19,June
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青年の名は松本という。松本――まさにどこにでもある姓であり、だから幼少の頃は自らに与えられたなんの変哲もない記号をなんとはなしに呪ったりもしたのだけれど、知らず知らずのうちにそんな思いは取っ払われた。年を重ねるとはそういうことだ。なお、社会人二年目を迎えてからというもの、急激に老いたように感じられるのは気のせいであってほしいと考えている――なんて言っているあいだにも時間は経過するわけだ。時間――薄情で、無情なやつである。
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松本はNIerにいる。ネットワーク周辺のいろいろをこなす業者である。廃れ気味の業種であると確信しているのだけれど、フリーターが長かった松本がきちんと就職するには――長く身を置けそうなのは当該分野しかなく、実際、彼の頭は文系に特化しており、そういった事情を考慮した場合――とにかく勤め上げようと考えた場合、幸か不幸か、他に選択肢はなかったのだ。寂しいことに、悲しいことに、松本は「よくでき」の人物ではないのである。そんなの本人が一番わかっている。
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一年目の時分は、4月から半年もの期間を研修に費やした。常々、斜陽に近い産業だと思っているのだけど、にもかかわらず、人事部の意識は高く、ゆえに主に接客の練習を多く課せられた。無意味ではないのかと思わされることがしばしばあったのを記憶している。エンジニアにプレゼンの機会などそうそう与えられるものなのだろうか――しきりにそんなふうに思わされたものである。
研修も終わりに差し掛かったとき――人事部の面談を受けた折、松本は「運用サービス推進部」なる部署に属したい旨を伝えた。運用サービス推進部。文字通り、顧客への運用サービスの提案と導入を推進したい部署なのだろうが――まあ、そんな感じだから、単なる物売りや土方よりは未来があると考えたから希望を出したわけだけれど、配属されてみるとそんなことはなかった。――その先を話せば長くなるから、現在の松本は「PM部」にいるとだけ誰彼構わず明かすわけだ。PM部。プロマネ部なのだけれど、じつのところ、しょうもない仕事しかしていない。松本は末端で顧客対応をする立場であり、今日も固定電話、あるいはケータイに客からの一報が来やしないかと怯えている――などということはない。松本は入社から三年も経つと、すっかり図太くなったのである。ついでと言わんばかりに体重は二倍近くに増えた、百キロ超えた。カラオケに行くと同僚が歌うもはや古きかな、「睡蓮歌」の合いの手を期待される。つらいとは言わない。ただ、肉体的にしんどいとは言える。肥えていいことなんてないというのは、強い実感だ。
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金曜日、朝まで飲んだあと、松本は帰りにコンビニに寄って、週末分の食料を買う。主にカップ麺だ。寂しい独身生活だとは思うのだけど、それだけだ。べつに誰かに対して後ろめたいことをしているわけではないし、だからそのへん、よしとしている。土日はネットで馬券を買う。負けることが多い。案外的中しないものなぁと落胆させられることが多い。
それでいい。
それでもいい。
たとえ両親に心配されようと、ゴーイング・マイ・ウェイを自負している。
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得も言われぬストレスと切っても切れぬ関係になり、松本は仕事が終わると蒲田の小さなバーに入り浸るようになった。バーとは往々にして一杯飲もうにも安くはない。食べ物もゴルゴンゾーラのパスタなんかは二千五百円もする。好きだから毎度頼んでしまう、レッドアイを飲みながら、カウボーイをすすりながら。おかげでまた太った。たまに後輩を連れてくると、「お尻が椅子からずり落ちそうですよ?」と心配されてしまうくらいだ――いい後輩なのだ。一度、特段の意味もなく奮発して店の半分を貸し切ったことがある。くり抜いたメロンに注がれたドンペリをご馳走してやった。それをラッパ飲みする姿を「しっかり撮っててくださいね」と言ったのである。実際、口の端に伝わせながら飲み干して……。かわいい後輩だ。そんなふうに思う。何かの折にはそう思うのだ。
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ある日、くだんの後輩が仕事場にありながら、涙をこぼしそうな様子で、「松本先輩、話を聞いてください……」と沈んだ声で言ってきたのである。涙をこぼしそう……だから松本、少し驚いた。webで慌てて会議室の予約をし、すぐさま二人で入ったのである。「運用サービス三課」、後輩の所属部門はそういう名なのだが、そのじつなんでも屋らしく、課には三名しかいないのに、だから業務過多に陥り、にっちもさっちもいかないようなのである。課長はよその会社から来たばかりで社の知識に乏しいし、部長もそうだ。いまいち誰にも苦労をわかってもらえず、なら、泣き言の一つや二つ、聞いてほしくもなるだろう――というものである。
「松本先輩は、どうしてそんなに元気なんですか?」
いや、丸々と太っているから、そう見えるのか?
