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【電子書籍化】誰のための幸せ  作者: 中村 猫(猫の名は。)
3/28

読んでいただいてありがとうございます。

『皇宮に行くまでの間に部屋を整理したいので、デイジー様や使用人たちには何も言わないでください。言うのは私がいなくなってからにしてください。サイラス様がもし何か言えば、デイジー様は必ず私に言ってきます。今まで一度も怒られたことのないデイジー様がお兄様に怒られたら、どうなるか分かりませんし……たとえば、私の頬が腫れたまま皇妃様の元に行くのは、外聞が悪すぎますよね?』


 ドロシーにそう言われて、サイラスは黙るしかなかった。

 デイジーはそんなことなんてしない!

 反射的にそう言いそうになったが、今までデイジーや使用人たちに聞いてきたことが嘘だったと知ってしまった以上、デイジーがどういう行動に出るのかサイラスには分からなかった。

 今重要なのは、ドロシーを無事に皇宮へ送り出すこと。

 少しでも不審なことがあれば、皇宮から目をつけられるだろう。

 そうなれば、ミラー伯爵家が終わってしまう可能性だってある。

 それは、避けなければならない事態だ。

 ドロシーとサイラスは、一つだけ約束をした。

 半年後に、話し合いの場を設けること。

 それまで会ってはいけないのか、とサイラスが聞けば、ドロシーは首を傾げて、会う必要はあるでしょうか?と聞き返した。

 聞かれたサイラスは、言葉を詰まらせた。

 会う必要は……ない。

 一年間、ほとんど何も個人的なことをしゃべった記憶がない。

 いつも、デイジーがいた。

 ドロシーと話をしようとしてもデイジーがしゃべりかけてきて、ドロシーはただ静かにしていた。

 気が付くとその姿はなく、どこに行ったのかも分からなかった。

 結婚してからずっと、そんな状態だったのだ。

 これのどこが、新婚の夫婦だったと言えるのだろう。

 家にいてもそれなのに、外に働きに出たドロシーと会って話すことなど何もない。


『私はきっと物事を覚えるのに必死で、サイラス様と会ったところでお話しすることなどないでしょう』


 ドロシーのその言葉は、サイラスに対する哀れみから出た言葉だ。

 全てドロシーのせいにすればいい。そういう言葉だ。

 妻は物覚えが悪いから。そんな風に友人たちに言えばいい。

 それに気が付いて、サイラスは己の身勝手さに吐きそうになった。

 フェレメレン侯爵令嬢が皇妃に推薦するほど優秀な妻を、貶める言葉。

 サイラスの友人たちは、きっと同調してすぐに妻の悪口を言う。

 そんな女を妻に持って、お前は可哀想だ。

 サイラスを慰めるふりをして、そんな妻を持ったサイラスを下に見て、自分たちの自尊心を満たすのだ。

 サイラスだって、そんな人間の一人だった。

 気持ち悪い。

 吐きそうになる口元をぐっと押さえて、サイラスはせめてドロシーが出て行くまでは、何事もなかったかのように振る舞おうと決意した。

 そして約束の七日後。

 予定通りフレデリカがドロシーを迎えにきた。

 出て行くドロシーに、サイラスは小さく微笑んだ。


「……行ってらっしゃい……」


 けっして「お帰り」とは言えないであろう言葉で、サイラスはドロシーを送り出したのだった。





 皇宮で働き出したドロシーは、皇妃付きの女官として深緑色の動きやすいドレスを支給された。

 このドレスは皇妃直属の女官の証で、今はドロシーとレティシアという女性だけが着用していた。

 

