機
仁朗は鼻歌まじりに歩いていた。
浮足立ったように何度も神近を追い抜いては、振り返って笑う。
神近は苦笑してその背を追い、小走りになる。
昼の日差しはまだ柔らかいが、風に秋の冷たさが混じりはじめていた。
木々は黄と紅をまぜたように色づき、風が吹くたび葉がさらさらと音を立てる。
神近は歩きながら、ふと菊花の姿を探していた。
――このあたりに咲いていないだろうか。
太兵衛に聞いてみよう。そう思いながら、久宝屋への道をたどる。
が、途中で仁朗が足を止めた。
「神様、道が違いませんか。」
眉を寄せて抗議する。
「今日は、先に少し寄りたいところがあるんです。」
「後で久宝屋に行くならいいですけど……。」
しぶしぶ、仁朗もついてきた。
たどり着いたのは、金物屋。
神近は慣れたように暖簾をくぐると、店の奥から声が響いた。
「神近先生!」
駆け寄ってきたのは、店主の参治だった。
「参治さん、無理を言ってすみません。」
「とんでもない。もう用意できていますよ。」
布の上に並べられたのは、小刀よりもさらに小ぶりな刃物、釣り針のように細く曲がった金具。
その光に、仁朗が目を丸くする。
「いずれ必要になります。」
神近は静かに言った。
凜とした声に、仁朗は思わず背筋を伸ばす。
「うちの職人に手入れさせました。新しいのも一本。」
参治は最後に、小さな鋏を置いた。
それはまるで繊細な指先のような作りで、光を吸うように鈍く輝いた。
神近は鋏を手に取り、静かに開閉した。
「さすがです。」
その声音に参治は満足げにうなずいた。
「先生!」
奥から小さな男の子が駆けてくる。
神近は膝を折り、目線を合わせた。
「すっかり元気になったね。」
あの高熱の日の顔を思い出す。
あの時の細い腕、冷たい額――。
その子が今は頬を赤く染め、笑っている。
神近が目を細めて微笑む。
「うちの子の命の恩人です。何でも言ってください。」
参治夫妻が深く頭を下げる。
神近はただ、穏やかにこの瞬間を心に刻んでいた。
金物屋を後にし、久宝屋へ向かう道。
「娘さんに会えるといいですね。」
神近が冗談めかして言うと、仁朗は胸を張った。
「今日こそ話しますよ!」
拳を握りしめ、力こぶを作る。
だが、久宝屋の暖簾を前にすると、足がすくんだ。
何度も深呼吸しては、入り口の前で止まる。
「団子屋で待っていますか。」
神近が笑う。
「いえ、気合を入れているんです!」
仁朗は強がった。だが声が震えている。
中に入ると、太兵衛は外出中。
息子が迎えに来て、手際よく生薬の確認を始めた。
神近が籠からマガキの殻とあんずの種子を取り出した。
息子はアンズの種子、杏仁を手に取り見つめる。
「大粒で、いいですね。」
神近はうなずいた。
仁朗はそわそわと店の奥をのぞいている。
――だが、その人影は見えなかった。
代わりに、奥から夫人が現れた。
「神近先生、ようこそおいで下さいました。」
「お久しぶりです。」
しばし穏やかな挨拶を交わしたあと、神近はさりげなく尋ねた。
「娘さんは……お出かけですか。」
「ええ。嫁入りの支度で忙しくしておりまして。」
その言葉に、空気が止まった。
仁朗の顔がみるみる曇る。
神近は言葉を探し、
「……団子屋に行きますか。」と小声で言った。
「団子の気分じゃないです。」
仁朗は俯いたまま店を出た。
神近は、去っていく背中を静かに見送った。
秋風が、暖簾をぱたりと揺らした。
しばらくして太兵衛が戻り、神近を奥の間へと案内した。
「お待たせしました。どうしてもお伝えしたいことがありまして。」
「お手紙、拝見しました。」
太兵衛は息を整え、低く言った。
「先日、和総で山鹿元医先生にお会いしました。藤木殿の取りなしで。」
「山鹿先生に……。」
神近の眉が動く。
「そこで神近先生の話をしたのですが、山鹿先生は“訪ねてきた覚えがない”と。」
「――届いていなかったのですね。」
神近の声がわずかにかすれた。
「推薦状は、二条先生に?」
「はい。本医学を学ぶなら医頼館、と教わりまして。」
「その推薦状を持って行くと、“確認のうえで連絡する”と言われました。しばらく音沙汰がなかったため、訪ねると断りの返事を受けました。理由はわかりません。」
「では……誰かが。」
太兵衛は唇を結んだ。沈黙が落ちる。
やがて、太兵衛が顔を上げる。
「直接、お会いになりますか。」
神近は息を呑んだ。
「できるのですか。」
「山鹿先生のご意向です。藤木殿が、あなたの優秀さを熱心に伝えておられました。」
神近は膝に手を置き、しばし黙考した。
差し込む日の光が、畳の上で小さく揺れる。
――数ヶ月前なら、迷わず首を縦に振っていた。
だが今、和総の空気に慣れ、志乃や仁朗、村の人々と関わる日々の中で、自分の足が根を張りつつあるのを感じていた。
「迷われますね。」
太兵衛が穏やかに言った。
ふと見ると、戻ってきていた仁朗が店に並ぶ生薬を見ていた。
「……この機を逃すと、次は難しいでしょう。」
太兵衛は真っ直ぐに神近を見つめる。
「分かりました。」
神近は深く頭を下げた。
「お取り次ぎ、お願いいたします。」
帰り道、夕暮れの風が頬を撫でた。
久宝屋に預けたトリカブトの根の匂いが、まだ袖に残っている。
「急がないと……。」
神近は小さくつぶやいた。
横を歩く仁朗が、口をもごもごさせている。
「先生、甘いですね。」
「それは“甘草”です。“甘い草”と書きます。」
「……苦いよりはいいです。」
仁朗は笑おうとしたが、笑みが引きつった。
神近はその横顔を見つめ、胸の奥に重いものを抱えた。
――甘草のように、甘く、そして少し苦い秋の風。
その夜、神近は眠れなかった。
机の上の鋏が、月明かりを受けて微かに光っていた。




