かわいいアレクはかわいくない
血の表現あります。
ご注意願います。
霧の垂れ込める夜更けの街で、フィナリアは密かに息を潜めていた。
彼女の金髪は月光を浴びて静かに輝き、吸血鬼の特徴の赤い瞳は夜の闇に溶け込みながらも、どこか寂しげであった。
シチューの鍋をかき混ぜながら、フィナリアは10年前の今日を静かに思い出していた。
この街ではない街にいた頃、フィナリアの小さな花屋には様々な客が訪れていた。
彼女の異国めいた美しさと、どこか神秘的な気配に引き寄せられるようにして、男たちは彼女に言葉をかける。
フィナリアは微笑むだけで、彼らは赤く頬を染める。
彼女には魅惑の力がある。
フィナリアにとって、それは普通の出来事であり、そして寂しいことだった。
何百年も老いない体を抱いて、ずっと色々街を移り住んできた。
故郷の気安い隣人や穏やかな気候が遥か昔のことのように遠く感じるようになった頃、かの養い子は現れた。
十数年前、ある満月の夜、フィナリアはスラムの一角から飛び出してきた少年を見つけた。
路地から転がり出るようにした小さな体は、小さなパンを抱えたべしゃりと地面に突っ伏した。
それを追って路地から出てきた大柄の男が、足を後方に大きく挙げた。
ああ、蹴ろうとしている。
「ねぇ」
フィナリアの呼びかけに振り返った男は赤く光る赤い目をみたはずだ。
そうでなければならない。
「立ち去りなさい」
フィナリアの主のようなつんとした声に、男はふと無表情になると、曖昧に視線を彷徨わせ、少年のことなど忘れたかのように踵を返した。
後には、呆然と突っ伏している少年とフィナリアだけが残った。
薄汚れた長い髪はよく見るともともとは金髪のようだ。
どこかで拾ったのか盗んだのか、大人用の大きな服を無理やり纏っている。
どこもかしこも汚れているその小さな体から、爛々とした水色の瞳だけが生の気配を漂わせていた。
「あなた、名前は?」
少年は、警戒したようにパンを抱え直すと、「おまえ」と答えた。
なるほど。
名前はないようだ。
「そう。贅沢はさせてあげられないけれど、一緒にくる?」
少年は動かなかった。
なので、フィナリアはそのまま歩き出した。
遅れて、ぽてぽてと小さな足音が聞こえる。
その足音を聞きながら、フィナリアはずっと、一等素敵でカッコよく、誰にも負けない名前を考えていた。
がたんと扉から建て付けの悪い音がした。
アレクが帰って来たようだ。
背丈は大きく、数年前にフィナリアを超えた。
人間では16歳ほどの大きさだろうか。
フィナリアが振り返ると、すぐ後ろにアレクが立っていた。
薄汚れたあの小さな体は、自警団で鍛えているだけあり、小柄なフィナリアを抱え込めそうだ。
アレクは鍋をのぞいていた。
「今日は、あなたの好きなシチューよ」
アレクは牛乳が嫌いだ。
それにしては大きく健やかに育ったと思うが、牛乳を煮詰めたシチューは好きだった。
シチューのおかげで背が伸びたのかもしれない。
シチューに感謝。
アレクの栄養になるだろうシチューをかき混ぜる時、フィナリアはいつもどこか満足感に似た気持ちを感じている。
フィナリアにはあまり栄養が取れない食事だが、アレクのためだと思うととてもとても楽しかった。
おおきくなあれ、と願いを込める。
「おかえり、アレク」
「……ただいま。もう体調はいいわけ?」
アレクは不機嫌そうにそっぽを向いたが、その声音は心配げに揺れていた。
「ええ。もう大丈夫よ。ただの貧血だから」
「貧血っていっても、最近頻繁すぎないか」
昨日ふらりと壁に手をついたとき、アレクは真っ青な顔をしていた。
もうフィナリアがいないと生きていけないか弱さはどこにも見当たらないのに、まだまだ子どもだなぁと薄く笑みが溢れる。
「大丈夫だってば。ほら、座ってちょうだい。桶に水を汲んであるから、手を洗って。食卓に付いてね」
不服そうな顔をしているくせに、きちんと言葉には従うのも微笑ましい。
「今日の食事に感謝を」
そっと祈りを捧げて、シチューを食べ始める。
お行儀良く育ってくれて嬉しい限りだ。
食事を終え、後片付けをする。
皿を片付けるのはいつもアレクがしてくれている。
そろそろ寝ようかとフィナリアが着替えようとワンピースの編みあげ紐を解いた瞬間、目ざとく見つけたアレクが「ちょっと!」と大きな声を上げた。
