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ノアとリュシアンが大図書館の奥の部屋に入っても、部屋の主は二人に気付かぬまま本を読み漁っていた。
「クレイル」
ノアが呼びかけると、のろのろとクレイルは顔を上げた。
「……ノア……?」
呼びかけたのが同級生だと認識すると、クレイルはいつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、ノア」
「あぁ、久しぶりだな。お前は相変わらずのようだな。全く変わっていない」
ノアの言葉に、クレイルは「そうかな」と言って照れたような顔をした。
「本当に変わっていないよ。嫌なことがあったらすぐに本に逃げるくせも、知識だけ溜めて、それを何の役にも立てていないところもな」
「ノア……?」
ノアの強い言葉に、クレイルは今度は不満そうな顔をした。
「事実だろう?お前は伯爵家の長男として生まれた。この国最高の知識を学び、こうして何不自由なく好きな本を読めているのは、伯爵領の民が働いてくれているからだ。司書の仕事と並行して伯爵家の人間として家や領民のために何かを為しているのならともかく、領地どころか伯爵家にも滅多に戻らず、夜会にも出ない。知識を領地や国のために使わない。お前は何のために知識を溜めているんだ?」
「それは……」
「ここは国が運営している図書館だ。つまりは税金で運営されている国の物だ。ここにある本は、お前の知識欲を満たすためにあるんじゃない」
貴族が貴族で有り続けられる理由の一つは、学問を修め、その知識で国や民をより良い方向へと導くためだ。それがどんな形でもいい。役人になるのか、領地の運営や商売に力を入れるのか、新しい種を研究するのか、それは各自の自由だが、全てに共通しているのが、学んだ知識を何らかの形で外部に還元していること。
それに対してクレイルは、ただ己の中にため込むだけで、それを一切外には出さない。
クレイルがここにいられるのは、ある意味、皇帝の温情とも言える。
いつになるか分からないが、知識を外に出すための学びの場として。
だが、クレイルはそのことに気が付くことなく、ただひたすらにここに籠もっていた。
さすがのユージーンもそろそろ考え時かと思っていることを、後ろで見ていたリュシアンは知っている。
もしここで拒否でもしようものなら、ユージーンはクレイルを伯爵家に戻すつもりでいた。
「お前の世界には、己と知識しかない。全てを閉ざしているから、人に対してもお前はいつも受け身だ。そうやって笑顔でいれば、誰かが話しかけてくれると信じている」
「ノア、僕は……」
「大図書館の引きこもり。そう呼ばれている自分が好きなのか?何かを知る事だけが、お前の幸せなのか?……まぁ、何を幸せとするかはお前の自由か。だが、その幸せを与えてくれている陛下がお呼びだ。明日の午前中、陛下の執務室に来い」
「え?陛下が……それは絶対に行かなくてはだめなのかな?」
ここから外に出ることを厭うクレイルに、ノアはため息を吐いた。
「用がなければ呼ばない。お前がどれだけ情けない態度を取っていても、陛下は何も言わない。ただその知識が必要なだけだ。たまには役に立て」
「……分かった……ねぇ、ノア、僕は情けないかな?」
「この上なくな」
そうかな、と軽く落ち込むクレイルを放置して、ノアはリュシアンを促して部屋から出て行った。
「ノア殿、ご苦労様でした」
疲れた様子のノアに、リュシアンが言葉をかけると、ノアは深く息を吐いた。
「……あいつは、昔からああだ。笑顔でいるのは、余計なことを言われないため。その笑顔に引き寄せられた友人や女性たちからかけられる言葉は、あいつに届かない。俺から見れば、あいつほど自己中心的なやつはいないよ」
「エメリーン殿に振られた時は、落ちこんだ様子でしたが」
「ようやく釣れたと思った魚が逃げたんだ。それは落ち込むだろう。生まれついての家族じゃないんだ。いつまでも待ってはくれない。それにクレイルがエメリーン殿の気持ちを正確に分かっていたかどうかは怪しいな。あいつは、他人の感情を察するのが苦手なんだ。少しでも嫌だと思ったら逃げていた弊害だな」
「ところで、クレイル殿に何のために陛下に呼ばれたのか伝えておりませんが」
「別にわざわざ言わなくてもあいつは、それくらいなら聞かれたらすぐに答えるさ」
「……妙な信頼はあるんですね」
「言っただろう?丸暗記はあいつの得意分野だと。ここにある本の内容は、おそらくあいつの頭の中にはもう入っている。たまには溜まった知識を吐き出してもらわないとな」
あまりクレイル本人のことは知らないリュシアンは、ノアがそう言うのならかまわないだろうと思い、クレイルに何か告げることもなくその場を後にした。
翌日の朝、ノアは城門から外に出ようとしているドロシーに出会った。
「ドロシー殿?」
「あら、おはようございます、ノア様」
ドロシーはいつもの制服ではなく、目立たないような私服だった。
「おはよう。どこかに出かけるのか?」
「えぇ、昨夜、実家から手紙が届いたんです。離婚の報告をしたので、その返事だと思ったのですが、とにかく一度、家に来い、と書かれていたので嫌ですが行ってこようと思いまして」
