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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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10/34

 まだ、源蔵はまともに言葉を発せられない。

志乃は膝の上に源蔵の頭をそっとのせ、震える指で湯飲みを支えた。

塩と砂糖を溶かした水をほんの少し、唇に触れさせる。

だが、すぐにむせた。

志乃は慌てて源蔵を横向きにし、背をやさしく叩く。

細い息が喉を通り抜け、かすかな安堵が胸に落ちた。

もう一度、ほんのひと口。今度は、喉が静かに動いた。

飲み込めた――。

志乃は息を詰め、もう一滴、もう一滴と、時間をかけて水を含ませた。

才蔵が店に戻って母に事情を伝えに行った。夜には母も来るという。

確かに、志乃は源蔵から離れられない。

水、薬、団扇の風――その繰り返し。

源蔵の体温が少しずつ人の温度へと戻っていくのを感じながら、志乃は自分に言い聞かせた。

いま、この命をつなぐ手立ては、これしかないのだ。


「お腹すいただろう。代わるよ、志乃。」

才蔵が襖を開け、柔らかな声をかけた。

「ありがとう。でも大丈夫。」

志乃はいったん部屋を出たものの、すぐにお膳を抱えて戻ってきた。

「ゆっくりしてきたら?」

「そうもいかないよ。」

神近の姿はもうない。

――自分が見ていなければ。

その思いが志乃を立たせていた。だが、心の奥では焦燥がじわじわと広がっていた。

源蔵には、まだ尿意がない。

「筋が融けてしまえば、命は危うい。」

神近の言葉が、記憶の底から響くように思い出される。

 

「喉、渇いてる?」

志乃が問うと、源蔵は微かに頷いた。

その唇から、掠れた声がこぼれた。

「……すまない。」

志乃は思わず目を見開いた。

初めて聞く、謝罪の言葉。

だが源蔵は、視線を逸らしたままだ。

志乃は答えず、小さな急須を傾けて薬湯を飲ませた。


そのとき、襖が小さく叩かれた。

「どうぞ。」

ふすまを開けて入ってきたのは、母のなつだった。

源蔵と志乃の姿を一瞥して、表情が引き締まる。

「手伝うこと、ある?」

「……水をお願い。」

短い言葉のやりとり。それだけで通じた。

なつは家のことを一通り片づけ、志乃の着替えまで持ってきてくれた。

「ありがとう。」

「あなたも、ちゃんと寝るのよ。」

なつの笑顔に、志乃の喉の奥が熱くなった。


 夜が深くなる。

風鈴の音も止まり、団扇の風が静けさを運ぶ。

そのころ神近が戻ってきた。

脈、舌、皮膚、そして尿の有無。

「痛みますか?」

神近は源蔵の太ももを押さえた。

源蔵が眉間にしわを寄せた。

「筋が傷んで、熱とともに体を蝕んでいます。水をもっと摂り、尿を出さないと。」

才蔵に薬を煮出すよう指示しながら、神近は穏やかに続けた。

「無理をすれば色んな臓物が次々に傷んでいきます。いまは体を休めること、それが最も大切です。」

志乃はその言葉を噛み締めた。

壊れゆく“筋”――。

それはまるで、長く絡まった家族の“絆”のようでもあった。

傷つき、誤解されても、それでも互いを支えねば命は続かない。

 

神近と平蔵が帰ったあと、志乃は一人、源蔵の手足を揉み始めた。

最初はためらいがあったが、触れた皮膚の熱が、かすかに和らいでいく。

その温度の変化に、志乃の胸が締めつけられた。

眠気が押し寄せ、志乃はふすまに背を預けた。

いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

はっと目を開けると、膝の上には掛け物がかけられていた。

源蔵の穏やかな寝息が、夜の静寂に溶けている。

頬に触れると、まだわずかに熱い。

志乃は団扇でゆっくりと風を送り、夜を見守った。

 

