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第六十四話  子生まれて母危うし

 クウシンは自分が口にした言葉の意味を説明した。


「子生まれて母危うし……これは私が学んだ禅の教えの一つです。母親は子供を産むさい、自分の命を大変な危険にさらします。それはこの世界においては特にでしょう。ですが、母親はそれでも子供を産みます。なぜか? それが大いなる喜びだからです」


 他のメンバーは静かにクウシンの言葉を傾聴している。


「たとえ自分の命を危険にさらそうと、かけがえのない我が子をこの世に誕生させることが母親にとって最上の喜び。その様子から学んだことで生まれた言葉が「子生まれて母危うし」です。要するにこの世で大きな物事を成し遂げるためには、ある程度の危険を冒さなくてはいけないということ」


 ですが、とクウシンは顔をしかめた。


「そのために無関係な人たちの生活を脅かすような真似をしてはなりません。あなたがたは空き家だから放火しても良いとおっしゃいますが、その火が予想以上に燃え広がってしまったらどうするつもりです? 大事の前の小事だから仕方がないと責任を放棄するのですか? だとしたら私は賛成できません。予想されるリスクを回避する努力をするのは構いませんが、自らリスクを増やすことなど無関係な人たちにとっては迷惑千万」


 開いた口が塞がらないとはこのことだった。


 あのとき、シズクは心の底から思った。


 神の御使いとは何と単純で一途な男なのだろう、と。


 馬鹿という意味ではない。


 クウシンは誰よりも無辜の民たちのことを真剣に考えて言ったのだ。


 とはいえ、相手は魔族の中の魔族と恐れられるベルモンドだ。


 そんな相手と戦うのは大国同士の戦に等しいのではないか?


 だったら多少の小細工を弄しても罰は当たらないのではないか?


 そんなシズクの考えを他のメンバーたちは一蹴した。


「大丈夫です。クウシンさまならばベルモンドも倒せます」とマリア。


「御使いさまのお力は本物の神に匹敵しうるモノと考えております」とアクエラ。


「わたくしたち【反逆の風】は、そのような神の御使いさまのお人柄に惚れたのです」とエリサ。


「まあ、神の御使いはんならそう言うわな。うちもほんの前まではあんさんたちと同じような考えやったけど、今はもうこっち側の人間になってもうたわ」とラピス。


「わたしはクレスト聖教会の人間……ですが、神の御使いさんのお力は十二分すぎるほど実感しました。そして雇い主であるラピスさんが味方につく以上、我らクレスト聖騎士団も最後までお付き合いする次第です」とユーシア。


 全員の観察結果は真っ白。


 つまり、誰一人としてクウシンを信じて疑う者は皆無だった。


 そうして現在、シズクは先頭馬車の中に主要メンバーたちと一緒にいる。


 はあ、とシズクは大きなため息を漏らした。


 どうやら今後は自分もまともな思考をかなり逸脱する必要がある。


 でなければ、とても神の御使いたちについていけない。


 などと思ったとき、気配を完全に殺したハンゾウが声をかけてくる。


「御使いさま、そろそろ決行しようと思うのですがよろしいでしょうか?」


 クウシンは全員の顔を見回して各々の覚悟をあらためて確認する。


 他の主要メンバーたちは暗がりの中でも表情がはっきりと見て取れた。


 誰も否定的な顔を浮かべず、力強くうなずいていく。


 最後にクウシンも首を縦に振った。


「ハンゾウさん、こちらも大丈夫です。どうかよろしくお願いします」


「わかりました。では……」


 ハンゾウは暗闇に溶け込むように姿を消した。


 部下の【闇鴉】たちを連れて詰め所を襲い、市門を開けるという作戦を決行するために。


「それで? 本当にあんたたちはあの結界を破れる方法があるんだね?」


 シズクは一番重要なことを再び訊いた。


 数時間前も聞いていたことだが、やはり実際に目で見ないと信用できない。


「そうですね……もう大丈夫でしょうか」


 クウシンは馬車から降りると、何もない空間に向かって不思議な呪文を唱えた。


「オン・アビラウンケン・ソワカ」


 するとクウシンから空気を震わせるほどの威圧感が迸った。


 シズクには何も見えないが、ユーシアが言うには「オン・アビラウンケン・ソワカ」と唱えたあとのクウシンの肉体は黄金色の光に包まれるらしい。


 クウシンはさらに呪文を唱えていく。


「オン・バザラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ」


 直後、シズクは目を剥いた。


 ハンゾウの【夜目】の〈異能(スキル)〉ほどではないが、特殊な訓練を積んでいるシズクもかすかな月明かりがあれば常人よりも夜の景色はよく見える。


 その視界に奇妙な光景が飛び込んできた。


 クウシンから少し離れた地面にぽっかりした穴が出現し、その穴の中から一人の少女が姿を現したのだ。


「お呼びですか、ナガミネ・クウシン」


 銀髪の少女は無表情なまま口を開く。


「休んでいたところ申し訳ありません。実は……」


 クウシンはこれまでの経緯を銀髪の少女に手短に話す。


 銀髪の少女は表情を一切崩さずに「了解しました」と納得する。


「ここから約五百メートル地点にレベルBの〈魔力結界〉を探知しました」


「壊せそうですか?」


「問題ありません。ワタシはレベルSの〈魔力結界〉まで破壊できます」


 クウシンは力強くうなずいた。


「みなさん、やはり蓮華の力で結界は壊せるようです」

 

 クウシンの言葉に主要メンバーたちはうなずき合う。


 だが、シズクはまったく現状を理解できないでいた。


 それほどクウシンの力があまりにも現実離れしずぎていたからだ。


 一方の主要メンバーたちは慣れているのか、誰もが自分たちの――いや、クウシンの勝利を確信している面持ちである。


 そんな中、詰め所のほうで無数の気配が動いた。


 警備兵たちの「うわっ」とか「ぎゃあ」という悲鳴が聞こえてくる。


 ハンゾウたちが行動を開始したのだ。


「では、みなさん。ここからが正念場です。標的は辺境伯ベルモンドのみ。余計な犠牲者は出さず、絶対に市民は傷つけずに倒すのです」


 クウシンは銀髪の少女を連れて再び馬車へと戻ってきた。


 そして御者にお願いして馬車を発進させる。


 馬車が動くと同時に市門がゆっくりと開き、隙間からは立派なベルモンドの居城が見えてくる。


 こうして辺境伯ベルモンド・シュナイゼルの打倒作戦が始まった。

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