第一話 徳を積んでいた僧侶
「空心さん、あんたは死んだら極楽浄土に行けるよ」
そう言われたのは、長峰空心が玄関で草履を履いたときだった。
「急に何をおっしゃるのですか」
空心は緩慢な所作で立ち上がり、背中が猫のように丸まった田崎君江に笑みを返した。
空心は今年で四十八歳になる、真言宗・福徳寺の住職だ。
身長は百七十五センチと普通だが、住職の仕事の合間に筋トレを欠かさないので、法要のときの服装である袍裳や七条袈裟の上からでも筋肉質なのがわかる。
頭部はもちろん剃髪した禿頭だ。
それも綺麗に磨き上げられた宝玉のような頭である。
昔は僧侶専用のバリカンで刈っていたものの、医療技術の発展にあやかって今では完全脱毛して剃り傷や毛穴のざらつきを気にせずにすんでいる。
それはさておき。
今日は九月二十五日。
空心が住職を務める福徳寺の檀家さん――田崎家の秋彼岸法要の日だった。
時刻は午後五時過ぎ。
田崎家の仏間で読経や法話を終えて今まさに帰宅しようとしたとき、玄関で君江に声をかけられたのだ。
「わたしはいつ死んでもおかしくない年だからね。死ぬ前にあんたに伝えておこうと思ってさ。本当にあんたには感謝しているよ。今日の法要も心が洗われるようだった。空心さんのおかげでここいらの年寄り連中は救われているのさ」
君江は静かに合掌し、空心に向かって頭を下げる。
空心も背筋を伸ばし、同じく合掌して小さく頭を下げた。
「そう言っていただけるのが何よりの誉れです。まだまだ若輩の身ですが、これからも末永くよろしくお願いいたします」
「若輩なんてとんでもない。病気で亡くなった先代の跡を継いで、住職になって数十年。あんたは妻帯もせず、こんな片田舎の町でわたしら年寄りに実によくしてくれた。事故や病気で死んだわたしらの同年代の人間も、あんたに供養してもらったことであの世でも感謝しているはずさ」
空心は目元が潤んできた。
二十二歳のとき、当時の福徳寺の住職だった祖父が大病に侵された。
色々と医者は手を尽くしてくれたが、日が経つごとに祖父の症状は悪化。
最後には満足に食事も取れず、もう静かに死を待つばかりの日々が続いた。
空心は両親がいない。
十歳のときに三人で車で遠出したさい、居眠り運転のトラックと衝突して事故死したからだ。
奇跡的に空心だけが助かり、その後は和歌山県の日座川町にある、真言宗・福徳寺の住職を務めていた祖父に引き取られた。
礼儀作法は相当に厳しかったが、それでも普段は穏やかで檀家の人たちに弘法大師・空海の話をするのが大好きだった。
そんな祖父の元で育ったものの、祖父は一度も空心に対して寺を継げとは言わなかった。
代わりに別の言葉を常日頃から口にしていた。
――いいか、進。お前はお前の道を見つけろ。そして己の道を見つけたら犀のように進んで極めるんだぞ
まだ仏名である空心ではなく、本名の長峰進として生きていたときのことだ。
十代の頃の空心は適当な返事をしていたが、その言葉の重みを知ることになったのはやはり祖父が病に臥せってからだ。
空心は高校を卒業したあと、地元のスーパーマーケットに就職したのだが、仕事を終えたあとにお見舞いに行くと、祖父は合掌しながら光明真言を唱えていた。
――オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン
光明真言は、真言宗の中で特に重要視される真言の一つだ。
この真言は密教の最高神――大日如来の光明を称える意味があり、毎日唱えることで病気や災難から身を守れると信じられている。
当時の空心はまだ仏門に入る前だったが、幼少の頃から寺で生活していたので光明真言の意味は自然と知るようになっていた。
(ああ……あの祖父も自分が死ぬことは怖いのか)
当時の空心はそう思っていたのだが、看護師から真相を知って愕然とした。
祖父は死の恐怖を紛らわせるために光明真言を唱えていたのではない。
自分のような病魔に空心が侵されないように祈っていたのだ。
その真相を知ったとき、空心はそのまま会社へ向かって店長に退職を願い出た。
そして空心は祖父が息を引き取る前にスーパーマーケットを辞め、祖父の手を握りしめながら福徳寺は自分が継ぐと伝えたのである。
祖父のような僧侶になる、と。
――そうか……そうか
祖父は涙を流しながら笑みを浮かべ、数日後に眠るように息を引き取った。
「……さん……心さん……空心さん」
