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第三話    異世界に立った僧侶

 ふと気がつくと、見知らぬ森が目の前に広がっていた。


 鬱蒼(うっそう)とした深い森だ。


 人の手が入っていない原生林なのは間違いない。


 そして空心が佇んでいた場所は、森の中にぽっかりと開けた場所だった。


 砂漠のオアシスとまではいかないが、近くに日光を反射している小池がある。


 周囲の様子を視認した空心は、ここが異世界だということを実感した。


 空気である。


 軽く呼吸をしただけなのに、全身の細胞が喜びを上げるような新鮮な空気で肺全体が満たされていく。


「何という美味い空気なんだ」


 思わずそんな言葉を発してしまった。


 それほど現代日本とは空気が桁違いに美味い。


 現代日本の空気が人工甘味料が入った清涼飲料水ならば、この異世界の空気は不純物が入っていない真水である。


 しばらくその場で何度も深呼吸をしていた空心だったが、ようやく異世界の空気に慣れたときにふと我に返った。


 両手で自分の身体をまさぐって服装を確認する。


 空心が身にまとっているのは、袖と裾が長い僧侶服。


 その上に肩から斜めに掛けるように袈裟をまとい、全体として厳かな雰囲気のある法衣姿をしていたのだ。


「やはり、あれは夢ではなかったんだな」


 須弥山で大日如来に与えられた服装と同じである。


 それに大日如来から与えられたものは法衣だけではなかった。


「まさか身長ほどの錫杖を手にするときが来るとは」


 空心の横の地面には、百六十センチほどの錫杖が突き刺さっていた。


 真言宗の僧侶ならばバトンほどの長さの錫杖を振る機会は多いが、映画やドラマなどに登場する大昔の僧侶が手にしているような長い錫杖は持たない。


 空心は錫杖を手に取ると、小さく「シャリン」と音を鳴らす。


 心地よい音色だった。


 この音を聞けば魑魅魍魎や悪鬼羅刹も退散するだろう。


 などと考えたとき、空心はハッとした。


(そういえば大日如来さまは他にも色々とおっしゃられていたな)


 空心は錫杖を持ちながら小池に向かって歩を進めた。


 小池の水質はかなりよい状態だった。


 水面が日差しを反射してキラキラと輝やくほど澄んでいる。


 そこで空心は水面に映った自分の顔を確認した。


「――――ッ!」


 驚愕するとはこのことだった。


 水面に映っているのは、間違いなく自分自身の顔である。


 だが、ほうれい線が目立ってきた四十八歳の顔ではない。


 艶やかな肌と生命力に満ち溢れていた、二十代半ば頃の自分の顔だったのだ。


 顔を確認したことで、自分の肉体の変化にも気づくことができた。


 身体の底から力がみなぎってくる。


 胸筋、上腕二頭筋、僧帽筋、腹筋、大腿四頭筋などの人体の主要な筋肉が産声を上げている。


 さあ、若返った俺たちを思う存分に使えと。


(この肉体ならば異世界でも修行と救済ができる)


 そう思った直後だった。


「ギャギャギャ?」


 どこからか耳に痛いくぐもった声が聞こえてきた。


 空心はその声の発生源に顔を向ける。


「こ……子供?」


 空心はあまりの驚きに目を丸くした。


 視線の先にいたのは、茂みの中から現れた一人の子供だった。


 いや、よく見ると子供ではない。


 それどころか人間でもなかった。


 百四十センチほどの小柄な体型。


 頭は禿頭で、耳が鼻が長く尖っている。


 身体は無駄な贅肉の無い筋肉質な体型で、肌色の人間とは違って薄い緑色の皮膚をしていた。


 服は腰蓑(こしみの)だけ。


 右手に不釣り合いな大きさの棍棒を持っている。


「緑色の……小鬼?」


 空心は瞬きをせずにつぶやく。


「ギョギョギョオオオオオオ――――ッ!」


 小鬼は空心を見るなり叫声を発した。


     बंबंबं


 ビリビリと空気が震える。


 まるで野獣の咆哮のようだ。


(あれが異世界の魔物なのか)


