㉖
読んでいただいてありがとうございます。今年一年、苦い恋シリーズにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。新年からはアンジェラの物語を開始したいと思いますので、よろしくお願いいたします。
はぁ、とサイラスはため息を吐いた。
この時期の仕事が忙しいのは仕方がない。
それでも去年の同じ頃は、友人や妹と毎日何かしらをしていた。
どれだけ忙しくても、そういう時間はしっかり確保していた。
けれど、そこに結婚していたはずの妻の姿はなかった。
新年の挨拶だって交わしていなかったと思う。
今は後悔しかしていない。
友人と妹たちの言葉を信じなければ、ドロシーは隣で微笑んでくれていたかもしれない。
そう思ってしまう未練がましい自分に嫌気が差す。
……そういえば、白い結婚だったドロシーのことは、抱きしめたことがない。
彼女の体温を感じたことなどない。
思い出すのは、仕方なく重ねられた冷たい手の感触だけだ。
「……ドロシー……」
その名を呼ぶ資格さえもう失ってしまった。
思えば、ドロシーはいつも正面からサイラスのことを見ていた。
妻としてサイラスの隣に立っていたのではなくて、サイラスと相対する状態でのドロシーしか知らない。
手を伸ばして抱きしめてさえいれば、今が変わっていたのだろうか。
この寒さを感じることのない温もりを分かち合えていたら、未来は変わっていたのだろうか。
雪が降りそうな寒さに耐えながら、サイラスは永遠に失ってしまった温もりについてずっと考えていたのだった。
仕事が一段落付いたので、ドロシーは自分用の紅茶を淹れて少しだけ休憩をしていた。
いつもはレティシアと一緒に使っている仕事用の部屋の窓から外を見ると、もうすぐ雪が降り出しそうな雲が空を覆っていた。
「もう年末……今年は何だか時間が経つのが早かった気がするわ……」
理由は分かっている。
去年まで、年末年始は一人で部屋で過ごしていた。
家族や夫たちはそれぞれパーティーなどに出かけていたようだが、普段と変わらない生活を送っていたドロシーは、この時期も部屋に籠もって刺繍ばかりしていた。
それが、今年のドロシーは仕事で忙しくて部屋には本当に眠りに帰るだけの状態になっていた。
たった一年しか経っていないのに、ものすごく違っていて笑えてくる。
そもそも、住んでいる場所も立場も全く違っているのだ。
全く必要とされなかった場所から、毎日何かしらの仕事があってドロシーが必要とされている場所に移ったことで、ただ流れていただけの時間が意味のある時間に変わった。
「ふふ、おかしなものね。そういえば、買い物の紙を提出しておかないと」
年末年始は店が閉まってしまうので個人的にほしい物があったら早めに買い物をしておかなくてはいけないが、皇宮勤めの者たちは色々な準備で忙しくて買い物にも行けないだろうということで、この時だけは特別に買い物用の紙が用意されており、それを提出しておくと皇宮に出入りする商人たちが用意して持ってきてくれるのだ。
わざわざ街に降りていかなくていいので、大変重宝している。
基本的に食堂は開いているので食べる物には困らないが、嗜好品やちょっとした日用品など個人的な物が対象になっている。
ドロシーはあまり物を買う方ではないが、それでもそろそろ部屋に常備してある紅茶がなくなってきたので買っておきたい。あと焼き菓子も。
「……本当に不思議よね。今までは、ほしい物があっても手に入らないと諦めていただけだったのに……」
今では誰に気兼ねすることもなく、ドロシーが働いて得たお金で好きな物を買いに行ける。
何を買おうとも嫌みを言う人間はいない。
そんなことを考えていたら、レティシアが部屋に入ってきた。
「ドロシー、オーレリア様が呼んでいるわよ」
「分かったわ、レティ」
あの騒動の後、ドロシーとレティシアは同僚から友人になり、今では気軽に話をすることも出来るようになった。
「寒くなってきたわねぇ。廊下は冷えるわ」
「そうね。明日あたり、雪が降るかも」
「雪が降ったら、小さな雪だるまでも作りましょうか」
レティシアの提案に、ドロシーはくすくすと笑った。
「陛下に怒られないかしら?」
「陛下なら、面白がって一緒に作ってくれるかも」
「そうね。陛下ってそういうところがあるものね」