こちらに背を向けていたはずなのに、これが自警団の特訓の成果だろうか。
「だからここで着替えるなっていつも言ってるだろ!!」
「あら。でもここ一部屋しかないし。あ、そっか。外で着替える?」
「なんでそんな自信満々に解決したって顔してるの!?アホなの!?」
アレクは大股3歩でベッドに近づくと、シーツを投げてよこした。
「着替える時は言ってくれたら外に出るから」
「面倒でしょう。それに夜は危ないわ」
「誰に向かって言ってるの」
「私のかわいいアレクよ」
「うん。そっか。そのかわいいアレクに無茶苦茶に噛みつかれても知らないからね」
「まあ」
フィナリアは驚いて頭から被っていたシーツから顔を出した。
「噛みたかったの?腕くらいなら貸すけれど…」
「だからアホなの!?」
ベッドに一歩近づこうとしたフィナリアは、シーツの裾に躓いてころんと前に倒れた。
最近、転ぶことが多い。
ふかふかのベッドに倒れられるか微妙な距離だ。
床とフィナリアの間に逞しい腕が滑り込み、いとも簡単に体全体を持ち上げた。
ひょいと猫の子でも持ち上げるように宙にあげられ、下ろされたのは真っ白いベッドの上だった。
昔は隣同士に置いていたベッドは、いまはアレクによって壁ぎりぎりまで離されている。
恥ずかしいお年頃なのだろう。
本当な小さな頃は一緒のベッドで眠っていたが、子どもの成長は早い。
「ほら。やっぱり体調悪いんじゃないの?」
「シーツに躓いただけよ。それより、おやすみのキスをしましょう」
まっすぐに額にかかる金髪を優しくかき上げて、丸いおでこに口を寄せようとすると、おでこは一瞬で遠かった。
ベッドに座るフィナリアを見下ろして、アレクはあの爛々と光る青い瞳を細めた。
「……本当に噛みつかれたいの?」
「……昔はあなたからキスをせがんできたのに」
「いつの話をしてるの」
グリグリ、頭に人差し指の第二関節を押し付けられると、地味に痛い。
かわいいアレクが噛み付くはずがない。
噛み付くのは、フィナリアの専売特許だ。
花屋の朝は早い。
騎士団の朝も早いので、ふたりは同じ時間帯に部屋を出ていく。
朝、着替えでまた一悶着あってから、大通りから少し曲がった路地にある花屋に向かう。
「あの」
「あら。キャシー。おはよう」
キャシーはまだ10歳ほどの赤髪の女の子だ。
親が病気で動けないために路頭で花売りをしているのだが、道で詰んだ花よりは良いだろうとフィナリアは毎朝少し変形してしまった花や咲きすぎて売れない花を渡していた。
「ありがとう」
昨日の晩に見繕っておいた花を渡すと、キャシーはひょこりと頭を下げて、カゴいっぱいの花を持って大通りを抜けていく。
「いいのかい。あんな風に渡してしまって」
「きゃっ」
腰に手を回されて、フィナリアは飛び上がった。
見知った顔だったことに安堵して、「セベク様」と名前を呼んだ。
「驚かせないでくださいな」
「驚かせるつもりはなかったのですが、朝から貴方の美しさに当てられて、どうしても欲を制御できなかったようです」
にこりと笑ったセベクが、「ぐ」と声を出して倒れた。
自警団きっての切れ者が地面に沈む姿はなかなか見れるものではない。
解放された腰を他の誰かがぐいっと引き寄せた。
フィナリアは自然と笑顔を浮かべた。
「あら。アレク。見回りかしら?」
「まあね」
「フィナリアさん、お花を一輪いただけますか?」
「あら。どんな?」
「あなたの好きな花を」
「フィナリア、売らなくていい」
「もう。アレクってら。セベクさんは常連さんよ。もう。愛想良くしてよね」
「いや、こいつは買った花をフィナリアに帰しているだけだから。なんの意味もない」
「意味はあります。私がフィナリアさんに花を贈りたかったのです」
胸を張るセベクをアレクが睨む。
「貴方たち、お仕事しなさいな」
いつも通りの1日が始まる。
その日の夕刻、フィナリアはぼんやりお外を見つめていた。
ぐるんぐるんと目の前が回っている。
お客様が来る時間は終わり、もう閉店の時間だが、フィナリアはなかなか小さな木の椅子から立ちあがることができなかった。
「さすがにもう……無理かもしれないわね」
大通りから外れた路地を1人の紳士が歩いている。
「お兄さん」
呼ばれた紳士が振り向くと不思議な色合いの瞳を見た。