空心はハッと我に返った。
「ど、どうしたんだい? 急に深刻な顔で黙ってしまって」
動揺していた君江に、空心は「な、何でもないです」と小さく首を振った。
さすがに人前で泣くのは堪えたが、君江の「あなたのおかげで救われている」という言葉に涙腺が少し緩んでしまったのだ。
加えて祖父の死に際のことを思い出してしまい、あと十年若ければ人前でも涙を流していたかもしれない。
けれども、もう自分も福徳寺の住職だ。
卒業した高野山大学の密教学科で講師も務め、密教の流れを組むチベットへも仏教交流に行ったことがある。
そんな僧侶が檀家の人の前で涙を見せるわけにはいかない。
空心は精神を落ち着かせるために呼吸を整える。
同時に頭の中で大日如来から力を得る真言を唱えた。
(――オン・アビラウンケン・ソワカ)
すると今ほどまで高ぶっていた感情がさざ波のように引いていく。
これまで何百万回と唱えた真言である。
やはり真言を唱えるのは良い。
真言を唱えれば、どんな局面であろうとも精神を落ち着かせることができる。
などと空心が思ったときだ。
「婆ちゃ~ん! どこにいるの!」
仏間のほうから幼い少女の声が聞こえてきた。
君江の孫である咲の声だ。
「は~い、今行くよ!」
君江は大声で返事をすると、空心に再び頭を下げた。
「では、空心さん。今日は本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いしますね。そうそう、最近は役場の近くに新しい交流施設を作るとかでトラックが村中を走り回っているから気を付けて帰ってくださいよ」
君江は踵を返すと、仏間のほうへと歩いていく。
君江は咲が大好きだ。
なので咲に呼ばれたら駆けつけないわけにはいかないのだろう。
「こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
遠ざかる君江の背中に頭を下げ、空心は田崎家を後にした。
बंबंबं
九月も午後五時を過ぎると、西の空は茜色に染まっていく。
日座川町は限界集落とは言わなくても小さな農村なので、村の中を歩いていると遠くの山々の稜線が燃えるように赤く見える。
それにここら辺は午後六時には夕飯を食べる家が多い。
なので田んぼに囲まれた舗装道路を歩いていてもすれ違う人間が少ない。
こういったとき、空心は心の中ではなく声に出して光明真言を唱える。
「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」
光明真言を唱えながら歩くのは格別だった。
筋トレなどで鍛えているといっても、もうすぐ五十歳を迎える年だ。
この年になると、さすがに身体にもガタが出てくる。
今日もそうだった。
檀家さんたちの前で疲れた様子や愚痴は絶対に吐かないが、一通りの法要を終えたあとに全身が鉛のように重く感じてしまうのだ。
そんなときに一番効果があるのが真言を唱えることだった。
脳科学や身体に詳しい学者なら疲労回復に効果があることを実践するだろうが、空心にとって辛いときや疲れたときに心身を癒してくれるのは真言を唱えることだ。
それも唱えるのは光明真言だけではなかった。
真言宗の僧侶が崇めている神々は大日如来だけではない。
空心は周囲に誰もいないことをいいことに、自分が日頃から崇めている神々の力を得るための真言を唱えていく。
「オン・アギャナエイ・ソワカ」
火天の真言。
「オン・ビリチビエイ・ソワカ」
地天の真言。
「オン・イダテイタ・モコテイタ・ソワカ」
韋駄天の真言。
「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」
薬師如来の真言。
「オン・バザラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ」
虚空蔵菩薩の真言。
「オン・ソラソバテイエイ・ソワカ」
弁才天の真言。
「オン・マユラ・キランデイ・ソワカ」
孔雀明王の真言。
「オン・メイギャ・シャニエイ・ソワカ」
八大龍王の真言。
「オン・ナウマク・サマンダ・ボダナン・ガララヤン・ソワカ」
阿修羅の真言。
そして――。
「オン・アビラウンケン・ソワカ」
神々の教主とも呼べる偉大な存在――大日如来の真言を唱える。
そうして口と両足を動かしていると、自分が住職を務める福徳寺が見えてきた。
