①
『幸せにするよ』
『幸せね』
『幸せになるのよ』
幼い頃に聞いた、大人たちが誰かに向けて言っていたその言葉。
ドロシーは、いつも不思議に思っていた。
『幸せ』って何だろう?
朝食の席は、いつも通りの光景だった。
「デイジー、ほら、これもお食べ」
「お兄様、もう食べられませんわ」
「君は食が細すぎる。もっと食べないと身体に悪いよ」
妻であるドロシーの前で、夫のサイラスとその妹のデイジーはまるで夫婦のようにいちゃついていた。
家の中だけならまだしも、外でもそれをやると、はっきり言って奇異な目で見られる。
今までは病弱な妹という設定であまり夜会などには出ておらず、サイラスが妹を可愛がっているという噂だけが流れていたが、この調子で同じような態度を取るつもりなら、どんな噂が流れるのか分かったものではない。
そう思ってドロシーが一度控え目に指摘したところ、サイラスはそんなことはないと否定し、デイジーは目をうるうるさせて泣き出した。
身体が弱い妹を心配して何が悪い、サイラスが本気でそう思っているのを知って、ドロシーは限度があると思ったが、一般常識とこの家の中での常識は違うのだろうと思い、笑顔でそうですねと肯定しておいた。
デイジーが食事とは別にけっこうな頻度でおやつを食べているのも知っているが、なぜかそれはドロシーが食べていることになっており、費用もドロシー用の経費から支払われている。
そんな二人の様子にドロシーは無言で用意された朝食を食べると、さっさと自分の部屋へと戻った。
これまたいつも通り誰もいない部屋に戻ったドロシーは、一通り室内を点検した。
じゃないと、いつこの部屋から物がなくなるか分かったものではない。
初めは、実家から持ってきた髪飾りだった。
探してもなかったので、どこかでなくしたと思っていたら、数週間後デイジーが使っていた。
それは私の髪飾りだと言うと、デイジーは目を潤ませて自分で買ってきた物だと言い張った。
その髪飾りは、遠い地に行っていた従兄弟がお土産として買ってきてくれた物で、この国で同じ物は売ってなどいないというのに、デイジーはそう言い切ったのだ。
それをサイラスが援護して、ドロシーがデイジーに冤罪をかけようとしたのだと言い出したのだ。
呆れたドロシーは、髪飾りは諦めて、従兄弟に事情を説明する手紙を書いた。
もしあの髪飾りを着けたまま従兄弟とどこかで会った場合、デイジーが何を言い出すのか分からなかったので、先に事情を説明しておいたのだ。
従兄弟からは、今度お土産を渡す時は、大勢の人のいる前で渡すよ、という返事をもらった。
それから気が付くと、部屋の中から何かがなくなっていることが多くなった。
小さなネックレスやイヤリング、小さな置物だったり、どうとでも言えるような物がなくなり始めたので、ドロシーは部屋の中を綺麗に片付けて持ち物の目録を作った。
毎日、同じ場所に同じ物を片付け、部屋から出る前と帰って来た時に、必ず点検をした。
初めは侍女や執事を部屋の中にいれて、ドロシーが点検する様子を見せた。
これで何か物がなくなっていたら、この屋敷にいる人間が犯人だ、と暗に示したのだ。
若干彼らの顔色が悪くなったが、そんなことは知らない。
そのおかげで、点検を始めてからはドロシーの物は減らず、デイジーの物は増えていかなかった。
デイジーが不満顔をしているのを見て、ドロシーは呆れたものだ。
従兄弟もお土産を買ってきてくれた時は約束通り、友人たちの茶会の席で渡してくれたり、サイラスがいる時にわざわざ屋敷に持ってきてサイラスに見せてからドロシーに渡してくれた。
さすがにそれに手を出したら言い訳が出来ないと思ったのか、他人がいる前で渡された物は手を出されなかった。
いつも通り部屋の点検が終わったドロシーは、大きな箱を持ってくるとその中に入っていた刺繍の道具を取り出した。
今、縫っているのはクッションカバーだ。
刺繍は趣味だが、これは今のドロシーの仕事だった。
伯爵家の奥方がやる仕事ではないが、ドロシーは屋敷の者には秘密にしてこの仕事を請け負っていた。
