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目の前に座っているのは、今まで見たことがないほどに疲れ切った顔をした夫だった。
デイジーのせいで疲れ切っているサイラスを見ても、ドロシーはこの人のために何かしてあげよう、などとは思わなかった。
仮にも夫婦だったのに、自分でも冷淡だなとは思うが、そんな関係を築いてこなかったので仕方がない。
サイラスには、デイジーを甘やかしたツケが回って来たのだと思うことにした。
チラリと壁の方を見ると、壁に背を預けて黙って成り行きを見ているノアがいた。
ノアはドロシーと目が合うと、優しく微笑んで小さく頷いた。
「……サイラス様、話し合いを始めても大丈夫ですか?」
「あぁ、すまない、ドロシー」
「いいえ、陛下よりなるべく早くするようにと言われておりますので」
「分かっている。その、彼にはどこまで?」
「屋敷内での境遇、それに白い結婚であることもお伝えしてあります。けれど、私がわざわざ言わなくても、ノア様はご存じでしたよ」
「……そうか……」
さすがは若手の中でも随一と噂される男だ。サイラスが知らないことまで、知っていそうだ。
だがそれは、サイラスが知ろうとしていなかったからでもある。
サイラスは過去の己を叱りつけたくなった。
学生時代、あれだけ周りの言うことを鵜呑みにしていた連中を笑っていたのに、自分は妹や友人たちの言うことだけを信じていた。使用人たちの中でも妹に乗せられた者の言葉だけを信じ続けてきた。
ちょっと自分で調べれば、いや、少しでもドロシーと夫婦として接していたら、どちらが正しいのかすぐに理解出来たのに。
怠ったのは自分だ。
結果、妻に捨てられる夫になったのは、自業自得だと思う。
「サイラス様は、どうして私を嫌っていらしたのですか?」
それは結婚した当初からの疑問だった。
ドロシーはサイラスと喧嘩などしたこともなかったし、言い合い一つしたことがない。
なのに、どうして嫌われたのか全く心当りがなかった。
「……家でのことは、デイジーが君がわがままで強欲だと言っていたからだ。いつも君の高額の買い物の支払いもしていたし」
「それは」
「分かっている!それは君の買い物じゃない。全部調べたが、デイジーの買い物だった。デイジーだけじゃなくて、俺の友人たちも、君には酷い噂があると言って教えてくれていたんだ。彼らは、俺にそんな女と結婚して可哀想だ。自分たちは、友人が幸せになるのを願っている。そんなことを言って色々と教えてくれた……そっちも調べたが、ほとんどは嘘だったよ」
「でしょうね。私はそんな噂になるほど目立つ人間ではありませんから」
「そうじゃない。逆なんだよ。君はむしろ控え目で守ってあげたくなる、そんな風に噂されていたんだ。あえて俺に嘘の噂を教えていたことをあいつらに問い詰めたら、俺には控え目な女性は似合わないと思ったから、ってにやにやした顔で言っていたな」
「……失礼ですが、サイラス様のご友人たちは、本当の意味でサイラス様の幸せを願っていたわけではないのでは?むしろ、自分たちの言葉を信じるサイラス様を見て、楽しんでいらしたのではないでしょうか。友人の幸せのためと言いながら、自分たちのちょっとした快楽のために、誰かの家庭を壊すことだって平気な方々のようですね」
ドロシーが呆れたように言った、自分たちのちょっとした快楽という言葉に、サイラスは漠然と友人たちに感じた思いが一気に表面化した気がした。
そうだ。あいつらは、楽しければそれでいいという考え方の持ち主たちだった。
後先考えず、その場の感情だけで物事を進め、皆で馬鹿騒ぎをする。
嘘をつこうが、自分たちが面白ければそれでいい。
それで誰かが傷つこうが知ったことじゃない。
そんなやつらだった。そして、自分もそんなやつらの仲間だった。
……大人になって、さすがに学生時代のようなことは出来なくなったから、今度は友人の中から獲物を選んだ。皆でもう一度、面白い話をするために。それがたまたま一番最初に結婚したサイラスだった。
