第八十九話 八大龍王の驚愕なる姿
まさか、八大龍王が女性の姿をしているとは思わなかった。
(……何という美しさだ)
空心は堂々と胸を張りながら八大龍王を見つめる。
身長は百八十センチ強ほど。
背中まで垂れている銀髪は目を奪われるほど美しく、きりっとした目眉にほどよく伸びた鼻梁が端正な顔立ちの中に収まっている。
着ている服はワンピース・ドレス型のネグリジェ一枚のみ。
肩幅が広く体格は良い。
しかし、鈍重な感じは微塵もなかった。
筋肉の上から薄っすらと脂肪がついた身体をしており、一見しただけで無駄な贅肉など欠片もないことがわかった。
そして髪の下から生えている二本の角に、爬虫類のような太くて立派な尻尾。
まるでライナたち龍人族のような身体をしている。
(いや……まさに龍人族そのもの)
空心は数メートル手前に現れた八大龍王とライナたちを見比べた。
見れば見るほどそっくりだ。
だからこそ、空心は軽く混乱した。
ライナたちは場外に吹き飛ばされながらも、嫌な顔をするどころか片膝立ちになって銀髪の女性に向かって頭を下げている。
こうなると銀髪の女性の正体は一つしかない。
〈竜神山〉のヌシであり、ライナたちの主人である龍の姫――ユーフェミアに違いなかった。
それはそれでいいのだが、やはり問題なのは八大龍王の真言を唱えたあとにユーフェミアがこの場所に現れたことだ。
八大龍王。
八柱の龍神であり、仏法を守護する存在とも言われている。
特に密教では仏教を守る守護神(護法善神)として重要な役割を担っていた。
水を司る神として古来から恐れられると同時に敬意の対象ともなり、雨乞い、豊作、航海安全などの信仰対象とされてきた神だ。
そして八大龍王と真言宗を興した弘法大師・空海は密接に関わっていた。
空心も真言宗の僧侶だったため、空海の伝説の数々は当然の如く知っている。
空海は唐の国で秘教だった密教を短時間で習得して日本へ持ち帰ると、嵯峨天皇のために国家安寧の祈りを捧げたり、高野山を開創したりと日本の仏教に多大な貢献をした偉人だ。
そんな空海にはファンタジー的な逸話も数多く残されている。
中でも天長元年(824年)の夏に起こった伝説が有名だった。
大干ばつによって都が水不足になったおり、淳和天皇は東寺の空海と西寺の守敏に神泉苑での祈雨を命じた。
最初は守敏が雨乞いをしたが効果はなく、続いて空海が雨乞いをしても雨が降ることはなかったという。
しかし、空海は雨が降らないのは天のせいではないことを突き止めた。
どうやって突き止めたのかは不明だが、空海は守敏が意図的に雨を降らせてくれる龍神たちを邪法によって封印していたことを見抜いたのである。
そこで空海は八大龍王の一柱である、女性の龍王――善如龍王の力を借りて雨乞いを成功したとされている。
八大龍王を現世に召喚する真言――オン・メイギャ・シャニエイ・ソワカと唱えて。
この伝説を思い出したとともに、自身もベルモンドを倒したことで八大龍王の力を顕現させることが可能になった。
だからこそ八大龍王の真言を唱えれば、伝説の八大龍王が顕現して力を貸してくれると思った。
だが、実際に目の前に現れたのはユーフェミアであり、自分が想像していた龍神たちの姿はどこにもない。
心の中で狼狽しているとユーフェミアが話しかけてくる。
「お主……名は……何と申す……のだ?」
ユーフェミアは口を開きかけては閉じ、頬を朱に染めてちらちらと視線を逸らす。
ライナたちを一喝したときとは雲泥の差だった。
理由はわからないが、今のユーフェミアはなぜか激しく動揺している。
それは口調からも判断できた。
言葉がしどろもどろになっているのだ。
このとき、空心はハッと我に返った。
「これは失礼をしました」