「ドロシーさん、この本を図書室に返してきてもらっていいですか?」

「はい」


 レティシアはドロシーより先に皇妃に仕えている女性で、物腰が柔らかく、ドロシーに色々と丁寧に教えてくれていた。

 皇宮に出仕して間もないドロシーは、まだ部屋の位置も把握していないので、こうして簡単なお使いをこなしながらまずは各部署の場所などを覚えていた。


「ドロシー、それを返してくるついでに、新しい本を探してきてほしいのだけど」


 部屋のソファーで優雅に座っている女性が、皇妃オーレリア。

 皇帝の寵愛深い最愛の皇妃だ。


「どのような本でしょうか?」

「最近、ユージーン様が神話に興味をもたれているの。わたくしの生まれた国の神話の話をしたら、面白かったらしくて。国の地理的なことや軍事力、それに特産品等のことはご存じだけれど、神話のことまでは知らないから、物語として面白いのですって。でも、わたくしの国にはそこまで神話があるわけではないから、どこの国のものでもいいから、面白そうな話を探してきてほしいの。民話とか伝承とか、何でもいいの。あ、でも夜にお話ししているから、あまり怖い内容のものはだめよ」


 夜な夜なあの皇帝が妻の語る物語を聞いているのかと思うと、何だか微笑ましくなった。


「まるで千夜一夜物語のようですね」

「千夜一夜物語?それは何?」

「私もあまり詳しくはないのですが、砂漠の国の王様に毎夜、妻が物語を聞かせる、というような物語だそうです。私も昔、遠くの国から留学に来ていた方から聞いただけなので、内容までは知りません。一応、書店で探してみたのですが、どこにも売っていませんでした。店員の方も知らないと言っていました」