少し言い辛そうな顔をしていたが、一応、結婚は家同士の繋がりのこともあるので、勝手に離婚した娘に対して何か言いたいことでもあるのだろうか。
ドロシー自身がどうして呼ばれたのか分かっていない様子だった。
「気を付けて」
「はい」
「もし実家で嫌なことや変なことを言われたら、遠慮無く俺の名前を出していいから」
「ふふ。陛下にも言われましたわ。とにかく無事に帰って来いって。端っこですが貴族街にある家なので、遅くとも夕方には帰れると思います」
「あまり遅くなるようなら迎えに行く、と言いたいところだが、仕事がどうなるか分からん。だが連絡をくれれば、侯爵家の馬車を出すから遠慮なく言ってくれ」
「はい、ありがとうございます。では、行って来ます」
「行ってらっしゃい」
にこりと笑い合うと、ドロシーは、城に出勤する者たちに逆らって出て行った。
「久しぶりだな、クレイル」
「はい、陛下」
部屋の中には、ユージーンとクレイルの他に、リュシアンとノアが待機していた。
「で、どうだった?」
「何がでしょうか?」
ユージーンにそう聞かれても、ここに来いとしか言われていないクレイルには何のことだか分からなかった。
「ノアから何も聞いていないのか?」
「はい」
「ノア?」
「心配いりませんよ、陛下。クレイルの頭の中に入っていますから、聞けば何でも答えます」
ユージーンが咎めるような顔をノアに向けたが、ノアはしれっとそう言った。
「ノア……まぁいい。クレイル、お前を呼んだのは、ジョーヤで蠢いていたあの血と快楽を求めていた集団のことだ」
「ジョーヤの?壊滅したのでは?」
「あらかたは始末した。だが、細々と生き延びたやつらがいたようで、またちょっかいをかけてきたようだ。クレイル、ジョーヤ以外の場所であの連中が使っていた祭壇とやらはどこにある?」
ユージーンの問いに、クレイルは考え始めた。
その記録は、大図書館の中にあった。
クレイルの頭の中で、記録の内容が浮かび上がっていた。
「……ほとんどジョーヤ国内ですが、いくつかは帝国にも存在していますね。ですが、その中で今、使えそうな場所は……コートヴァー伯爵領にある祭壇でしょうか」
「コートヴァー伯爵領?確かにあの伯爵領はジョーヤ国に近いが、そんな場所があるのか?」
「はい。あの家は元々、ジョーヤ国にルーツを持つ家です。そのせいか、一族の中からあの集団に傾倒していた者を幾人か出しています。祭壇は山の中の洞窟にあり、放置されているだけで埋めてあるとかそういうことはないはずです」
「そうか。しかし、コートヴァー?最近、どこかで聞いた気が…………あ、しまった!」
ユージーンが少しいらついた感じで、机の上を叩いた。
「コートヴァー伯爵家は、ドロシーの実家だ。今日、ドロシーは家に呼び出されていると言っていた!」
「ドロシー殿の?」
ノアの脳裏に、朝、門を出て行ったドロシーの後ろ姿が浮かんだ。
少し困った顔で、実家に呼び出されたと言っていたドロシー。
離婚のことだと言っていたが、詳しくは知らないようだった。
もし、それが違っていて、今のコートヴァー伯爵がその集団の一味だとしたら。
嫌な予感しかしない。
「ノア、すぐにコートヴァー伯爵の屋敷に行け!リュシアンは第三騎士団に連絡を」
「コートヴァー伯爵の屋敷は、正面の門を出て五つ目の角を左に曲がって九つ目の角を右に曲がったすぐの屋敷です」
クレイルがすかさず屋敷の場所を告げると、ノアはすぐに部屋から出て行った。リュシアンもその後を追って、部屋から出て行った。
残されたのは、ユージーンとクレイルだけだった。
「ドロシーが無事だといいが……」
「陛下、ドロシー殿というのは?」
「オーレリアに仕えている女官で、つい先日までミラー伯爵の妻だった女性だ。まぁ、ノアの想い人だな」
「……そうですか。では無事を祈ることくらいしか出来ませんね」
「あぁ。ところで、少しはマシな、生きた人間の顔になったな」
「ノアに叱られましたので。僕は誰かのお金で知識を溜めているのだから、それを外に出せ、と。……ノアくらいですよ、今の僕に昔と変わらない言葉を言ってくれるのは。皆、途中で諦めたんですが」
「そういう友人は大切にすることだな。たまにいるんだ、どれだけ離れていても、一番大切な時や人生の節目になぜかひょっこり現れる友人がな」
「はい」
ノアとは全然会っていなくて、噂くらいでしかその近況を知る術はなかった。
その噂話にしても、大図書館で引きこもっていたクレイルには滅多に入ってこなかった。
友人と言えるほど親しいつもりはないが、学生の頃、文句を言いながらも、クレイルのことを気にかけてくれたのはノアだ。
「ふ、とりあえず、お前、大図書館の司書はクビな」
「え?それは、困る、というか、嫌なんですが」
「仕事しろ。せっかく出てきたんだから、俺が扱き使ってやる」
「ブラックな職場はちょっと」
「昔ほどではないはずだ。お前は今日から俺の側近として働け」
クレイルは、一時間も経たない内にお気に入りだった大図書館の司書をクビになり、クビにした張本人の側近に取り立てられた。
「僕は、そんな急転直下な人生はいらないんですが……」
「その頭ん中にある知識を全て出せ」
「はい、陛下」
クレイルは、あの穏やかで何も変わらない空間から抜け出した。
それは、初めてクレイルの意識が外に向けられた瞬間でもあった。