屋敷の誰に見られても、刺繍なら貴族の夫人がやる趣味として認知されているし、この屋敷のどこを探してもドロシーが縫った刺繍の物がなくても、友人たちに頼まれたものだと言えばいいだけだ。
実際、これはドロシーの友人を通して売っている。
友人のステイシーは男爵家に嫁いだが、そこは王都でも有名な商会を抱えており、ドロシーの作品は、そこで少し高級路線の商品として売られていた。
売り上げは、商業ギルドに口座を作ってそこで管理している。
それは、伯爵家とは全く関係のない、ドロシー個人のお金だった。
無心に刺繍をしていると、扉がノックされて入ってきたメイドが机の上にドロシー宛の手紙を置いていった。
以前は、手紙だって届かなかった。
誰かが、どこかで止めていたのだ。
だが、ある時、友人の侯爵令嬢のフレデリカが午前中にその日の午後に伯爵家に行くという手紙を出した。
友人の家の従者が伯爵家に届け、実際に午後からフレデリカが来たのだが、当然ながらそんな手紙を受け取っていないドロシーは困惑した。
手紙がきちんと届いていないことに怒ったフレデリカが従者に確認したところ、手紙は間違いなく届けたと言われ、それも大至急ドロシーに届けるように言付けたことも判明した。
犯人を見つけようにも、どうせ結託するし、全てドロシーのせいにすると分かっていたフレデリカは、この屋敷を取り仕切っている執事とメイド長、それから何人かの使用人の前で扇を広げた。
『手紙もまともに渡せないなんて、この家の使用人の程度が知れるというもの。伯爵家の使用人の質の悪さは、そのまま伯爵の評判にも関わるというのに……。どうやら、誰かが伯爵家の評判を貶めたいようですわねぇ。おほほほほ、まぁ、良いですわ。ドロシー、わたくし、皆様にこのことをよく伝えておきますわね。手紙は、必ずドロシー本人に手渡しするよう従者に指示すること、と。そうでもしないと、あなたへの元へは手紙の一つも渡らないようですから。そうそう、お茶会の誘いを出した方もいらっしゃるようですわよ。ドロシーからの返事がないと困惑されていた方もいましたから、わたくしが説明しておきますわね。それはもうきっちりと』
そう言って、ほほほほほ、と笑った。
ついでに、ドロシーが手紙を出したい時は、フレデリカの従者が手紙を持って来た時にドロシーの手紙を預けて、それをそのまま従者が各家に届けてくれることになった。
筆まめなフレデリカは、ドロシーが嫁いでから何回も手紙を出しているのに一度も返事がないことを不審に思って、今日は訪ねて来てくれたのだ。
さすがにこれだけ言われると、これまでなかった手紙が届けられるようになった。
重要な手紙はフレデリカ経由で来るが、それ以外の手紙もあったらしく、そういう手紙が届くようになったのだ。
この件で、ドロシーは使用人を特に咎めなかった。
たとえサイラスに言ったところで、処罰されないのは分かりきっている。
今の誰かを辞めさせたところで、どうせ次に同じような人間が現れる。
それくらいなら、脅し……じゃなくて、お前らの奥方に対する仕打ちを広めておく、と遠回しに説明された今の者たちの方が、大人しくなった分、まだマシというものだ。
サイラスにとって、妹は大切な存在らしいのだが、それが自分の妻を放置してよい理由にはならない。
まして、それに家の使用人たちが引きずられるようなことはしてはいけない。
けれど、この家の者たちは、そのことが分からないようだった。
サイラスとドロシーの結婚は、家同士で決められたことだった。
年齢はサイラスが二歳ほど上だが、家格は同じ伯爵家。
地味で大人しいドロシーにはもったいない夫が用意出来た、と父母は自画自賛していた。
ドロシーは濃い茶色の髪と琥珀色の瞳を持ち、いつも静かに佇んでいるような女性だった。
ドロシーには、兄と妹がいるのだが、そちらが明るい性格で派手な外見と雰囲気を持っている人たちだったので、余計にドロシーは大人しい女性だと思われていた。
ドロシーはしばらく刺繍をすると、完成した作品を見て満足そうな顔をした。
