⑤
読んでいただいてありがとうございます。
「ドロシー、それを渡したら、ついでに休憩してきていいわよ」
オーレリアの言葉にレティシアも笑顔で頷いていたので、ドロシーはその言葉に甘えることにした。
すでに時間はお昼近い。
今からこの書類を届けて食堂に行けば、昼食を食べるのちょうど良い時間になる。
「はい、では行ってきます」
基本的に皇妃の傍には、レティシアかドロシーのどちらかがいればいい。
ここに勤めて間がないドロシーの方が、顔を覚えてもらうためにも、あちらこちらに出向いている。
おかげで道もだいぶ覚えた。
皇妃付きの印であるこのドレスを着ている限り、そんなおかしなちょっかいもかけられない。
ドロシーは、今の生活が充実して気に入っていた。
どうせそのうち離婚して一人になるのだ。このままここでずっと働いて、皇帝夫妻が退位して離宮に引っ越しする時には、一緒に連れていってもらおう。
最近はそんなことを考えられるようになり、実家やミラー伯爵家にいる時より充実した日々を送っていた。
気分良く書類を渡し、そのまま食堂でご飯を食べていたのに、なぜこの人が目の前に座っているのだろう。
「……サイラス様、何かご用ですか?」
美味しかった食事の味が一瞬にして分からなくなった。
目の前に座った一応、名目上の夫のせいだ。
「これを」
そう言って差し出されたのは、小さな箱だった。
ドロシーには全く心当りのない箱だ。
「この箱が何か?」
大きさと箱の感じからしてジュエリーっぽい気がするが、こんな物を差し出される理由がない。
逆に空のジュエリーの箱を見せられて、盗んだんじゃないか疑惑を向けられたことはある。
「……受け取ってほしい」
「理由がございません。そもそも、中身は何でしょうか?」
「開けてみてくれ」
内心でいくら、えー嫌、とか思っていても、そう言われたので、恐る恐る開けた。
想像通り、中に入っていたのは、ネックレスだった。
それも、夜会などに身に着ける豪華仕様の物ではなく、普段使い用の小さなダイヤモンドのネックレスだ。
ますますもらう理由がない代物だ。
「サイラス様、これは一体?」
「君への贈り物だ」
余計、食堂で渡される意味が分からない。
「サイラス様?」
「皇宮で働いている女性は、これくらいの装飾品を身に着けている人が多い」
「まぁ、そうですね」
レティシアも、恋人からもらったというサファイアのネックレスを着けている。
風紀を乱すようなおかしな物でない限り注意されることもないので、シンプルな小ぶりのネックレスを身に着けている女性は多い。
当然ながら、ドロシーはそんな装飾品を一切持っていない。
生家ではそれらは姉と妹にいき、ミラー伯爵家ではそもそも贈られたことがない。
結婚指輪くらいしか持っていなかったが、それも家を出る時に置いて来た。
そのうちお金が貯まったら一個くらい買おうかな、と思っている程度で、ドロシー自身は装飾品にそこまでの興味はない。
買おうと思っていたのも、ダイヤモンドではなく色つきの宝石だ。
ダイヤモンドに罪はないが、今更、宝石を贈られても、とは思う。
「いただく理由がございません」
やるならせめて食堂じゃない場所、出来れば人目があまりない場所でやってほしかった。
こんな大勢の場所でやられたら、どうがんばっても噂になる。
まぁ、今更噂の一つや二つ増えたところでどうってことはないが、皇宮にいられなくなるのは嫌だ。
「……君は伯爵夫人だ」
「……あぁ、そういうことですか」
おそらく誰かに言われたのだ。
お前の妻は、ネックレスの一つもしていないのか、と。
伯爵夫人としてどうなんだ。皆、それくらい身に着けてるぞ。お前の妻は、そんなことも知らないのか。
そんな感じで嫌みというか、にやにやして言われたのだろう。
ドロシーを貶めて、装飾品をサイラスが一度も贈っていないことを笑う。
悪趣味なお友達の言葉に、サイラスは慌ててネックレスを持ってきたのだろう。
「サイラス様、必要なら自分で買いますので、それはデイジー様にでも贈られたらいかがですか?」
サイラスがドロシーにネックレスを贈ったなんて噂が立てば、すぐにそれを寄こせとデイジーに言われるだろう。デイジー曰く、ミラー伯爵家の物なんだから、それに相応しい人間が身に着けるべきだ、とのことだ。それくらいなら、最初からサイラスに直接、渡してもらいたい。その方がデイジーも喜ぶだろう。
「いや、デイジーには渡さない。これは君の物だ。君が受け取ってくれないのなら、捨てるしかない」
「あの、サイラス様?本気ですか?」
「本気だ。これは君に渡したくて、買ったんだ」
いつになく真剣な表情のサイラスに、もっと早くこうして話をしていたら、多少は変わったかもしれないのに、とドロシーは残念に思った。
すでにもう遅い。
サイラスの幸せは、ドロシーではない他の誰かに委ねられた。
ドロシーの手からは、滑り落ちた後だ。
けれどきっと今のサイラスは、そのことに気が付いていない。もしくは、気が付いていないふりをしている。
昼には少し早いとはいえ、すでにこの場には人が集まり出していた。
断固拒否の姿勢を貫いてもいいが、それをやる気力もない。
「……分かりました、サイラス様。このネックレスはいただきます。それでよろしいですか?」
「あぁ、それでいい」
サイラスは、あからさまにほっとした顔をしていた。
ドロシーは、このネックレスを一時保管のつもりでもらった。
そのうち誰かが何か言ってきたら、サイラスの新しい妻やデイジーに返せばいい。
そう思って、ドロシーはネックレスを受け取った。
受け取ると、サイラスがどこか期待に満ちた瞳をしていた。
……これは、この場で身に着けろ、と?
恐らく正解ではあるのだが、それを素直に身に着ける気はなかった。
「サイラス様、どうしてネックレスを持って来てくださったのか理由は分かりませんが、本当に無理をなさる必要はありませんよ」
「……無理などしていない。そのネックレスだが、出来れば身に着けてくれ」
家に帰ればいつもいたドロシーという存在がいなくなって、サイラスは初めて喪失感というものを味わっていた。
今までドロシーのことを知識として知っていただけの貴族たちが、皇宮で仕事をしているドロシーを直接見て、噂話をしているのが腹立たしかった。
だがそういう人たちは、たいていドロシーを褒める。
ドロシーが仕事をしているのを貶めるのは、サイラスの友人たちだった。
今更、と言われるかもしれないが、サイラスの中でドロシーとやり直したい気持ちが日に日に強くなっていっているのだった。