「松本先輩は、どうしてがんばっていられるんですか?」
いやいや、そんなつもりもないのだけれど?
――とはいえ、松本が処方できる治療薬なんか決まりきっているわけで。
「バー、今日も行くんだけど」
「またですかぁ? 太っちゃいますよぉ?」
だから、もう太ってるから。
ほんとうに、婚期が遠のいてしまうことはわかっているのだけれど、松本は後輩を連れ、今日もバーに赴くのだった。
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後輩は、バーのカウンターに顔を伏せ、今夜はえんえんと泣きだしてしまった。「ウチの課長にはポリシーが感じられません」と言って泣く。「まだまだ新米だから、お客様からも舐められてしまうんです」と言って、やはり泣く。松本が「よくやっているように思うよ?」と評価の旨を伝えると、左の肩をばしばし叩かれてしまった。ウチはフリー・アドレスであり、「ほんとうは松本先輩の隣で仕事がしたいんです」などと嬉しいことも言ってくれた。毎日、どこに座っていいと言っても、何かしらを根拠として塊はできる。必然、そうなるというものなのだ。
松本は今夜もゴルゴンゾーラのパスタを頼んだ。出されるや否や、後輩は右手の親指と人差し指で鼻をつまんだ。「くさいですっ!」と真っ向から述べてくれた。まあ、そうだ。異議はない。ただ、「そんなのばかり食べるから太るんですよ」との物言いは意味がわからない。匂いは体重に直結しないと思う次第だ。
「今日は逃げてきたのです」
「逃げてきた?」
「はい。まだ課長と先輩がデータセンターに残っています。お客様のきつい視線に晒されながら」
そういう背景があるなら、まあまあよい課長ではないかと感じさせられた。「逃げてきた」のではなく「逃がしてもらえた」ということだろうから。とはいえ、三人いなければならない作業は多くはなく――だけど、これまでとちりまくってるのだとすると……。
「さっき電話があって」
「電話?」
「はい。明日の朝一で出てこい、って……」
今夜のうちに目処がつく見込みがないから、明日の早朝から改めて作業をするという話なのだろう。まあ、それはしんどい。後輩の言うとおり、顧客もさぞおかんむりであることだろう。
「でも、がんばって行ってきます。せっかくいい会社に入れたのですから、がんばります」
給与水準は高いとは言えないし、どちらかというと時代遅れの職種だと思うのだけれど、がんばるのはいいことだ――と考えなくもない。
「太っちょの松本先輩に、ご趣味は?」
また、いきなりだな――というか、太っちょは余計だ。ついでに馬券を買うのが唯一の楽しみだということくらいは知っているはずだけれど。
「馬券ですかぁ」
だから、そうなんだってば。
「ああぁー、うああぁぁー、明日のことが不安になってきましたよぉ」
明日というか、もう今日だね。
「松本先輩」
何かな?
「次の休み、いつですか?」
いろいろあって、代休をとるから、水曜日だよ。
「じゃあ、その日、こっちも休みにしますから、家に伺ってもいいですか?」
いいけど、なんのつもり?