一人だから出来ることで、周りに誰かいたらうっとうしくて集中出来ない。
だから、こうして放置されることは、ドロシー的にも歓迎すべきことだった。
本来なら妻として屋敷の中を管理し、社交に出向かなければならないのだが、ここではそれをする必要が一切ない。
屋敷の中のことには口出しするな、ということをサイラスや執事から言われたので、何があろうともドロシーが手を出すことはないし、社交的なことも、ドロシーが来たことによって自分がこの家の唯一の女性ではなくなったことに焦ったデイジーが、病弱設定を変更して、元気になったからお兄様と一緒に出たいと言い出したので、そっちも特に出しゃばる必要がなくなった。
フレデリカが釘を刺してくれたおかげで、食事などに何かされることもなく、ドロシーは大いにこの生活を満喫していた。
フレデリカのおかげで生活は安定しているし、ステイシーのおかげで収入もある。
いざとなれば、この家から出て行っても生活が出来るドロシーにとって、この家に未練はない。
サイラスに初めて会った時に抱いた思いは、もはや消えて無くなった。
……幸せって何だろう?
父母は、何の取り柄もないお前が嫁にいけただけで幸せだろうと言っていた。
サイラスは、伯爵夫人になれたのだから幸せだろう、と言い放った。
デイジーは、あなたみたいな地味な人がお兄様の隣にいられて幸せね、と言って嫉妬していた。
兄や妹も似たようなことを言っていた気がする。
サイラスに初めて会った時は淡い期待を抱いたが、それはほどなくして消え失せた。
ドロシーには、結婚して伯爵夫人になった今の状況が彼らの言う幸せなのかどうか、理解出来なかった。
彼らの思う幸せと、ドロシーが実際に感じていることとは、大きな隔たりがあると思う。
ドロシーが幸せを感じるのは、伯爵夫人として振る舞っている時ではなく、こうして仕事をして本を読み知識をため込んでいる時だった。
「……だめね。私では理解不可能だわ」
自分が多少、他の令嬢とは考えが違うことは理解している。
学生時代、条件の良い男性たちを探す令嬢たちの考えは理解出来ても、共感は出来なかった。
卒業したら、皇宮の女官の試験を受けようかと思っていたくらいだ。
ただ、家の都合で学生時代にこの婚約を結ばれて卒業したら即結婚と言われ、それがお前の幸せだと言い切られたので、体験した方が早いと思ってそのまま結婚した。
伯爵令嬢よりも、伯爵夫人の方が出来ることが多いと思ったのが理由の一つだった。
令嬢のままだと、結婚前の娘が……と言われることも、夫人となった後だと緩くなるのが不思議だ。
サイラスが妹を溺愛しているのは、昔からわりと知られていたことだったし、妹に構っていればこちらが何をしていようが気付くこともないだろうとは思っていた。が、蓋を開けて見れば予想以上の放置っぷりに、ドロシーもさすがにこれは色々と対外的にまずいのでは……?と思ったが、ドロシーの言うことなど誰も聞く気がなかったので、そっとそのまま蓋をした。
結婚してからサイラスの動き、デイジーの動き、家の使用人たちの動きをじっくり観察して、フレデリカやステイシーたちに手伝ってもらって、ドロシーが今出来る自由を満喫することにした。
この自由は、デイジーが結婚するか、それともやらかすか、それで変わってくる気がしている。
結婚するだけならいいが、やらかした場合は伯爵家といえど、ただではすまない可能性もある。
そうなったら、フレデリカかステイシーのところで雇ってもらうことにはなっている。
破滅前提で考えているのは、皇帝が容赦ない方だからだ。
なるべく関わらない。
家族から疎まれている者として、物心ついた時からそれがドロシーのモットーだった。
「よかった。間に合ったわ」
このクッションカバーは、今日の午後にフレデリカの家に持って行く約束になっていた。
頼まれたのは全部で五枚。
花を中心にした刺繍は、我ながら良い出来だと思う。
フレデリカがこの中から一枚選んで使い、他の四枚をステイシーの店で売ってもらう。
