⑳
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クレイルの言った通りの道を急いで通り抜けた先にあったのは、少し古びた屋敷だった。
庭などはある程度整えられているので、人が住める状態ではあるのだろう。
だが、これくらいの大きさの屋敷ならば、もっと人の気配がしてもいいものだが、あまりにも静かな屋敷だった。
「何だ?静かすぎる」
それこそ下働きの人間やメイドなどの気配も感じられない。
すでにこの屋敷は捨てられたのだろうか?
そう思って急いで出入り口を探すと、門のところに質素な馬車が止まっていた。
馬車には家紋も何も付いていない。
ノアが隠れてその馬車の様子をうかがっていると、屋敷の方から男の声がした。
「急げ、さぁ、来るんだ!」
男に腕を取られて強引に連れていかれようとしていたのは、ドロシーだった。
「離してください!」
「うるさい、黙れ」
男はドロシーを捕まえていない方の手で、彼女を殴った。
殴られたドロシーがぐったりしたのを見たノアは、怒りの衝動に任せてすぐに出て行きたくなった気持ちを抑えるために、深呼吸をした。
そして、ゆっくりと門の方へと歩いて行った。
ノアが近付いて来るのを見た馭者が、地面に降りてノアを睨み付けた。
「何の用でしょうか?」
ノアの出で立ちから貴族だと分かったのか、睨みつつもそう聞いてきた。
「お前に用はない。用があるのは、そちらの方だ」
ノアが見ているのに気が付いたのか、男が嫌そうな顔をした。
「その女性を離せ」
「はぁ?何を言っているんだ。こいつは俺の娘だ。躾の出来ていない娘を躾し直しているだけだ」
どうやら、男はドロシーの父親のようだった。
「なら、貴殿がコートヴァー伯爵か」
「分かったなら、口を挟むな」
「断る。俺はその女性を保護するよう陛下に言われているんでな」
「何だと!陛下が!?この女を?馬鹿な!」
コートヴァー伯爵が信じられないとでも言うかのように、目を見開いた。
「真実だ。ドロシー殿は皇帝陛下と皇妃陛下が信頼する女官だ。間違っても貴殿が好き勝手していい女性ではない」
「女官?コイツが?ただの下働きじゃなかったのか!!」
「知らなかったのか?貴殿よりよほど有能だぞ?」
コートヴァー伯爵は皇宮に出仕してはいない。それどころか、己の領地さえもまともに治められていないようで、ドロシーのこともありしっかり調べた結果、近いうちに領地を没収するかどうかを検討しなくてはいけないくらいまで悪化させているようだった。
そんな伯爵家からよくドロシーのような女性が生まれてきたと、変な感心をしてしまったほどだった。
「はっ!有能?こいつが?馬鹿言うな。昔っから何も出来ないような女だぞ?」
「なるほど。つまりお前たちは、ドロシー殿のことを何も知らないのだな」
ノアの声にぐったりしていたドロシーがのろのろと顔を上げた。
「……ノア様?」
「ドロシー殿、大丈夫か?」
ノアは御者の男とコートヴァー伯爵の目など一切気にせず、ドロシーに近付いた。
当然、ドロシーの腕を引っ張っていたコートヴァー伯爵のすぐ目の前に行くことになったのだが、ノアはドロシーを捕まえていたコートヴァー伯爵の手を無造作に剥がした。
「おい!貴様!」
「陛下の命令だと何度言わせるんだ?それとも、貴殿にとっては陛下の命令より教祖様とやらの命令の方が重いのか?」
「な、お、おい!」
あからさまに動揺したコートヴァー伯爵を無視して、ノアはドロシーを抱きしめた。
「ノア様、汚れます」
「そんなことはどうでもいい。ドロシー殿、遅れてすまない」
よくよく見れば、口元も切れているし、頬も殴られたようで腫れている。
これは先ほど殴られたからではなく、もう少し前に殴られたものだろう。
可哀想に、しばらくは痛いままだろう。