「梅雨時の告白です」
「確かに今日も雨だったけど」
「将来、物書きになりたいのです」
えっ、きみが?
本気?
「本気も本気です。ちょっと読んでみてくださいませんか? 松本先輩、教養がありそうですし」
ただの太っちょに何を期待するのか。
「伺いますね。住所を教えてください」
ぐいぐいくるものだから教えた。
後輩はそらで二回も三回も言ってのけた。
部屋の掃除くらいは念入りにしておこう。
綺麗好きの太っちょだって、いるのだ。
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袋ラーメンに卵を落とし、もやし炒めをのせた。そんな簡単な料理を振る舞ってやっただけで、後輩は「わーい」とばんざい、喜んだのである。「贅沢ですねっ、贅沢ですねっ」と語尾上げで二回も言った。やっぱりかわいい奴なのかな? そういうことなのだろう。
食後、短編らしく、ダブルクリップで留められたそれを、三十枚ほど、ぱらぱらめくって読んだ。タイトルは「ハンバーグ日和」。他愛のないタイトルであり、また内容も、ざっくり言ってしまうと、「ハンバーグ」をキーアイテムとした欠損家庭の物語――といった感じだった。タイトルがつまらない。題材も面白いとは言えない。ただ、文章は上手だった。堅苦しくなく、自由性があって、物語が破綻しかけている箇所もあるのだけれど、それはそれで、その未熟さが微笑ましくもあった。味があるとはこういうことなのだろう。
「公募に出します。目指せ、芥川賞なのですよ」
「へぇ」つい、感心した。「っていうか、芥川賞って文学だよね?」
「そうですよ。文学界の最高峰なのですよ。何か問題が?」
「いや、これって文学なのかなぁ、って」
「えぇぇっ、文学ですよ。文学しまくってるじゃないですかっ」
「そもそも、文学って何?」
「文学は文学ですよ。頭、わいてませんかぁ? 大丈夫ですかぁ?」
相変わらず、先輩相手に酷いことを言ってくれる。
「ほんとうに欲しいのは本屋大賞なんですけれどね」
「ああ、そっちのほうが万人ウケしそうではあるね」
「芥川賞はそのうち廃れてなくなってしまうのです」
「そうなの?」
「ええ。ですから、今のうちに取っておかないと」
なんとも逞しく頼もしい考え方である。
「総じて言うと、いいと思う。きみのプレゼンは何度か観た覚えがあるけれど、そういったかっちりしたものばかりではなく、こういうくだけた物も書けるんだね」
「見直しましたか?」
「うん、大いに」
「やっほーっ、やりぃっ」
またばんざいしてみせた。それから、「それではさて、今日のご予定は?」と訊ねてきた。正直に、「今日は競馬もないから寝るよ」と答えた。「食っちゃ寝、食っちゃ寝だから太るんですよ」と言われた。「余計なお世話だよ」と応えておいた。
「話を蒸し返すようなのですが、文学ってなんだと思われますか?」
「いわゆる地の文が多いんじゃないの?」
「そんなエンタメ作品もありますよ」
「だったら、なんなの?」
「そのヒトが言い張れば、それが文学で良いのです」
「いいの? そんな縛りで」
だって、わかりやすい言葉で明確に定義できないではありませんか?
