出逢い
白波は寄せては返し、とどまることはない。たゆたうだけではなく、海でつながっているのであろう異国の物をも運んでくる。水平線のずっと奥、海のかなたにも私のように海を眺めている人がいるのだろう。そう思うと、ただ過ぎていく日々の中、今日は、明日こそは何か起こるかもしれない、というかすかな期待がもてる。
私は海にいる生き物であったら何だろうか。水から宙へ飛び出す、美しく力強い飛魚に憧れる。しかし、今の私はきっと海月だ。何かやりたいことがあるわけでもなく、ただ毎日を生かされている。こんな気持ちになるのは、久しぶりにあの夢を見たからだろうか。
大きく温かい手が自分の頭をなでる。
「志乃は本当に賢しい子だ。」
低く落ち着いた声だ。表情はわからない。突然暗闇になり、不安になった私は何度も彼を呼ぶ。すすり泣きながら何度呼んでも、自分の声がこだまするだけ。無力感に心がつぶれそうになる。
そこで目が覚める。数年前まで時折見た夢だ。昨日、最近あの夢を見ていないな、と思ったのが良くなかったようだ。夢とは本当に不思議だ。
彼はどこに行ったのだろう。何をしているのだろう。私のことは忘れてしまったのだろうか。様々な感情が波のように押し寄せてきた。幼い頃に一度その疑問を母に投げかけてみた。悲しいとも切ないとも言えない表情の母を見て、幼い子どもにもその質問が禁句であるのだと理解できた。
小枝を掴み、袂から紙を出して砂に字を書く。紙を見ながら繰り返し書いていくと、頭の中にしみこんでいくのがわかる。気持ちも落ち着いてきた。この作業に加えて、もう一つ志乃の日課があった。
「長居しすぎた。早く戻らないと。」
岩肌についている海苔を手際よく摘み採っていく。これが本来の日課であり、仕事である。そのために浜辺に来るのだが、今日は海を眺めて、書字をして・・とにかく考えに耽っていたのがいけない。海苔をかごに入れながら反省していたところ、遠くの海岸線に足元がおぼつかない人影が視界に入った。その刹那、砂浜に倒れこんだ。
「え。」
一瞬動けなかった。しかし、あとは体が勝手に動き、その人物に駆け寄った。手をつかずに倒れこみ、顔に砂がついている。顔の砂をはらって、体を仰向けにして胸元をみる。息はしているようだ。呼びかけたところ、目はうっすら開いたがまたすぐに閉じてしまう。一瞬感じた違和感を振り払い、とっさに周囲を見渡したが残念ながら誰の姿もない。
志乃は走って、浜辺近くの材木屋に駆けこんだ。
「仁ちゃん、浜で倒れた人がいる。」
近所に住む仁朗と父、他にも複数男性が木材を切る作業をしていた。
「だれ?」仁朗の問いかけに、志乃は首を振る。
男たちの力で仁朗の家に倒れた人物は運ばれた。
顔が熱いため、濡らした手ぬぐいを額にのせ、温まったら取りかえる。
倒れていたのは見たことがない男性だ。整った鼻梁にやや明るめの巻き毛。運び込んだ時より、やや息の荒さが取れてきたようだ。
「母さん、怒っているかな。」
うちわで男の顔を扇ぎながらため息をつく。
「すみません。」
目をうっすら開けて、男性が志乃を申し訳なさそうに見つめた。いつからか意識は戻っていたようだ。
「あんた、気がついたかい。ほら、志乃ちゃん、替わるからいったん店に帰りな。」
仁朗の母が気遣って声をかけてくれた。その方がいいと頭ではわかっている。
ここは材木屋の詰所だ。周囲で男性陣が作業をしているため、周囲は賑やかだ。
「まだいるよ。」
周囲の音に負けないよう、少し声を張って言った。
この人には悪いが、私が周りの人を巻き込んでしまったという気まずさが志乃にはあった。
男性は、頭を押さえてゆっくりと体を起こした。
「すみません、ご迷惑をおかけしました。」
そこに、仁朗と父が戻ってきた。
「仁朗、志乃ちゃんの事を家の人に伝えてきて。戻ってこないのを心配しているだろうから。」
「わかった。」
仁朗は走っていった。