「皇宮に帰ったらすぐに手当をしてもらおう。あそこの医師たちは、騎士団の手当で慣れているから、よく効く薬をくれるよ」
「……はい……」
ドロシーを抱きしめたまま、ノアはコートヴァー伯爵を睨み付けた。
「コートヴァー伯爵、これからどこに行くつもりだった?血と快楽を求める集団の下か?貴殿には、やつらとの繋がりをきっちり吐いてもらうぞ」
「うるさい!お前一人くらい、どうとでもなるぞ」
「やってみろ。それと、この屋敷には人の気配がほとんどないようだが、他の家族や使用人はどこに行ったんだ?」
「言うと思うのか?だとしたら、とんだ甘ちゃんだな?」
「ここで素直に話した方が楽だったと思うが、仕方あるまい。特別な部屋で専門の人間にしっかり聞いてもらってもいいんだぞ?」
こんな場面で言う特別な部屋と専門の人間がどんなものなのかは、誰だってすぐに想像が付くだろう。
「い、言ったところで」
「もう遅い、か?お前、教団に全て売ったな?」
コートヴァー伯爵家を調べたら、どうも資金繰りが怪しいと報告が来ていた。
この男は、恐らく自らの家族や使用人を教団に売り渡したのだ。
生贄にされようがどうなろうが、自分さえ金を持って逃げられればいいと思って。
「うるさい!」
「ノア殿!」
コートヴァー伯爵の叫び声と同時に、リュシアンが騎士団を率いてやって来た。
「リュシアン殿、その男、家の者を教団に売っているぞ」
「ほぅ。それはそれは。コートヴァー伯爵家の皆さんはあまり評判がよろしくなかったので、面倒事が減ったと喜ぶべきか、帝国貴族の当主が家の者を教団に売るという不祥事が発覚したのを嘆くべきか迷いますね。まぁ、何にせよ、極刑は免れませんが」
騎士が逃げだそうとしていたコートヴァー伯爵と御者の男を簡単に取り押さえる姿を見ながら、ノアは腕の中のドロシーを強く抱きしめた。
「あの男に未練は?」
「ありません」
「家族のことは?」
「この家で私は、役に立たないどんなことをしてもいい存在だったんですよ。あの人たちには何の思い入れもありません」
「そうか」
冷淡だと思われるかもしれないが、ドロシーにとって、血の繋がった家族はもういらない存在だった。
あの人たちの幸せのために、ドロシーはいつも犠牲になっていた。
家の中で、ドロシーという一番弱い子供に負の感情をぶつけることで満足を得ていた人たちだ。
今度は自分がその立場になったところで、自分たちがドロシーに同じことをしていたなんて考えもしない人たち。
「……ノア様、家族という存在を夢見ることは、愚かなことでしょうか?」
「いいや。生まれた家や最初の結婚相手は選べなかったが、今度はドロシー殿が自分で選べばいい。人は一人では生きていけないが、今の君は誰と生きるかを選ぶことが出来る」
「……選ぶのは、私?」
「そうだ。君がしっかり仕事をしていたから、陛下たちの後ろ盾が出来た。それは、君が自分で掴んだものだ」
「私は、陛下や皇妃様の言われた通りに仕事をしていただけで……」
「君は手を抜いたりしないし、君には安心して仕事を任せられると皇妃様もおっしゃっていたよ。それは君が勝ち得た信頼だ。君の財産の一つだよ」
ノアが、皇妃の信頼こそドロシーの財産だと言ってくれたことに対して、そんなことを考えもしなかったドロシーの目に涙が溢れた。
あぁ、私、泣けたのね……。
今まで、どんなに家族に暴言を吐かれても、時には殴られても泣かなかったドロシーは、自分に泣くという機能がまだあったことに自分で驚いていた。
生まれた時から備わっていなかったか、とっくの昔に壊れたと思っていた泣くという機能が、ノアの言葉で活動を始めた。
「さぁ、帰ろう」
「……はい」
今更だが、殴られた頬が痛い。
それでも、ドロシーの心の痛みは、少しだけ良くなった気がしていた。
 