嘘をついたのは、きっと、そんなくだらない理由だったんだ。
「俺の幸せなんて、あいつらにはどうでもよかったんだな……」
「サイラス様は、ご自分の幸せよりも、友人たちの幸せを優先なさっていたとしか言えません。自分たちの言葉を信じて、妻を見ることなく遠ざけている姿を見ることが出来て、きっと満足なさっていたのではないですか?」
友人を信じていたサイラスには悪いが、ドロシーにはそうとしか思えなかった。
「そして、私も、家族に言われるがまま、あなたと結婚するだけで幸せになれると思っていました。けれど、現実は違っていて、どうしたらいいのか分からず、ようやく最近、自分の幸せが何なのかということを少しだけ考えられるようになってきました。誰かに決められた幸せではだめなんですよね。自分が幸せだと感じなければ、他の人からどう見られていようとも、幸せではないんです」
「……あぁ、そうだね……」
サイラスは友人と妹の、ドロシーは家族の、彼らの幸せを押しつけられて、それを良しとしていた。
「皇宮に勤めて、やっとサイラス様に自分の言葉でこうして伝えられるようになりました。サイラス様、私は誰のためでもなく、私のための幸せを探したいと思います」
それが誰かを支えるために裏に回ることになろうとも、それはそれでいいと思っている。
大切なのは、自分がどう思うかだ。
それと、毎日ユージーンとオーレリアがお互いを大切に想う姿を見ているので、出来ればドロシーもそういう風になりたいな、と思っている。
それは、サイラスとの間では出来ないことだと十分理解していた。
「……ドロシー、君と俺の離婚は、確実に俺に責任が有る。俺は誰に聞かれてもそう言う。ドロシーもそう言ってくれてかまわない。それが、俺のけじめだ」
白い結婚で、結婚期間は二年もない。莫大な慰謝料を渡せるわけでもない。
だから、せめて責任の所在だけははっきりさせておくくらいしか、ドロシーに対して出来ることがない。
「サイラス様はそれでよろしいのですか?」
「ああ。友人たちとも縁を切る。もうあいつらに付き合っていられない」
大人になってからは、元凶の友人たち以外とは徐々に疎遠になっていったので、他に友人などいないが、それでもそんな人間たちと一緒にいるよりはましだ。
「……ミラー伯爵、一つよろしいか?」
黙って聞いていたノアが、サイラスに話しかけた。
「その者たちだが、各々が仕事をしている部署からの評価が悪い。近いうちに名ばかりの、特に仕事などない部署に異動させられる予定になっている」
当然、ノアはサイラスが普段どんな者たちと連んでいたかなども調べ上げていた。そして、ほとんどの者たちが下級貴族の次男や三男で、皇宮に勤めているが仕事があまり出来ないとの評価を受けている者たちばかりだったので、この際、まとめて一つの部署に入れて、つまらない不祥事を起こしたらすぐに連帯責任で全員をクビにする予定になっている。
ユージーンには、その程度で済ますとは優しいことだな、と言って笑われたが、あまり派手にやるといらん噂が流れかねない。それに、下級貴族の次男三男が皇宮をクビになってしまえば、堂々と家に帰ることなど出来ないだろう。家でもそんな役立たずが戻ってきたところで、使いようがなくて手に余るはずだ。下手をすれば、家の存続にも関わってくる。後は各家で、密かに病死しようが、領地に監禁しようが好きにすればいい。そんな人間を放置した者たちで、何とかすればいいのだ。
「そうですか」
サイラスだって皇宮に仕える身だ。それがどういうことになるかは分かっている。
けれど、もうどうでも良かった。
友人たちと決別し、妹は皇宮に上がることを許されず、妻とは白い結婚のままこちらの有責で離婚。
出来ることならば、ドロシーと結婚した日に戻りたかった。
緊張していたドロシーと、自分たちの幸せな将来について、一緒に話をしたかった。
「……今更だな……」
決して叶わない願いだと理解しているからこそ、その夢はどこまでもサイラスの心に残ったのだった。