案外凝り性な皇帝ユージーンが雪だるまを作ったら、綺麗な丸形の物が出来るかもしれない。
そんなことを言っていたら、窓の外でちらちらと雪が舞い始めた。
「……降ってきたわ」
「降り続くようなら、屋敷に帰らずに皇城で泊まり込む人が多いかもね」
天候が荒れたり仕事が忙しい時は、無理に帰らずに皇城で泊まり込む人間はそれなりにいる。
「リュシアン様は泊まるの?」
「多分ね。元々、最近は帰るのが夜遅くなるって言っていたから、雪が降ったら確実に泊まっていくわ。それを言ったら、ノア様もでしょう?」
「……分からないわ。最近は、時間が合わなくて会ってないの……」
いつもの仕事と年末年始の準備やらで、宰相室の人間は鬼モードに入っている。
的確な指示を冷静に出し続けている宰相室の人間たちは、そろそろ視線だけで誰かを射殺せそうだと武官たちからも怖がられている。
「図書室にもいらっしゃらないし、身体を壊していないといいんだけど……」
冬はいつもたちの悪い風邪が流行する。今年も流行っていて、ただでさえ忙しいのにそのせいでさらに人手不足に陥ったのだ。
「皇宮内でも流行っているものね」
「えぇ」
心配だけれど、次期フェレメレン侯爵で宰相補佐のノアは有名人なので、その動向は嫌でも耳に入ってくる。どこそこで歩いていただの告白されていただの、嫌でも耳に入ってくるので病気はしていないだろうというのは分かる。もし病気になって休んでいたら、女性たちがお見舞いに行きたいと言って騒ぐのは確実なので、それがないということは元気に皇城に出勤しているのだろう。
「次に会えるのは、年明けかもしれないわ」
皇宮は広い。それこそ特定の人物と会おうと思ったら探さないといけないくらいだ。
宰相補佐と皇妃付きの女官なので、ノアとドロシーは仕事上で会うことはある。けれど、なかなか偶然出会うことはない。そう考えると、きっと今まではノアがドロシーに合わせてここに来ていたのだ。
今のままだと、個人的なことを話せるくらい時間が取れるのは、年明けだろうか。
「早く会えるようになるといいわね」
「……はい……」
うふふふ、と笑うレティシアから見ると、やはりノアとドロシーは付き合っているように見えるのだろうか。ひょっとしたらレティシアだけじゃなくて、他の人から見てもそうなのかもしれない。
まだ、付き合っていません、というのはそろそろ厳しい状態になっている気がする。
ドロシーは、周りからノアとどう思われているのか考えながらオーレリアが待っている部屋に入った。
「どうしたの?ドロシー、何だか複雑な顔をしているけれど?」
ドロシーの様子を見たオーレリアが、すぐさまそう言って心配をした。
「何でもございません。少し考え事をしていただけです」
「そう?困ったらいつでも相談してね」
「はい」
オーレリアはいつも優しいので、職場環境がとても良い。
ここから離れたくないと思う一番の理由がこれだ。
「ドロシー、この本を図書室に返してきてほしいのよ」
「はい」
オーレリアのすぐ傍に、一冊の本が置いてあった。それは、以前ドロシーが借りてきた本だった。
「ゆっくり読んでいたから返すのが遅くなってしまったことを司書に謝っておいてね。それからドロシーお薦めの本は面白いから、今回も何か借りてきてちょうだい」
「歴史系がいいですか?それとも地域のことが書かれた本の方がいいでしょうか?」
「そうねぇ、そうだわ、旅行記があったらそれがいいわね。実際に訪れたことのある方の本を読みたいわ」
「旅行記ですね?分かりました」
本をしっかりと持つと、ドロシーは通い慣れた道を図書室へと向かって歩いて行った。
初めの頃は迷いそうで怖かった図書室への道だが、今のドロシーが迷うことはない。
さすがにずっと歩いているので、無意識に身体に染みついている。
こうしてあちらこちらに行くようになったことも、変化の一つだ。
ちょっとした毎日の積み重ねが、ドロシーの時間に変化を与えてくれていた。
「……だから、君の思いには応えられないって伝えたよね?」
どこかで聞いたことのある言葉がドロシーの耳に飛び込んできたのは、図書室近くの廊下を歩いている時だった。
少し垂れ目で目元の泣きぼくろが何だか艶めかしい男性が、若い女性を拒絶していた。
さして広くもない廊下でそれをやられるととても通行の邪魔になる。