 空心は咄嗟に身構えた。


 棒術や槍術などは一度も習ったことはないが、本能が命じるままに錫杖の先端――金属の輪が取り付けられた遊環(ゆかん)の部分を小鬼に向ける。


 すると小鬼も身構えた。


 空心が絶好の獲物なのか強敵なのか判断がつかなかったのだろう。


 じりじりとすり足で近寄ってくる。


 二人の距離はおよそ十メートル。


 このままでは争いに発展しかねない。


(私は何と愚かなのだ)


 我に返った空心は下唇を噛み締めた。


 咄嗟に錫杖の先端を向けてしまったが、自分は腐っても真言宗の僧侶なのだ。


 錫杖という法具を武器として扱おうとするなど言語道断。


「私の名前は長峰空心!」


 空心は構えを解くと、仁王立ちになって叫んだ。


 小鬼はビクッと全身を震わせ、歩みを止める。


「私の言葉がわかるのなら答えていただきたい! そなたは人に害をなす魔物なのか!」


 やがて小鬼は酷薄した笑みを作った。


「ギュギョギョッ! ギョギョギョッギョギョ!」


 どうやら小鬼は人間の言葉を話せないらしい。


 しかし、小鬼の表情から何となく言葉の意味を察することができた。


 ――獲物だ! 弱い獲物だ!


 間違いない。


 小鬼は人に害をなす魔物である。


 そう思った直後、空心の視界に信じられない光景が飛び込んできた。


「「「「「「ギョギョギョギョギョ」」」」」」


 茂みの中から次々と小鬼が現れたのだ。


「――――なッ!」


 空心の頬に一筋の汗が伝う。


 現れた小鬼の数は六人。


 当然ながら言葉は通じず、しかも全員から肌が粟立つような殺気を放っている。


(逃げられるか?)


 空心はすぐに無理だと判断した。


 相手はおそらく森を根城にしている。


 ならば森の中の狩りは得手中の得手。


 僧侶の自分など簡単に追い詰めて殺せるだろう。


 だとしたら、逃げるという選択肢はない。


 あるのは真言を唱えることのみ。


 そうして空心は何百万回と唱えた真言を口にする。


「オン・アビラウンケン・ソワカ!」


 大日如来の真言を唱えて心気を充実させると、空心は勢いよく石突きで地面を突いた。


 周囲に「シャリンッ!」という音が鳴り響く。


 その音色を聞いた瞬間、小鬼たちの表情が一変した。


 額から脂汗を流し、全身をブルブルと震わせたのだ。


 一方、空心はそんな小鬼たちに構わず口を動かしていく。


「私は僧侶。闘うことも逃げることもしない。するのは真言を唱えるのみ!」


 空心は大きく吸気すると、今度は光明真言を高らかに口にする。


「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウンッ!」


 するとどうだろう。


 光明真言を唱え始めると、下腹の丹田部分に猛烈な熱さを感じた。


 まるで高出力のモーターから生まれたような熱は、瞬く間に黄金色の光となって空心の全身を包んでいく。


 それだけではない。


 空心の口から発せられた光明真言が、黄金色の物理的な衝撃波となって小鬼に向かって飛んでいったのだ。


「「「「「「ギョエエエエエエエエッ!」」」」」」


 小鬼たちは断末魔の叫びを上げた。


 黄金色の衝撃波を食らい、小鬼たちは大量の泡を吹いてその場に倒れていく。


 時間にして十秒ほどの出来事だった。


 地面に倒れてピクリとも動かない小鬼たち。


 そんな小鬼たちを見つめて呆然とする空心。


「こ、これは一体……」


 空心は頭上に疑問符を浮かべた。


 直後、脳内に「チーン」とおりんの音が響いた。


『長峰空心の真言徳位(マントラ・レベル)が上がりました。俊神(しゅんしん)・【韋駄天(いだてん)】の力が使用できます』


 そう聞こえたのも束の間、目の前の宙に一人の神が現れた。


 古代中国の甲冑に似た鎧を着た神。


『よう、空心。何とか魔物を退治できたみたいだな』


「い、韋駄天さま!」


『おうよ。俊神・韋駄天とは俺のことだ。そんでお前さんは真言徳位(マントラ・レベル)が上がったことで、俺の力を使えるようになった』


「韋駄天さまのお力?」


『一瞬で別の場所に移動する能力だ。極めれば数キロメートルを瞬間移動のように移動することも可能だが、あいにくと今のお前さんにはそこまでの力はない。今のお前さんの信心力しんじんりょくだと最大で五メートル内を一瞬で移動し続けるのが関の山だな』