どうして八大龍王の真言を唱えたらユーフェミアが現れたのかはさておき、まずはユーフェミアに対して礼を尽くさなくてはならない。
空心は頭を下げて自己紹介する。
「私の名前は長峰空心。このセレスティア王国を魔族から取り戻す活動をしている対魔法使いレジスタンス――【光明護法衆】のリーダーを務めさせていただいております。そして、向こうにいるのが私の大切な仲間たちです」
マリアたちも一体何が起こっているのかわからない顔をしていた。
「クウシン……やはり似ている」
ユーフェミアは一歩ずつ空心との距離を詰めてくると、互いの息がかかるほど顔を近づけてくる。
「お主はクウカイとどういう関係だ?」
「クウカイ?」
一瞬、空心は何を聞かれているのかわからなかった。
「クウカイを知らんのか? 今のお主と見た目や力もそっくりなのじゃぞ」
それを聞いて空心の脳裏に弘法大師・空海の名前が浮かんだ。
「あなたのおっしゃられているクウカイとは弘法大師の空海さまのことですか?」
「コウボウダイシというのは知らん。だが、クウカイはクウカイじゃ。唐の国で密教という秘術を会得し、向こうの世界にわらわが魂の状態で転移したさいには一緒に旅をしたものよ」
ユーフェミアは少しだけ目を伏せた。
空心はわずかなやり取りですべてを察した。
間違いない。
ユーフェミアの言葉の中に出てきたクウカイとは真言宗の開祖であり、今でも高野山の奥の院で生きて修行を続けていると信じられている空海のことだ。
「あなたは空海さまとどういったご関係だったのですか?」
ユーフェミアは悲しげな顔でくすりと笑った。
「別に何もない。わらわは魂の状態じゃったから、肉体的に互いに触れられなかった。それでも空海の心眼はわらわの姿を捉えてのう……わらわが持っていた龍王国の建築技術や温泉の場所を見極めるコツを教えたりしながら日ノ本中を旅したものじゃ」
空心はごくりと生唾を飲み込んだ。
「もう一つお聞きしたいのですが、あなたは空海さまと大干ばつから都を救ったことはありますか?」
これは最後の確認だった。
もしもユーフェミアが本当に空海と一緒にいた経験があるのなら、空海の伝説の中でも有名な都の大干ばつのことを知らないはずがない。
「あるぞ。日ノ本で一番大きな街の水が干上がったことがあってのう。そこでテンノウという者がクウカイに雨乞いを依頼したのじゃが、そのときにテンノウは別の者にも雨乞いを依頼しておってな。こやつが邪な心と力を持った僧侶だったのじゃ」
「その僧侶の名前は憶えていますか?」
「忘れるものか。シュビンという邪僧だったわ」
本物だった。
確かに空海は都が大干ばつで大変な事態になったとき、当時の天皇に依頼されて雨乞いをした。
しかし、空海ほどの力を以てしても雨は降らず、原因を探ってみたところ他にも雨乞いを依頼されて失敗していた守敏という邪僧が雨乞いの邪魔をしていたことがわかった。
そこで空海は八大龍王の一柱――善如龍王の力を借りて雨乞いを成功させたと言う伝説がある。
では、その善如龍王が目の前にいるユーフェミアのことなのか。
いや、もはや疑いようもないことだ。
ユーフェミアこそ空海に力を貸した龍王の一柱に違いない。
「本当に懐かしいわい。そのとき、クウカイがわらわの力をレベルアップしてくれたことで、わらわはこうして元の世界に帰ってくることができた。しかし、その代償としてわらわはクウカイと二度と会えなくなってしまった」
ユーフェミアの長いまつげが影をつくり、その奥にある薄水色の瞳が遠い昔を思い出すように揺れている。
「もしかして、あなたは空海さまのことを……」
ユーフェミアは乙女のように顔を赤らめた。
「うむ、わらわはクウカイを好いておった。あやつこそ、わらわが愛した最初で最後の人間よ」