 ――カタ。

ふすまの音に目を覚ますと、源蔵が壁に寄りかかっていた。

「厠……?」

「あぁ。」

志乃はすぐに彼の脇に体を滑り込ませる。

「大丈夫?」

「……あぁ。」

足元がおぼつかない。志乃は思わず腕を伸ばした。

そこへ才蔵が通りかかり、志乃は安堵の息を漏らす。

朝の光が射し込み、台所の水面に反射する。

志乃は米をとぎながら、目を細めた。

――まだ、終わっていない。

源蔵の筋が再び熱を帯びる前に、体の奥から冷やしていかねば。

その背に、さよの声が届いた。

「志乃ちゃん、本当にありがとうね。夜通しついてくれて……。」

志乃は微笑み、粥を二つの茶碗に盛った。

「源蔵さんが頑張って薬も水も飲んでくれましたから。」

「志乃ちゃん、ごめんね。あの子、いつも……。」

「気にしていません。」

志乃は言いながら、自分の胸が少し痛むのを感じた。

嘘ではない。けれど、真実でもない。

――本当は、ずっと気になっていた。なぜ避けられるのか。

だから、思いきって尋ねた。

「どうして……源蔵さんは、私と話したくないのでしょうか。」

さよの目が泳いだ。

「志乃ちゃんのお父さんのこと、なんだけど――」

言葉が続く前に、ガタン、と遠くで音がした。

志乃が駆け寄ると、源蔵が倒れている。

才蔵が支えようとしていた。

志乃は息を呑み、すぐに駆け寄った。

源蔵の額に触れると、冷や汗が滲んでいた。

 

急いで粥を持ち帰り、少しずつ口に含ませる。

吐き気に顔をしかめながらも、源蔵は飲み込んだ。

そこへ神近と仁朗が現れる。

「よく頑張りましたね。」

神近が脈を取り、腹部に触れ、太ももを押した。

「熱は引いていますが、筋がまだ傷んでいる。水を多く、痛みを感じるときは動かないこと。」

そして、新しい薬を袋から取り出す。

志乃は静かに頷いた。

――壊れた筋も、きっと再び繋がる。

そう信じた。


志乃は神近の指示で仮眠をとることになった。

確かに昨晩はまともに寝ていない。その提案に一瞬迷ったが、ここは素直になる時だ。

神近のいる安心感の中、志乃は眠りの世界に落ちていった。

はっと目が開いた時、ずいぶん長く寝てしまったように感じた。

さっと髪や服の乱れを直して、源蔵の部屋へと足を急がせる。

中には仁朗と才蔵、そして座椅子に座った源蔵が目に入った。そして一升瓶が二本。

「今日の目標だってさ。」

仁朗がその一升瓶を指さす。

神近の説明を受け、源蔵は頑張って水分をとっている。

「結構甘みも塩みも強いけどこれくらいがいいんだと。神様はどこでこんな事を学んできたんだろうな。」

才蔵は一升瓶の中の、糖と塩の入った水を少量湯飲みに注いで、志乃に差し出した。

口に含むと確かに塩辛く感じる。

子どもの声が聞こえた気がして、志乃は部屋を出た。

声の方に向かうと、かおるが娘のたえを連れて来ていた。

神近はかおるとさよに対して、源蔵の食事について説明していた。

志乃は幼い子どもはあまり得意ではないが、たえは懐いてくれている。

たえは志乃の姿をみて駆け寄って、背中に乗ろうと跳ねる。

志乃はしゃがんで、たえをおぶった。

神近の説明を聞きながらも、志乃はたえが好きな歌を口ずさみ、ゆっくり歩く。

「志乃ちゃん、疲れているから。」

説明が終わったところで、さよが孫娘をかおるに引き渡した。

神近が見えなくなると、かおるがにやにやしながら志乃を肘で小突いた。

「神近先生、かっこいいね。」

「大変な時に何言っているの。」

志乃はあきれ顔で返す。でも、神近が褒められるのは手放しで嬉しいのだ。少し口が綻んだ。


神近によると尿も出てきたため、この調子で薬と水分を摂っていけばいいとの事。

志乃は今日も泊まり込むつもりでいたが、家族に十分説明したと神近に説得され、帰宅することとなった。

 

それからの日々、志乃と神近は連日通い、源蔵の回復を見守った。

七日後には、源蔵の顔にいつも通りの血色が戻っていた。

一とさよ、そして源蔵が深く頭を下げた。

玄関先で味噌と醤油を抱える志乃に、源蔵が近づく。

「志乃……ありがとう。」

初めて真正面から視線が合った。

その手に紙束が握られている。

「うちに残っていた。本当は、お前の家のものらしい。」

志乃はそれを受け取り、うなずいた。

その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた気がした。

 

 帰り道、神近が川辺で足を止めた。

白い花を抱いた不思議な草を指差す。

「オケラです。今回、この花の根が薬になりました。」

夕陽が花弁を透かし、金の輪のような光を放っている。

志乃は思う。

――知ること、学ぶことは、人を救う力になるのだと。

神近の背中を追いながら、志乃は胸の奥に熱いものを抱いていた。

それは、もう苦しみの熱ではなかった。

新しい“命のぬくもり”だった。


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