「まぁ、ふふふ、何だか親近感が湧くわ。世の中には、わたくしと同じことをしている方がいらしたのね」


 オーレリアの場合は、話をする場所がベッドの上で、さらにユージーンに抱きしめられている。

 どれだけ忙しくてもユージーンは、夜眠る前にオーレリアにその日のことを聞く。

 そして、時間がある時に、話を強請る。


「その千夜一夜物語という本があれば読んでみたいけれど、ないのなら仕方がないわ。ドロシーのお薦めの本を持ってきてちょうだい」

「はい」


 レティシアに図書室の場所を聞くと、ドロシーは本を持って部屋を出て行った。

 図書室は、北の別館にある。

 廊下で繋がってはいるが、北館は図書室を始め各種資料が置かれている部屋や、普段あまり使わない道具が置いてある物置部屋など、人の出入りが少ない場所だった。

 以前レティシアから、ちょっとした空き部屋で男女の密会をしている人もいるから気を付けてね、と注意を受けたことがある。

 基本的には目的地以外の場所の扉を開けるつもりなどないのだが、運が悪いとちょうど何かしらに遭遇することがある。

 そう、たとえば、今のこの状況のように。

 それほど広くはない廊下で、女性が男性に言い寄っている。

 絶妙にドロシーが横を通り抜けられない位置でやっているので、仕方なくドロシーはその場で終わるのを待っていた。


「……だから、君の思いには応えられないって伝えたよね?」


 少し垂れ目で目元の泣きぼくろが何だか艶めかしい男性が、若い女性を拒絶している。


「少しは考えていただけないのですか?必要なら、父から申し入れを」

「無理。君の父君から何を言われたところで、君と付き合うつもりはないよ」


 あそこまできっぱり断られても諦められない様子の女性に、あれほどの想いを持てるのはすごいな、と感心していたら、男性の方と目が合った。


「その服……皇妃様にお仕えする方かな?」

「はい。図書室に用がございまして、通れるようになるのを待っております」

「それは失礼した。君、ここは仕事の場だよ。これ以上、邪魔をするようなら、それこそ君の父君に注意をするように言わなくてはいけなくなるけど?」


 父に注意されると聞いて、女性は急いで去っていった。

 ドロシーの横を通り過ぎる時になぜか邪魔をして的な感じで睨まれたが、初対面でそれはどうかと思う。

 そもそも、こんな場所で修羅場っている方が悪い。

 垂れ目の男性が、ドロシーに向かって微笑んだ。


「申し訳なかった。私も図書室に用があるので、一緒に行こう。私は宰相補佐のノア・フェレメレンという」

「フェレメレン?ひょっとして、フレデリカをご存じですか?」

「フレデリカは妹だよ」

「まぁ、私はドロシー・ミラーと申します。フレデリカにはいつもお世話になっております」


 垂れ目の男性はフレデリカの兄だった。確かにフレデリカも少し垂れ目だ。

 ただ、同じ垂れ目でも泣きぼくろがあるかないかで、印象がずいぶん変わる。


「あぁ、君がドロシー・ミラー伯爵夫人か。妹の部屋の刺繍が入った物は、たいてい君の手作りの品だと聞いているよ。フレデリカが無理を言っていないか心配していたんだ」

「あれは、正式にフレデリカから仕事として依頼されていた物ですので、無理など何もしておりません」

「そうか。実は私も君の刺繍が入った品物を愛用させてもらっていてね。妹から見せてもらうたびに、いつも感嘆していたよ。母などフレデリカに、君の刺繍の十分の一でもいいから出来るようになりなさいと言っていたよ」


 家族のことを思い出したのか、ノアがくすくす笑うと、なぜか艶が増した。

 うーん、これは、あのお嬢さんではないけれど、落ちる方が続出するのでは……?

 そう思うと、この方と一緒に図書館に行くのはまずい気がした。

 ノアは悪くないが、誤解を招くことがありそうだ。

 だが、同時に、ドロシーにこれ以上変な噂が立ったとて、別に問題がない気もした。

 基本、社交をしていなかったので、今まで好き勝手に言われ続けてきたのだ。

 むしろドロシーと噂になったら、ノアが気の毒だ。

 今回は、自分が迫っている男性と別の女性が噂になるなんて、あのお嬢さんが嫌がるだろうから、変な噂が立っても躍起になって消してくれるだろう。


「ミラー伯爵夫人は、フレデリカの推薦で皇妃様にお仕えすることになったと聞いているが」

「はい。幸い私は手が空いておりましたので、こうしてお仕えするのに何の支障もございませんでした。家で刺繍をしているのも楽しかったのですが、皇妃様にお仕えするのも充実していて楽しいです。フレデリカには感謝しております」

「はは、あの子があなたの役に立てたようで何よりだ」

「フレデリカは大切な友人です。今は仕事を覚えるので必死で刺繍の方が出来ておりませんが、落ち着いたら刺繍もまたしたいと思っております。フェレメレン様も何かご入り用でしたら、フレデリカにお伝えくださいませ」

「……ノア、そう呼んでほしいかな。同じ皇宮勤めの身だ。これから先、会うこともあるだろう。出来れば名前で呼んでほしい。フェレメレンだと、父や妹と同じだからね」


 そう言われると、拒絶が難しい。

 ノアは、垂れ目で艶のある優し気な顔立ちの持ち主なのに、気質は少し強引で有無を言わせぬ感じがする。

 この方、外見で判断するとちょっと後が怖いかも。

 ドロシーの数少ない経験から言って、こういうタイプにあからさまに逆らうとさらに強引に物事を進められるだろう。


「では、ノア様、と。私のことも、どうぞドロシーとお呼びください。ミラー伯爵家のことをご存じでしたら、私と夫がそれほど上手くいっていないこともご存じのはず。ミラー伯爵夫人と呼ばれても、他人の名前にしか思えなくて」

「……サイラス・ミラーのことは、話に聞いているよ。君がその名を不快に思うのならば、ドロシー殿と呼ばせていただこう」

「はい、よろしくお願いします」


 ミラー伯爵夫人と呼ばれても、ドロシーはその名が自分のことを指しているようには思えず、とっさに返事をすることが出来ない。

 なので、同僚や皇妃は、ドロシーと名前で呼んでくれている。

 皇妃に仕えるのに、書類上は伯爵夫人の肩書きが役に立つこともあるが、現実の生活の中で役に立ったことなどない。むしろとっさに動けないので、その名で呼ばれても困る。


「ノア様、夫の話というのは、どういった内容なのでしょうか?噂話を聞いておいた方が、これから先の生活の中で対処が出来るので、教えていただけないでしょうか?」

「妹のことを盲目的に信頼しているそうだな。伯爵の友人たちはそのことを十分に知っているから、面白がって煽っているとか。夫婦仲を壊す人間のどこに信頼という言葉が相応しいのか、私には分からないけれど、ミラー伯爵は妹と友人を決して裏切らない存在なのだと思っていると聞いている。それゆえ、妻である君を蔑ろにしている、とね」


