね。」

神近はうなずいた。

仁朗はそわそわと店の奥をのぞいている。

――だが、その人影は見えなかった。

代わりに、奥から夫人が現れた。

「神近先生、ようこそおいで下さいました。」

「お久しぶりです。」

しばし穏やかな挨拶を交わしたあと、神近はさりげなく尋ねた。

「娘さんは……お出かけですか。」

「ええ。嫁入りの支度で忙しくしておりまして。」

その言葉に、空気が止まった。

仁朗の顔がみるみる曇る。

神近は言葉を探し、

「……団子屋に行きますか。」と小声で言った。

「団子の気分じゃないです。」

仁朗は俯いたまま店を出た。

神近は、去っていく背中を静かに見送った。

秋風が、暖簾をぱたりと揺らした。


 しばらくして太兵衛が戻り、神近を奥の間へと案内した。

「お待たせしました。どうしてもお伝えしたいことがありまして。」

「お手紙、拝見しました。」

太兵衛は息を整え、低く言った。

「先日、和総で山鹿元医先生にお会いしました。藤木殿の取りなしで。」

「山鹿先生に……。」

神近の眉が動く。

「そこで神近先生の話をしたのですが、山鹿先生は“訪ねてきた覚えがない”と。」

「――届いていなかったのですね。」

神近の声がわずかにかすれた。

「推薦状は、二条先生に?」

「はい。本医学を学ぶなら医頼館、と教わりまして。」

「その推薦状を持って行くと、“確認のうえで連絡する”と言われました。しばらく音沙汰がなかったため、訪ねると断りの返事を受けました。理由はわかりません。」

「では……誰かが。」

太兵衛は唇を結んだ。沈黙が落ちる。

やがて、太兵衛が顔を上げる。

「直接、お会いになりますか。」

神近は息を呑んだ。

「できるのですか。」

「山鹿先生のご意向です。藤木殿が、あなたの優秀さを熱心に伝えておられました。」

神近は膝に手を置き、しばし黙考した。

差し込む日の光が、畳の上で小さく揺れる。

――数ヶ月前なら、迷わず首を縦に振っていた。

だが今、和総の空気に慣れ、志乃や仁朗、村の人々と関わる日々の中で、自分の足が根を張りつつあるのを感じていた。

「迷われますね。」

太兵衛が穏やかに言った。

ふと見ると、戻ってきていた仁朗が店に並ぶ生薬を見ていた。

「……この機を逃すと、次は難しいでしょう。」

太兵衛は真っ直ぐに神近を見つめる。

「分かりました。」

神近は深く頭を下げた。

「お取り次ぎ、お願いいたします。」


 帰り道、夕暮れの風が頬を撫でた。

久宝屋に預けたトリカブトの根の匂いが、まだ袖に残っている。

「急がないと……。」

神近は小さくつぶやいた。

横を歩く仁朗が、口をもごもごさせている。

「先生、甘いですね。」

「それは“甘草(かんぞう)”です。“甘い草”と書きます。」

「……苦いよりはいいです。」

仁朗は笑おうとしたが、笑みが引きつった。

神近はその横顔を見つめ、胸の奥に重いものを抱えた。

――甘草のように、甘く、そして少し苦い秋の風。

その夜、神近は眠れなかった。

机の上の鋏が、月明かりを受けて微かに光っていた。



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