フレデリカは家にお客さんが来た時などに、そのクッションカバーをさりげなく話題に出す。
そうすることで、興味を持ってもらい、ステイシーの店で売っていると話せば、買ってくれる人も多くなる。
出来上がった品物をまとめて丁寧に白い布に包むと、ドロシーはそれを持って部屋を出た。
今から歩いてのんびりとフレデリカの家に向かえば、時間的にちょうど良いくらいになるだろう。
「あら、お出かけ?」
部屋を出るとデイジーがちょうどいて、ドロシーの前に立ちはだかった。
あからさまに優越に満ちた瞳で楽しそうな笑みを浮かべているのだが、何がそんなに嬉しいのだろうか。
「はい。友人の家に行ってきます」
「あらそうなの。あなた、いつもお兄様を放っておいて、お友達のところに行くのね。あちらに良い方でもいるのかしら?」
侮蔑込みでありもしないことを言っているのだが、フレデリカは家は侯爵家なので、下手したら正式に抗議が来る言動であることにデイジーは気が付いていなさそうだった。
けれど、普段ドロシーの前に現れる時は兄と一緒のことが多いデイジーが珍しく侍女も付けずに一人だったので、ドロシーはこの際、デイジーに聞いてみたいことがあった。
「デイジー様、一つお伺いしたのですが、あなたの幸せって何ですか?」
「え?急に何よ?」
「それにあなたのお考えになるサイラス様の幸せとは何でしょう?」
「えぇ??何言ってるの。お兄様は私が幸せなら幸せなのよ!」
「では、デイジー様の幸せとは?」
「そんなの決まってるじゃない!家族が私を大切にしてくれることよ!まぁ、家族から疎まれていたあなたには分からないかもね」
おほほほほ、と高笑いするデイジーに、ドロシーはなるほどと頷いた。
デイジーの幸せは、家族から大切にされること。
大切、という言葉は、デイジーの中ではおそらく彼女を中心に家が回っていることを指していると思われる。
自分が中心となって回る家族を作ること。
それがデイジーの考える幸せ。
デイジーがドロシーのことを「家族から疎まれていた」と言っているが、正確には現在進行形で「疎まれている」だ。
実家もそうだったが、この家でもそうなのだから。
実家では、ドロシーは家族という括りに入っていなかった。
一応、対外的なことを考えてそこまであからさまに何かされていたわけではないが、普段の言動を聞いていれば、父母兄妹、たまにドロシーであの家は完結していた。
この家でもドロシーの扱いは、たまに、というやつだ。
「あ、そういうことですね」
そう思って考えて、やっと理解が出来た。
デイジーにとって、ドロシーは家族ではないのだ。
兄の妻は、本来なら家族に入るはずなのだが、デイジーの中では違う。
デイジーの考える家族は、両親と兄、それと将来の夫や自分の子供。
そこに兄の妻という余計な異物はいらないのだ。
「……そうなると、サイラス様のお子様はどうなるのかしら?」
一応、実の妹なのでデイジーではサイラスの妻にはなれない。
そうなると、家のためにもサイラスには妻が必要で、跡取りとなる子供も必要になる。
養子という手もあるが、それは最後の手段だ。
デイジーが家族と認めないサイラスの妻から生まれてくる子供は、果たしてデイジーの家族に入るのかどうか。
「……謎だわ……」
「ねぇ、さっきから何を考えてるのよ」
デイジーには聞こえないくらいの声で呟いていたドロシーを、デイジーが怪訝な顔で見ていた。
「いえ、失礼いたしました。デイジー様の幸せは、何となく分かりました。サイラス様についても、同じような考えだということを理解いたしました。では、失礼いたします」
「ちょ!ちょっと!!」
一礼して去っていくドロシーに、デイジーはさらに何か言おうとしたが、ドロシーはさっさと歩いて行ってしまった。
「……と、いうことが出掛けにありまして、私はあの家の幸せとやらが何なのか、理解出来たと思います」
「……ドロシー、それは違うと思うけれど……違う、というか、その一部ではあるかもしれないけれど、全部ではないと思うのよね……」