 間違っていない話なのがすごい。

 こういう場合、もうちょっと誇張されたりとか事実無根の噂が飛ぶことはよくあるが、誇張なしの事実だけが噂されるってある意味すごいことなのでは。


「……やはり事実なのだな。噂話だから話半分だと思って聞いていたけれど、妹からも同じことを聞かされたし、今の君の反応を見る限り、この話は本当のようだな」

「そんなに分かりやすい顔をしていましたでしょうか?後にも先にも、これだけ事実だけが正確に流れた噂というものは、存在しないのではないでしょうか?大変、驚きました」


 一切否定出来ない。


「驚いてはいるようだが、悔しくはないのか?」

「悔しいと思えるほどの仲を、サイラス様と築けなかったのも事実です。サイラス様の幸せが妹君とご友人に囲まれていることなのならば、私はその幸せを壊さないようにすることしか出来ませんから」


 無理矢理ドロシーがその中に入ってサイラスの幸せが崩れるのなら、ドロシーは関わらない方がいい。

 誰かの幸せにドロシーという存在が不必要ならば、ドロシーは極力関わらないように心がけてきた。

 血の繋がった家族だって、ドロシーを必要としなかった。

 ドロシーのためだと言って、自分たちの家族の幸せのためにドロシーを嫁がせた。

 幸せな家族という括りに、ドロシーは入ったことがなかった。


「なるほど。個人的な意見を言わせてもらえば、夫婦なのだから、どうしたらお互いが幸せになるのか二人で話し合うべきだったな。どちらか一方だけが幸せになる夫婦関係というものもおかしいだろう。二人で幸せになるか、二人で不幸になるか。夫婦という鎖で繋がった以上、全て連鎖するものだろう」

「連鎖ですか。だとしたら、今はとても良い状態なのではないでしょうか。サイラス様はご家族とご友人に囲まれて、私は皇宮で働けて。話し合いこそしておりませんが、お互いが幸せの状態です」

「そうか、まぁ、そういうことにしておこう」


 どうやらドロシーの耳には、サイラスに関する新しい噂話は届いていないらしい。

 ミラー伯爵夫人がついに家を出て皇宮で働きだした。勘違いサイラスがいよいよ捨てられた。

 そんな噂が今は囁かれている。

 ついでに、サイラスの様子がおかしいという話も聞いた。

 離れて働く今が幸せだと言うドロシーには、きっとサイラスの本当の気持ちは伝わらない。

 その機会は、今までいくらでもあったはずだ。

 サイラスが馬鹿げた話を信じなければ、ドロシーはそんな結論には至らなかっただろう。

 サイラスだけが悪いとは言わないが、いくら妹と友人たちが言ったからといって、自らの妻のことを何も信じず調べもしなかったサイラスでは、最初からドロシーと上手くいくはずがなかったのだ。


「……なら、いいよな……」


 ドロシーをノアがもらっても。

 サイラスがいらないと言うのならば、ノアがドロシーをほしい。

 一目惚れと言うやつだ。


「サイラスとはどうするつもりだ?」

「……そのうち、離婚になると思います。ですからそれまでの間に、私が一人でも生きていける手段を確保したいのです」

 

 それが、皇妃に仕える女官になることだった。


「そうか。ではドロシー殿は、これからもずっと皇宮勤めをするつもりなのか?」

「はい、出来る限りやりたいと思っています」


 サイラスの話題の時には一度も出なかった笑みを、ドロシーは浮かべた。

 その微笑みは、穏やかで優しそうで、ノアの心をさらに揺さぶることに成功したのだった。


 

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