夕暮れ時の曖昧な色合いに照らされて、金の髪が透けて見える。
どこか妖しいほどに美しく、どうしようもなく惹きつけられる。
ずっと昔から、この人を好きでいたような気がする。
紳士はゆっくりと女に近づいた。
男は唇を近づけた瞬間
「ごめんなさい」
すっと背伸びをしたフィナリアは、紳士の首筋に顔を寄せた。
いつもは隠している牙を剥き出しにする。
「ごめんなさい」
もう一度呟いて、その首筋に牙を突き立てようとした。そのときだった。
「フィナリア」
静かな声だった。
「その男の血は吸うんだね」
アレクだった。
「ねえ。あの人たちは何をしているの」
大通りで抱き合う人を見て、小さなアレクはフィナリアを見上げた。
先ほどこの町に船がついたばかりなので、再会を喜んでいるのだろう。
いつもは慎ましくしているだろう人々だが、道には何人か抱き合う男女がいる。
「そおねぇ。愛を与えているのかしら」
「愛ってあげられるの?」
「ええ。無限に」
「そんなにあげたら持ってた分が無くなるよ」
「大丈夫、与えられることもあるからね。なくならないわ」
それは、ひとりで生きてきたフィナリアの願いだった。
家の扉を閉めても、アレクはフィナリアの手を離さなかった。
ベッドの前に立つと、アレクは黙ってフィナリアに座るように顎で示した。
「……アレク」
「知ってるよ。フィナリアが人間じゃないって」
フィナリアは息を呑んだ。
「何年も君は老いていない」
フィナリアはどこか空虚な気持ちで聞いていた。
5年ごとくらいに住む場所を変える。
なぜなら、老いないことは人間的におかしいことだからだ。
本当は一年前、この子どもと出会って5年目、フィナリアはアレクの前から消えるつもりだった。
もうそろそろおかしいと思われてもおかしくない。
それなのに。
フィナリアは、彼の前から立ち去ることができなかった。
夜、何度も家を出ようとした。
でもできなかった。
扉を開けた先の夜の闇はフィナリアたちの一族の味方であるはずだが、闇の中でも見通す赤い目を持つはずの彼女には底なし沼のような空間が広がる空虚に見えた。
そこに、フィナリアのかわいいアレクはいない。
「吸血鬼って、血が必要なんじゃないの?」
はっと息を呑む。
顔を上げることはできない。
自分の一番知られたくない部分を知られていることが、どうしようもなくフィナリアの胸を掻き立てた。
「でも、一度も飲んでいるところを見たことない。何年飲んでないの?」
フィナリアは沈黙で答えた。
「最近、ずっと辛そうだよね。血が必要なんじゃないの?」
じっと首筋を見つめる。
その視線を辿ったアレクは、ベッドサイドのりんごのカゴからフルーツナイフを取り出して、自身の手の内側を切った。
「アレク!」
フィナリアの静止の声が響いたのは、切った後だった。
「飲みなよ」
血の滴る手をフィナリアに寄せる。
「いや!」
「俺じゃだめってこと?」
「なにを……」
「君の餌になるなら本望だよ」
「アレク!!!」
フィナリアはほとんど悲鳴をあげた。
「君が好きなんだ」
フィナリアはぽかんとした。
「私も貴方を……」
「家族愛じゃないよ。いや、家族にはなるつもりなんだけど。それは追々」
意味を逡巡しているその頬に、アレクの手が触れた。
「愛しているんだ」
アレクの言葉がぽつんとフィナリアにふってきて、唇がわなわなと震えた。、
長い年月を生きてきた彼女にとって、人と一緒に生きる人生など夢物語だった。
彼はゆっくりとフィナリアの肩に手を添え、彼女をそっとベッドへと押し倒した。
手慣れたとのではなく不器用ささえ感じるのに、アレクの手つきは優しかった。
それこそ、愛だと言わんばかりに。
彼女は思わず顔を赤らめたが、その瞳をそらすことができなかった。
アレクの唇が近づくにつれ、彼女の心臓は鼓動を速め、その鼓動が夜の静寂に響くようだった。
「もう、子供扱いしないでくれ」
彼女は瞳を閉じた。
じわりと頬にアレクの血が伝う。
それはフィナリアのぽってりした唇にも落ちてきた。
とても甘い。
それは、永遠とも思える孤独が終わりを告げる予感に包まれていた。
✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻ – ✻
「そういえば、どうして昼でも外出れるの?」
「ハーフだから」




