筋
まだ、源蔵はまともに言葉を発せられない。
志乃は膝の上に源蔵の頭をそっとのせ、震える指で湯飲みを支えた。
塩と砂糖を溶かした水をほんの少し、唇に触れさせる。
だが、すぐにむせた。
志乃は慌てて源蔵を横向きにし、背をやさしく叩く。
細い息が喉を通り抜け、かすかな安堵が胸に落ちた。
もう一度、ほんのひと口。今度は、喉が静かに動いた。
飲み込めた――。
志乃は息を詰め、もう一滴、もう一滴と、時間をかけて水を含ませた。
才蔵が店に戻って母に事情を伝えに行った。夜には母も来るという。
確かに、志乃は源蔵から離れられない。
水、薬、団扇の風――その繰り返し。
源蔵の体温が少しずつ人の温度へと戻っていくのを感じながら、志乃は自分に言い聞かせた。
いま、この命をつなぐ手立ては、これしかないのだ。
「お腹すいただろう。代わるよ、志乃。」
才蔵が襖を開け、柔らかな声をかけた。
「ありがとう。でも大丈夫。」
志乃はいったん部屋を出たものの、すぐにお膳を抱えて戻ってきた。
「ゆっくりしてきたら?」
「そうもいかないよ。」
神近の姿はもうない。
――自分が見ていなければ。
その思いが志乃を立たせていた。だが、心の奥では焦燥がじわじわと広がっていた。
源蔵には、まだ尿意がない。
「筋が融けてしまえば、命は危うい。」
神近の言葉が、記憶の底から響くように思い出される。
「喉、渇いてる?」
志乃が問うと、源蔵は微かに頷いた。
その唇から、掠れた声がこぼれた。
「……すまない。」
志乃は思わず目を見開いた。
初めて聞く、謝罪の言葉。
だが源蔵は、視線を逸らしたままだ。
志乃は答えず、小さな急須を傾けて薬湯を飲ませた。
そのとき、襖が小さく叩かれた。
「どうぞ。」
ふすまを開けて入ってきたのは、母のなつだった。
源蔵と志乃の姿を一瞥して、表情が引き締まる。
「手伝うこと、ある?」
「……水をお願い。」
短い言葉のやりとり。それだけで通じた。
なつは家のことを一通り片づけ、志乃の着替えまで持ってきてくれた。
「ありがとう。」
「あなたも、ちゃんと寝るのよ。」
なつの笑顔に、志乃の喉の奥が熱くなった。
夜が深くなる。
風鈴の音も止まり、団扇の風が静けさを運ぶ。
そのころ神近が戻ってきた。
脈、舌、皮膚、そして尿の有無。
「痛みますか?」
神近は源蔵の太ももを押さえた。
源蔵が眉間にしわを寄せた。
「筋が傷んで、熱とともに体を蝕んでいます。水をもっと摂り、尿を出さないと。」
才蔵に薬を煮出すよう指示しながら、神近は穏やかに続けた。
「無理をすれば色んな臓物が次々に傷んでいきます。いまは体を休めること、それが最も大切です。」
志乃はその言葉を噛み締めた。
壊れゆく“筋”――。
それはまるで、長く絡まった家族の“絆”のようでもあった。
傷つき、誤解されても、それでも互いを支えねば命は続かない。
神近と平蔵が帰ったあと、志乃は一人、源蔵の手足を揉み始めた。
最初はためらいがあったが、触れた皮膚の熱が、かすかに和らいでいく。
その温度の変化に、志乃の胸が締めつけられた。
眠気が押し寄せ、志乃はふすまに背を預けた。
いつの間にか眠りに落ちていたらしい。
はっと目を開けると、膝の上には掛け物がかけられていた。
源蔵の穏やかな寝息が、夜の静寂に溶けている。
頬に触れると、まだわずかに熱い。
志乃は団扇でゆっくりと風を送り、夜を見守った。
――カタ。
ふすまの音に目を覚ますと、源蔵が壁に寄りかかっていた。
「厠……?」
「あぁ。」
志乃はすぐに彼の脇に体を滑り込ませる。
「大丈夫?」
「……あぁ。」
足元がおぼつかない。志乃は思わず腕を伸ばした。
そこへ才蔵が通りかかり、志乃は安堵の息を漏らす。
朝の光が射し込み、台所の水面に反射する。
志乃は米をとぎながら、目を細めた。
――まだ、終わっていない。
源蔵の筋が再び熱を帯びる前に、体の奥から冷やしていかねば。
その背に、さよの声が届いた。
「志乃ちゃん、本当にありがとうね。夜通しついてくれて……。」
志乃は微笑み、粥を二つの茶碗に盛った。
「源蔵さんが頑張って薬も水も飲んでくれましたから。」