「そうですか?ですが、あの家がデイジー様中心に回っているのは確かなことかと……」
「そうだけど。ならデイジーが嫁ぐなり何なりしていなくなったら?デイジーの言う幸せは崩壊しない?」
「??嫁ぎ先でデイジー様が幸せなら、サイラス様も幸せなのでは?」
デイジー的見解でいけば、そうなるはずだ。
「ならないわよ。そうだけど、そうじゃないの。同じ屋敷で暮らして毎日顔を合わせて会話をすれば、サイラス様にとってデイジーは一番幸せにする対象になるけれど、目の前からいなくなったらサイラス様にとってデイジーはそうではなくなるのよ」
「そうなのですか?」
「そうなって、きっと初めて気が付くのよ。サイラス様にはサイラス様の幸せがあって、デイジーにはデイジーの幸せがあるんだって。今までみたいに、サイラス様とデイジー、二人で一つの幸せじゃないんだって」
「なるほど。確かに言われて見れば、サイラス様とデイジー様は、今の段階では同じ幸せを共有しあう仲ですね。だって、デイジー様の幸せがサイラス様の幸せですから。サイラス様ご自身の幸せではないですね。サイラス様は、全ての幸せをデイジー様に依存している状態ということになります。私だってフレデリカたちが幸せなら嬉しいですが、それだけが私の幸せではありません」
「私だってそうよ。ドロシーが嬉しい時に私も幸せを感じるけれど、それが全てじゃないわ」
お互い別々に生きて生活しているのだがら、それが当たり前のはずなのだが、サイラスとデイジーの場合は、それが二人で一つになっている。
「……ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど、もう結婚して一年になるでしょう?子供とかどうなの?」
「いいですか、フレデリカ、一つ重要なことを教えて差し上げます。子供が出来るには閨を共にしなければなりません」
「知ってるわよ、そんなこと。……って、まさか、してないの?」
「はい」
顔色一つ変えずに肯定したドロシーに、フレデリカの方が驚いていた。
「え?本当に?何で?」
「何でと言われても、結婚したその日は、サイラス様がご友人たちとお酒を飲み過ぎたとかで潰れてしまっていました。次の日からは、サイラス様が失態を犯したと思ったのか目も合わせてくださらなくなり、そうこうしている内にデイジー様が熱を出したとかでお兄様かまってが始まり、その次に私が風邪を引いて寝込む日々が続き、当然、風邪がうつらないように自室で寝ていたので、何かそのまま今も自室で一人で寝ています。そんなこんなで初夜が自然消滅しました」
「初夜の自然消滅って……するもの?」
「したので、するものなのでしょう」
特に隠すこともなく平然としているドロシーに、フレデリカは頭が痛くなりそうになった。
「サイラスはそれで何も言ってこないの?」
「人間、一度機会を外すと、なかなか次に進まないものです。サイラス様も今更感がありますし、私たちの仲も良くなるどころか平行、もしくは悪化していますから。何かきっかけがなければ、このまま離婚までいける気がします」
「えーっと、一年半で離婚出来るんだっけ?」
「はい。跡取りのこともあります。何も出来ない私とこのまま婚姻関係を続けるよりは、どなたかと新しい関係を築いた方が、サイラス様のためにもなるのではないでしょうか?」
「……まぁ、そうかもしれないわね……」
「……フレデリカ、私には、分からないのです。恋って何でしょう?幸せって何でしょう?物語を読んでいると、恋をした人は幸せになれるとありました。私は最初、それをサイラス様とするのだと思っていました。ですが、サイラス様はそれを拒否なさいました。私を放置するという方法で、私への想いはないのだと示されました……」
先ほどとは違って、苦しそうにそう言ったドロシーにフレデリカは、机の上に置かれた彼女の手にそっと己の手を重ねた。
「……ドロシー、探しましょう。あなたの幸せを」
「……私にも、あるのでしょうか?」
「あるわ、きっと」
フレデリカの言葉に、ドロシーは小さく「はい」と返事をしたのだった。