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さんさ 志乃の医薬譚  作者: 朝久野智秋
足楢編

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 海は今日も、何事もなかったように白波を打ち寄せては引いていく。

目の前に広がるのは、どこまでも続く蒼い海。だが、ただの風景ではない。

この海の向こうには、異国の地があり、知らない誰かが同じように海を見つめているかもしれない.。

――そんな想像が、志乃の胸をかすかに震わせた。

「今日こそ、何かが起こるかもしれない」

そんな淡い予感は、波間に揺れる夢のように、心の奥でかすかに灯り続けている。

けれど、現実の自分は海月くらげのようだ。

美しく空を舞う飛魚に憧れながらも、流されるまま、ただ生かされている。


 昨夜、久しぶりにあの夢を見た。

温かい手が頭を撫で、低く落ち着いた声が自分を褒めてくれた夢。

でもその優しさは、突然訪れる暗闇と共に消え去った。

何度も呼んでも、ただ自分の声だけがこだました。

目覚めた時、胸の奥に、ぽっかりと穴が空いていた。

「どこに行ってしまったのだろう……」

砂に文字を書き写しながら、心を落ち着かせる。

書字と、浜辺での海苔採り――それが志乃の日課だった。


 今日は少し、長居しすぎた。

そろそろ戻らなければと腰を上げた、そのとき。

砂浜の先、海風に揺れる人影が視界の端に映った。

次の瞬間、その人影は崩れるように倒れた。

「……え?」

一瞬、時が止まる。

だが、次の瞬間、志乃の身体は本能的に走り出していた。

息を切らして駆け寄り、砂にまみれた顔を拭うと、男がうっすら目を開け、また閉じた。

「誰か……!」

辺りを見渡すが、誰もいない。

志乃は転がるように海辺の材木屋へ走った。

「仁ちゃん!浜で人が倒れている!」

作業中の仁朗じろうたちが驚き、志乃について浜へ向かった。そして、総出で倒れた男を材木店に運びこんだ。


 その男は、見たことのない顔だった。

肌は白く、鼻梁が高い。艶のある巻き毛が額にかかり、和装でありながらどこか異国の香りをまとっている。

「熱がある……」

額に濡れた手ぬぐいを乗せながら、志乃はそっとうちわで風を送った。

その顔は眠っているように穏やかで、それがかえって不安を誘った。

うちわの風で髪が揺れる。

まぶたが震えた後、ゆっくりと男が目を開いた。

「ここは……」

低く、落ち着いた声だった。夢の中のあの声に似ているかと思ったが、気のせいだろう。

「あんた、気がついたかい。この子が倒れているのを見つけてくれたんだよ。

志乃ちゃん、こっちはいいからいったん店に戻りなさい。」

仁朗の母の言葉に、志乃は首を横に振った。

なぜか、この場を離れてはいけない気がした。


 男は頭を押さえながらゆっくりと起き上がり、深く礼をする。

「ご迷惑をおかけしました……」

そのとき、物陰から泣き声が響いた。

走ってきたのは仁朗の姉・幸と、浩太だ。幹太は幸に抱きかかえられていた。

「父さん、幹太の腕がおかしいの!」

幸の声は切羽詰まっていた。

仁朗の父が幸に聞いた。

「怪我でもしたのか。」

「特にけがはないみたいだけど・・・」

幸と父のやり取りを聞いている中で、男が低く穏やかな声で聞いた。

「どうされたのか詳しく教えてもらえますか?」

幸は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、藁をもすがる思いで説明した。

「兄と遊んでいたら突然泣き出したみたいで。左腕を動かさずにずっと泣いているの。」

「……見せていただけますか?」

幸は幹太を男の前に立たせた。

布団からゆっくり立ち上がり、男は幹太の腕を優しく握った。

「痛くない?」

幹太は泣くのをやめて頷く。男は浩太に尋ねた。

「もしかすると……この子の腕を引っ張ってない?」

浩太は下を向いて、少し間を開けてから言った。

「追いかけっこしてた時に、引っ張っちゃった。」

「教えてくれてありがとうね。」

浩太の頭を男は優しくなでた。男は片手で幹太の肘を持ち、もう片方の手で手首を握った。

「痛くないからね。」

優しく声をかけながら、幹太の肘を曲げていく。幹太の手首を軽くひねりながら、肘を最後まで曲げさせた。その後、ゆっくり幹太の肘を曲げ伸ばしする。

幹太は目を丸くし、恐る恐る自分で腕を動かした。

その場が一瞬、静まり返った。

そして次の瞬間、幸と母が幹太の頭を撫で、何度も深く頭を下げた。


 志乃は、驚きと尊敬が入り混じる思いで、男を見つめていた。

「……何をされたのですか?」

真っ直ぐに問うと、男は少し笑って答えた。

「肘の骨が外れていたのです。それを戻しただけですよ。」

そして志乃を見つめ、静かに名乗った。

「私は神近義道と申します。旅の途中の者です。あなたのお名前を伺っても?」

「志乃です。」

その名を口にした瞬間、何かが始まる気がした。

仁朗が志乃の家に知らせに行き、騒ぎを聞いた志乃の祖母が現れ、男の荷物を見て言った。

「……あんた、医者なのかい?」

神近はなぜか、はにかむような表情で頷いた。

「ええ、今は勉強をしながら旅をしています。」

幹太の一家や材木屋の人々が「ぜひ休んでいってほしい」と申し出る中、

神近はその好意を受け入れ、材木屋の離れに今日は滞在することになった。


 志乃の胸は、波のように高鳴っていた。

この人と出会ったことで、自分の何かが確かに動き始めたのを感じていた。

――明日も、この人のもとへ行こう。

何かが変わる気がする。

いや、変えたいと思った。

少女の瞳に、新しい光が灯った。


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