「志乃ちゃん、ごめんね。あの子、いつも……。」
「気にしていません。」
志乃は言いながら、自分の胸が少し痛むのを感じた。
嘘ではない。けれど、真実でもない。
――本当は、ずっと気になっていた。なぜ避けられるのか。
だから、思いきって尋ねた。
「どうして……源蔵さんは、私と話したくないのでしょうか。」
さよの目が泳いだ。
「志乃ちゃんのお父さんのこと、なんだけど――」
言葉が続く前に、ガタン、と遠くで音がした。
志乃が駆け寄ると、源蔵が倒れている。
才蔵が支えようとしていた。
志乃は息を呑み、すぐに駆け寄った。
源蔵の額に触れると、冷や汗が滲んでいた。
急いで粥を持ち帰り、少しずつ口に含ませる。
吐き気に顔をしかめながらも、源蔵は飲み込んだ。
そこへ神近と仁朗が現れる。
「よく頑張りましたね。」
神近が脈を取り、腹部に触れ、太ももを押した。
「熱は引いていますが、筋がまだ傷んでいる。水を多く、痛みを感じるときは動かないこと。」
そして、新しい薬を袋から取り出す。
志乃は静かに頷いた。
――壊れた筋も、きっと再び繋がる。
そう信じた。
志乃は神近の指示で仮眠をとることになった。
確かに昨晩はまともに寝ていない。その提案に一瞬迷ったが、ここは素直になる時だ。
神近のいる安心感の中、志乃は眠りの世界に落ちていった。
はっと目が開いた時、ずいぶん長く寝てしまったように感じた。
さっと髪や服の乱れを直して、源蔵の部屋へと足を急がせる。
中には仁朗と才蔵、そして座椅子に座った源蔵が目に入った。そして一升瓶が二本。
「今日の目標だってさ。」
仁朗がその一升瓶を指さす。
神近の説明を受け、源蔵は頑張って水分をとっている。
「結構甘みも塩みも強いけどこれくらいがいいんだと。神様はどこでこんな事を学んできたんだろうな。」
才蔵は一升瓶の中の、糖と塩の入った水を少量湯飲みに注いで、志乃に差し出した。
口に含むと確かに塩辛く感じる。
子どもの声が聞こえた気がして、志乃は部屋を出た。
声の方に向かうと、かおるが娘のたえを連れて来ていた。
神近はかおるとさよに対して、源蔵の食事について説明していた。
志乃は幼い子どもはあまり得意ではないが、たえは懐いてくれている。
たえは志乃の姿をみて駆け寄って、背中に乗ろうと跳ねる。
志乃はしゃがんで、たえをおぶった。
神近の説明を聞きながらも、志乃はたえが好きな歌を口ずさみ、ゆっくり歩く。
「志乃ちゃん、疲れているから。」
説明が終わったところで、さよが孫娘をかおるに引き渡した。
神近が見えなくなると、かおるがにやにやしながら志乃を肘で小突いた。
「神近先生、かっこいいね。」
「大変な時に何言っているの。」
志乃はあきれ顔で返す。でも、神近が褒められるのは手放しで嬉しいのだ。少し口が綻んだ。
神近によると尿も出てきたため、この調子で薬と水分を摂っていけばいいとの事。
志乃は今日も泊まり込むつもりでいたが、家族に十分説明したと神近に説得され、帰宅することとなった。
それからの日々、志乃と神近は連日通い、源蔵の回復を見守った。
七日後には、源蔵の顔にいつも通りの血色が戻っていた。
一とさよ、そして源蔵が深く頭を下げた。
玄関先で味噌と醤油を抱える志乃に、源蔵が近づく。
「志乃……ありがとう。」
初めて真正面から視線が合った。
その手に紙束が握られている。
「うちに残っていた。本当は、お前の家のものらしい。」
志乃はそれを受け取り、うなずいた。
その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた気がした。
帰り道、神近が川辺で足を止めた。
白い花を抱いた不思議な草を指差す。
「オケラです。今回、この花の根が薬になりました。」
夕陽が花弁を透かし、金の輪のような光を放っている。
志乃は思う。
――知ること、学ぶことは、人を救う力になるのだと。
神近の背中を追いながら、志乃は胸の奥に熱いものを抱いていた。
それは、もう苦しみの熱ではなかった。
新しい“命のぬくもり”だった。