福徳寺はT字路の奥の山側にあり、近くには民家が何件かあるのみ。
そんなT字路に近づいたとき、歩道にいた少年が空心を見て大きく手を振った。
「あっ! わ~ちゃ~ん!」
福徳寺の近くに住む、小学三年生の洋一だった。
洋一は空心のことを「わーちゃん」と呼ぶ。
これは空心が檀家の人たちから「わじょうさん」とも呼ばれているからだ。
漢字で書くと「和尚」だが、この漢字を真言宗では「おしょう」とは呼ばない。
真言宗では「和尚」と書いて「わじょう」という。
そのため、檀家の子供たちは親しみを込めて空心のことを「わーちゃん」や「わーさん」と呼んでいる。
そんな檀家の子である洋一は、歩道でサッカーの練習をしているようだ。
これは危ない。
両親には何度も注意を受けているはずなのに、洋一は車の往来が少ないことで親の目に隠れてサッカーの練習をしているのだ。
(まったく、ここは私が厳しく注意してあげねば――)
と、空心が洋一の名前を叫ぼうとしたときだ。
役場のほうから一台の大型トラックがT字路に向かって走ってきた。
「――――ッ!」
空心の心臓が気持ち悪く跳ねた。
トラックの様子がどうもおかしい。
スピードの出しすぎもそうだったが、対向車線に近づいたりと妙にフラフラとしている。
まさかスマホを見ているか居眠り運転をしているのか。
どちらにせよ交差点に近づいているのにスピードを落とす気配がない。
一方、洋一はトラックが猛スピードで交差点に近づいていることに気づいていない。
それどころか、サッカーボールを持って空心に向かって駆けてくる。
信号のない横断歩道を横切りながら。
「わ~ちゃ~ん! ご飯ができるまで一緒に遊ぼうよ!」
(このままでは轢かれる!)
空心は草履を脱ぎ捨てると、白足袋のまま走り出した。
「洋一くん、来た道を引き返しなさい!」
全力で駆けながら大声で叫ぶ。
それが仇になったと気づいたのは数秒後だった。
空心が勢いよく駆けつける姿に驚いたのだろう。
洋一は立ち止まってキョトンとしてしまった。
横断歩道の真ん中でだ。
一秒が恐ろしく長く感じた中で、空心は決断した。
このままでは洋一は轢かれる。
だが、歩道まで突き飛ばせば洋一だけは助かる。
(神々よ――私に力を!)
空心は一秒でも早く洋一の元に辿り着くよう神々に祈った。
中でも特に強く唱えたのは、俊足で有名な韋駄天の力を得る真言だ。
(オン・イダテイタ・モコテイタ・ソワカ!)
直後、グンッと走る速度が上がったような感じがあった。
普段の僧侶服とは違って袍裳や七条袈裟を着ていたものの、韋駄天の真言を強く唱えたあとに身体が軽くなった実感があった。
(間に合え!)
ドンッ!
空心は呆然と立ち尽くす洋一を両手で突き飛ばす。
すべてがスローモーションに見えた中、洋一は歩道へと突き飛ばされて背中から落ちた。
それを見た空心は安堵の息を漏らしたものの、すぐに自身の身体に衝撃が走った。
視界が一瞬で真っ暗になり、強風で肉体が吹き飛ばされたような感覚に陥る。
やがて何度か転がりながら肉体が静止した。
「ごはッ!」
仰向け状態だった空心は、口から大量に吐血した。
ゴボゴボッと泡のような血がとめどなく溢れてくる。
(ああ……これはダメだな)
不思議と痛みはそんなに感じなかった。
代わりに体温がどんどん奪われ、熱さと寒気が交互に来るという体感だけが全身を駆け巡る。
数秒後、空心の全身が痙攣を始めた。
僧侶でなくてもわかる。
生命の灯が消える前に訪れる、死の痙攣。
指一つ動かせず、美しいほどの茜色の空を見上げることしかできない。
自分はここで死ぬ。
けれど、最後にこれから育つ若い命を助けた。
それに対して後悔はない。
きっとあの世で祖父も両親も褒めてくれるだろう。
お前は僧侶として立派な行いをした、と。
ただ、空心は自分の生き方としての後悔はあった。
(私は……まだ……やりたいことが……あったんだがな)
心地よい睡魔に襲われるような感覚の中、空心は静かに目を閉じる。
そのときだった。
脳内に「チーン」という澄んだ音色が響いた。
それは仏壇にある、おわん型の鈴――おりんの音だった。
続いて音声ガイドのような無機質な声が聞こえてくる。
『長峰空心の【真言徳位】が一定基準を超えました。これより魂を須弥山へと転送いたします』
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よろしくお願いいたしますm(__)m