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「やぁ、ドロシー殿」
にこやかな笑顔で近付いてきたノアを、ドロシーは無意識に避けるように一歩下がった。
「こんにちは、ノア様」
ちょっと顔が引きつっていないか不安だが、これ以上、単なる友人の兄に迷惑をかけるわけにはいかない。
皇妃付きではない侍女に話を聞いたら、確かにほんのちょっとだけドロシーとノアのことが噂になっていたようだ。
言いふらしていたのが、どうやらあの日、ノアに振られた令嬢らしくて、彼女がノアに付きまとっていたのを知っている人たちが、ドロシーのことは彼女の嫉妬からくる作り話だろうと言って処理してくれていたらしい。
けれど元はと言えば、ドロシーがノアと話をしている姿を目撃されていることが噂の始まりなので、それさえも避けたいところなのだが、肝心のノアが笑顔でこうして声をかけてくる。
止めてください、とはさすがに言えない。
さりげなく距離を取ったつもりなのだが、なぜだかノアの方がじりじり距離を詰めてきている気がする。
「妹が最近、君と会っていなくて寂しいと言っていたよ」
「まぁ、フレデリカがそのようなことを。確かに仕事を覚えるのに精一杯で、友人たちに手紙の一つも書いていませんでしたわ」
「なら、今度の休日に我が家に来たらいい。妹も喜ぶ」
フレデリカがドロシーと会えなくて寂しそうにしていたのは事実だ。
だが、その前に、ノアはフレデリカにドロシーとの噂のことで責められていた。
兄に会わせるために皇宮勤めを勧めたわけじゃないのに、どうやって目を付けたのか、手を引け、というような感じで責められた。
もちろんノアは引くつもりはないので、友人が義姉になる利点を挙げて妹を説得した。
ミラー伯爵とのことを知っているフレデリカは、彼に比べれば兄の方がマシという結論に達したらしく、積極的に応援はしないけれど邪魔もしない、という立場を取ると約束してくれた。
後は、ノア次第だ。
「フレデリカには会いたいですが、さすがに侯爵家にお邪魔するのは……」
今は特にまずい。せめて、ノアとの噂がもう少し下火にならないと、余計な噂がさらに広まりそうだ。
「問題ない。よければ、馬車も出すから」
「それは、さすがに……」
ドロシーの顔が少し引きつった。
そんなことをされたら、確実に変な噂が流れる。
「ノア様、フレデリカには手紙を出します。もう少ししたら私も落ち着くと思うので、そしたらフレデリカと会いたいと思います」
「残念だけれど仕方ないね。そうそう、ミラー伯爵と離婚をするという話だったが、その後はどうだ?もし、彼ともめているようなら力になるが」
「大丈夫です。サイラス様とはもうすぐ話し合いをするので、そこで今後のことを決めたいと思っています」
今後のことといっても、離婚は決定事項なので、それをいつにするか、とかそういう話し合いになる。
それでドロシーの人生は、一度、落ち着く予定だ。
その後は、このまま皇宮勤めをして、それから……。
それから、どうしよう。
自分が何をやりたいのか、どうなりたいのか、そんなことは今は見えない。
このままずっと分からないままかもしれないけれど、少なくとも、今のままではドロシーは不幸なだけだ。
他の誰がどう言おうと、ドロシー自身が幸せではないと感じている。
「妹や噂で君たち夫婦のことを聞いていたから、君たちはすんなり離婚出来ると思っていたんだけど、どうもおかしくなってきている気がしてね」
「おかしく、ですか?」
「ネックレス」
「……さすがにあれだけの人目があるところで渡されましたから……ですが、あのネックレスごときで私の心が動くと思っているのなら残念でなりません」
「君の心はすでに決まっていると思っているよ。その程度の贈り物は、今更だろう。私が危惧しているのは、君の心じゃなくてミラー伯爵の方だ」
「サイラス様の方ですか?」
「そうだ」
ドロシーは、ノアがサイラスのことを気にしていると知って驚いた。
「ミラー伯爵が妻である君に、贈り物を今まで一度もしたことがない、と妹が怒っていたのを思い出したんだ。そんな彼が人目のある場所で君にネックレスを贈るなんて、おかしいと思っても仕方ないだろう?」
他の人にそう言葉にされると、確かにおかしい。
伯爵という地位にいる人間が、妻に一度も贈り物をしてないって、それだけで面白おかしく噂される案件だ。
そんな伯爵が、人前で働きに出た妻にネックレスを贈る。
「……言葉に出されると、すごくおかしいですね」
「だろう?君の態度は変わっていない。変わったのはミラー伯爵の方だ」
「そうですね。ただ、個人的には、あのネックレスは周囲の人間にあれこれ言われたからだと思っています。サイラス様は、その、少々、周りの方の言葉を信じる傾向がありまして……。きっとご友人のどなたかに、皇宮で働いている女性はネックレスくらいしているのに、お前の妻はしてないのか、というようなことを言われたのではないでしょうか」
心変わりというよりも、いつもの保身だ。
「私のことで、誰かから何か言われたり、自分が馬鹿にされたりするのが嫌だっただけだと思います」
「だといいけれど……。万が一、ミラー伯爵が離婚届にサインしないようなら私に相談してほしい。きっと力になるよ」
ノアは、すでに色々と手を回してはある。
ただ、これから先のことを考えると、出来れば穏便に夫婦の話し合いで離婚をしてもらいたい。
「ありがとうございます、ノア様。フレデリカの友人というだけの私に、色々とお気遣いをいただきまして。万が一の場合は、よろしくお願いします」
ここで断っても、何だかんだと言いくるめられそうな気がしたので、ドロシーは素直に礼を言った。
頼る気はないけれど、万が一の場合の手段があるのは、正直、助かる。
この結婚は、夫婦としての幸せに結びつかなかったけれど、離婚はドロシーとサイラス、二人の幸せに結びつく。
サイラスは家族だけの生活に戻れて幸せになれるし、ドロシーは自分をいつまでも異物として扱う家族から離れられて自分のために生きられる。
まずは第一歩だ。
それが本当に自分の幸せに繋がるのか分からないけれど、ドロシーはすでに決意を固めていた。