「も、申し訳ございません。信心力とは何なのでしょう?」


「信心力とは、お前さんが人徳を積むことで得られる力のことだ。その信心力を原動力にお前さんの真言は物理的な威力となってこの世に顕現する。そして信心力が多く大きくなるほど、お前さんの【神々の加護】による俺たち神の力は威力を増していくんだ」


 韋駄天は「がはは」と快活に笑った。


「要するにお前がこの異世界で困った人間を救済するほど、お前さんは救済された人間からの感謝を力に変えることができるのさ。それこそお前が宗教の教祖にでもなれば、その信心力によって俺たち神に匹敵する力を得るだろう」


「わ、私にそのような力が……」


『あるさ。その力を大日如来どのから授けられたんだからな。だが、もしもその力を悪用すればお前には文字通り天罰が下る。ゆめゆめ肝に銘じておけよ』


「そのようなことは致しません!」


『わかってるよ。お前はそんな人間じゃないことぐらいな。だから大日如来どのや他の神たちからも気に入られていたんだ』


 もちろん俺もな、と韋駄天はウインクする。


『さあ、お前はこの異世界で成すべきことがあるんだろ? だったら早くそれを実行に移せ』


「そう言われても、私にはこれからどこへ行くべきなのかもわかりません」


 韋駄天は『そんなことは決まってるさ』と答える。


『お前はあれが見えるか?』


 韋駄天は空心の後方の空を指さす。


 空心は振り向くと、先ほどまでは気にも留めなかった空を見上げる。


 はるか遠くの空に、黒くて細い線が空に向かって伸びている。


 最初は狼煙のろしかと思ったがそうではない。


 黒煙だ。


 しかも一つではない。


 何本もの黒煙がゆらゆらと揺れながら天に昇っている。


『あれはどこかの村が襲撃されている証だな』

 

「襲撃!?」


 現代日本に生きていた空心が耳を疑う言葉だった。


『そんでかなりヤバイな。煙が出ているってことは魔物の仕業じゃない。おそらく魔法使いの仕業だな』


 魔法使い。


 アニメや映画などに登場する単語ではなく、現実にそのような力を持った者がいるというのか。


 しかもその魔法使いは村を襲っている。


「そのような力を持っていながら、魔法使いたちはなぜ村を襲うのです?」


『決まっているだろう。力を持っているからさ。連中にしてみれば人間の村を襲うなんざ狩猟の延長上とでも思って楽しんでいるんだろう』


「何と卑劣な」


 空心は空いていた左手の拳を固く握りしめた。


『さて、どうする? 村が襲われている証拠を目にしながら、長峰空心はこのまま黙って見過ごすのか?』


 答えなど決まっていた。


「見過ごすことなどできましょうか。そのような悪逆非道な魔法使いがいるのなら、私が全力で以て説教して人の道を説きます」


『あはははは、そりゃあいい! 魔法使いに説教か!』


 韋駄天は豪快に笑いながら両手を組む。


『だったら被害がでかくなる前に村へ行かないとな。ただ、いくら若返ったお前さんとはいえ森の中を普通に走っていたんでは間に合わない。そこで俺の力が必要になってくる』


 韋駄天は『俺の真言は唱えられるだろう?』と訊いてくる。


「もちろんです。私は密教の神々の真言はすべて一字一句間違えずに唱えられます」


『だったら俺はもう何も言わん。さあ、空心。この異世界でお前の成すべきことをやれ!』


 空心は大きくうなずいた。


 そして黒煙が上がっている方向を見据え、韋駄天の真言を力強く唱える。


「オン・イダテイタ・モコテイタ・ソワカ!」  

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