「体は大丈夫かい。」
仁朗の父が聞いた。
「ありがとうございます。体調が悪い中、歩いていたところ気分が悪くなってしまい・・ご迷惑をおかけしました。」
男がゆっくりとおじきをした。よく見ると黒眼が黒、というより深緑がかっている。志乃はこの吸い込まれるような眼を見て、さっきの違和感の原因がわかった。
「水を飲むかい。」
仁朗の母が湯飲みを差し出した。
「ありがとうございます。」
片手で頭を押さえているので、頭が痛いのだろうか。志乃は心配でじっと男を見つめる。たもとから薬だろうか、何かを取り出し、それを口に含み水を一気に飲み干した。目の前で倒れた人が回復する姿をみて、志乃はとりあえず胸をなでおろした。
ほっとしたのも束の間、遠くから子どもの鳴き声が聞こえてきた。仁朗の姉、幸とその子どもたちがやってきたのだ。不安げな顔の幸が、泣きじゃくる幹太を抱っこしている。さちと幹太について歩いてきたのは、幹太の兄の浩太だ。さちは、男を一瞥したが切羽詰まっている様子で父に告げた。
「父さん、幹太の腕がおかしいの。」
「怪我でもしたのか。」
「特にけがはないみたいだけど・・・」幸と父のやり取りを聞いている中で、男は控えめに聞いた。
「どうされたのか詳しく教えてもらえますか?」
幸は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、藁をもすがる思いで説明した。
「兄と遊んでいたら突然泣き出したみたいで。右腕を動かさずにずっと泣いているの。」
「少し見せてもらってもいいですか。」
布団からゆっくり立ち上がり、男は幹太の腕を優しく握った。
「痛くない?」
幹太は泣くのをやめて頷く。男は浩太に尋ねた。
「違っていたらごめんね。もしかすると、この子の腕を引っ張ってないかな。」
浩太は下を向いて、少し間を開けてから言った。
「追いかけっこしてる時に、引っ張っちゃった。」
「教えてくれてありがとうね。」
浩太の頭を男は優しくなでた。男は片手で幹太の肘を持ち、もう片方の手で手首を握った。
「痛くないからね。」
優しく声をかけながら、幹太の肘を曲げていく。手首を持った手を動かしながら、その後、手をゆっくり幹太の肘を曲げ伸ばしする。
「もう大丈夫だよ。びっくりしたね。」
幹太に微笑みかけた。みんな目を丸くしている。少し間をおいて、はっとした幸と母が、それぞれ幹太と浩太の頭を手で下げながら自分たちも頭を下げた。
「ありがとうございました。」
「何をされたのですか。」
志乃はまっすぐ男をみて尋ねた。
「肘の骨が外れていたため、それを戻しました。あなたが助けてくれたのですね。私は神近義道と申します。お名前を聞いてもよろしいですか。」
「志乃です。」
「志乃様、皆様ありがとうございます。」
そこに、仁朗が戻ってきた。幸の夫も騒ぎを聞きつけて、仕事の手を止めてやってきた。幸の夫もおなじ材木屋で働いているのだ。やってきた男たちに、幸が今起こったことについて熱を帯びた話し方で伝えた。
仁朗の父が
「本当にありがとう。君はここら辺の人?見かけない顔だね。」
「旅をしている途中でした。昨晩、付き合いで強くもないお酒を飲んで、体調が悪かったのです。それに、睡眠不足の中、歩き回っていたらこの体たらくです。ご迷惑をおかけしました。」
仁朗の話を聞いて、やってきた志乃の祖母が神近の荷物を見て聞いた。
「お医者なのかい?」
神近は頷き、
「以前は。今は、勉強しながら旅をしているところです。」
「とにかく、少し休んでいってください。」
仁朗の父が言った。
志乃の祖母が神近を自宅に連れていく事を提案したが、幹太のお礼もかねてしばらく仁朗の家で過ごすことになった。
志乃の胸は高鳴った。神近に出会い、自分が変われるような漠然とした予感があったからだ。それが何かはわからない。とりあえず明日も神近のところに来ることを心に決め、帰路に就いた。