――という言い分には、頷きたくもなるけれど。
「文学文学と意識しすぎるヒトのほうが、文学をわかっていないような気がします。こいつぁ文学ではないと言うヒトほど、文学から自分を遠ざけているように思います。どんな分野においても、どんな事象においても、必要以上にこだわりすぎるのは良くないのですよ」
「俺は本に詳しくないから、そのへん、理解しがたいなぁ。たとえば、これはAIが書いたものだと言われても、わからないだろうね」
「それはたぶん、一般化できる事実だと思います。だからこそ、がんばりがいがあるのですよ」
「AIはダメ?」
「ニンゲンが介在する余地は残したいし、残りつづけてくれーという願いです」
俺は漫画で十分だ。
そう言って、松本は後ろに倒れ、仰向けになった。
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七年が経過し、松本が「運用サービス推進部」を預かる身になった頃、三課の課長に昇進した、くだんの後輩が飲みに誘ってきた。一年単位の久しぶりのことだった。社のオフィシャルのメッセを使って、そのままずばり、「今夜、付き合ってください」。「どうしたの?」と返事をすると、「知らないのですか? おめでたいことがあったのです」とあった。「メロンでドンペリ、奢ってください」とあったのだった。
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行きつけのバーにて、とある文学賞を取ったのだと聞かされた。言うなり、じゃーんと立ち上がり、胸を張ってみせた次第である。酔客ばかりだ。よくわからないであろうに、周囲から拍手を受けた後輩だった。
「これで芥川賞へ一歩前進なのですよ。なにせ、そういう賞なので」
「おめでとう」と素直に告げ、ジャパニーズ・ウイスキーのロックをすすった松本である。「そうかぁ。やると言って、成せるヒトもいるのかぁ。ホント、感心だなぁ」
「時間はかかりましたけど」苦笑を浮かべ、右手で頭を掻いてみせた後輩。「口にするって大切なことなのだと思います。自分で自分の退路をあえて断つ、みたいな」
「きみは強いから、それができたんだ」
「先輩は弱いのですか?」
「弱いから、たぶん、まだ馬券なんて買っているんだろうね」
「それとこれとは、イコールではないように思います」
「メロンのドンペリ」がやってきたのである。高価ながらもなんとまあ下品な飲み物か。メロンにもドンペリにも失礼だろう。だけど、「わぁ、いただきまーすっ」と気分良さそうがぶがぶする後輩を見ていると、そう悪いものではないらしいと思わされるから不思議だ。
「これからも、仕事を続けながらでも書けそうなのかい?」
「書けますよ。今はですね、仕事がいい息抜きになっているのです」
「すごいなぁ」
「図太いとも言いますよね」てへっと舌を出してみせた後輩。「まあ、現状、課長ですし、それが生き甲斐の一つだと訊かれればそうだと答えるしかありませんし、そうでなくとも、専業作家なんて夢のまた夢ですし。そこで先輩、相談があるのですが!」
勢いの良い物言いに、松本は少しのけぞったのである。後輩が彼の丸い腹をばしばし叩いてきた。一応、先輩と後輩という関係であるにもかかわらず、礼儀知らずなことだ――なにも今に始まったことではないけれど。
「なんだい、相談って?」
「なんだかんだ綺麗事を抜かしましたけれど、そのじつ、私を養ってくださいませんかぁ? と、申し上げいわけなのですよ」
「へっ?」唖然となった。「養う?」
「ほらぁ、私たちって、男と女ではありませんか」
「それは大昔からそうだけれど……」
後輩は少し首を傾け、笑みを浮かべたのである。
「昔、先輩、助けてくれましたよね? お客さんにさんざん怒られて怒られて、そのときの体制ではどうにもならなかったとき、ご自分の仕事をほっぽらかして、私の現場まで、来てくださいましたよね?」
そんなこともあったなと思う。先方の温度が著しく高かったときだ。担当だった後輩――彼女とその上長とではにっちもさっちもいかない状況に陥っていた。誰か別のニンゲンがサポートに入らないと治まらないような状況だったのだ。つくづく懐かしい。松本のひどく太った身体を目の当たりにすると、なぜかはわからないけれど、なんとなくではあるけれど――にわかに頬を緩めてくれる顧客も少なくなかった。デブが額に汗して頭を下げる様子は、それはそれで一生懸命に映ったのかもしれない。
「私は昔から一途なままです」後輩は満面の笑みを浮かべた。「大好きです! 先輩!!」
思えば、人生過ごしてきて、異性から告白されるなんて初めてのことだ。
悪くないなと感じるとともに、松本は「少し痩せてみるか……」と思ったとか思わなかったとか。
後輩は、キミコさんという。
古風で優しげで、松本はその名がほんとうに好きなのだ。