以前のドロシーは、ただただ終わるのを静かに待っていた。
関わり合いになりたくなかったし、恨まれたくもなかったから。
ただ黙って静かに待っていれば、そのうちどちらかが気が付いて道を開けてくれるだろうと思っていた。
けれど、今のドロシーは違う。
ふっと笑うと、ドロシーは今度は堂々と修羅場っている二人に近付いた。
「申し訳ありませんが、図書室に用があるので通ってもよろしいでしょうか?それから、ここは仕事の場です。仕事の邪魔をなさるようでしたら、あなたの父君に注意がいきますがよろしいですか?」
ドロシーの言葉に、ノアは一瞬ぽかんとしたが、すぐに声を出さずに笑った。
その言葉は、初めてドロシーに会った時、ノアが同じように告白してきた令嬢に対して言った言葉だ。
「え?わ、わたくしに言っているの?」
急に見知らぬ女官が割り込んできてそう言ったので慌てて確認すると、女官はしっかり頷いた。
「はい。あなたは皇宮に勤めている方ではありませんよね。皇宮勤めの場合は上司の方に注意するように伝えますが、そうでないのでしたら、あなたの父君に注意がいきます。ノア様、こちらの方の素性はご存じですよね?」
「もちろんだよ。それと、誰に何を言われようが、君と付き合う気はない。あまり邪魔をするようだと、私からも正式に抗議を君の父君に送る」
ノアの言葉に女性は顔を青ざめさせるとすぐにその場から去っていった。
残念ながら、女性がドロシーとすれ違う時、邪魔をして的な感じで睨んでくることがなかった。
前の女性は睨んできたが、今回の女性は少しおとなしめの女性だったらしい。
「やれやれ、断ってもしつこい女性が多くて困る」
「それは、あなたが有能な宰相補佐で次期フェレメレン侯爵だからなのでは?」
「だろうね。そういう相手はいらないな。ところで、今回は介入してくれたんだね」
前回はノアがドロシーの存在に気が付くまで、ドロシーはひたすらじっと待っているだけだった。
けれど、今回、ドロシーは微笑みながら介入してきた。
それも、前回のノアの言葉をあたかも自分の言葉のように言って。
「あの時のノア様の言葉を、がんばって思い出して真似をしてみました」
「ほぼほぼ完璧だったよ。あの時、ここで初めて会ったね」
「はい。この廊下は、色々な意味で私には思い出深い場所となりました」
あの時は、この後まさか自分が離婚して、さらに命の危険が迫るなんて考えもしなかった。
そして、ノアという男性から好意を持たれて告白までされるとは。
あの時のドロシーと違って、今のドロシーは自分のための幸せを考えられるようになっていた。
それはとても我が儘なことなのかもしれない。
幸せを掴むために、どうすればいいのか自分なりに一生懸命考えた。
「ノア様、私の中の嫌な記憶を上回るような幸せを、一緒に探してくれませんか?」
ドロシーが真っ直ぐノアを見つめてそう言った。
ドロシーに告白した時、返事はゆっくりでいいと伝えた。
彼女にだって思うところはあっただろうし、何より離婚した直後だったから。
そのせいでノアのことを狙っている一部の女性たちからフリーだと思われていたが、そんなのどうでもよかった。まさか、このタイミングで他の女性から告白を受けるとは思っていなかった。
初めてドロシーと会った時と同じ状況になるなんて、どんな運命のいたずらかと思った。
あの時のドロシーは、告白されていたノアのことについて無関心だった。
きっと、通路を塞ぐ面倒くさい人たちだと思われていたに違いない。
フレデリカの兄だと名乗れば、微笑んでくれたが、あくまでフレデリカの兄としてしか見てくれなかった。
毎日少しずつしゃべって、自分のことを知ってもらって。
そして今、こうして真っ直ぐにノアのことを見てくれている。
ようやく、ドロシーの本当の感情を向けてもらえた。
心の中が歓喜に震えた。
「もちろんだ、ドロシー」
誰のためでもなく、自分たちの幸せを探そう。
どこまでも一緒に行こう。
ノアはドロシーにゆっくりと手を伸ばして、彼女を抱きしめた。
この場所は寒いけれど、ドロシーの身体は温かい。
この温もりを永遠に失うところだった。
「……私たちの幸せを一緒に……」
耳元で囁かれたその言葉を聞いて、ドロシーはおずおずとノアを抱きしめた。
「はい、ノア様」
それは誰もいない廊下で交わされた、二人だけの約束だった。




