ただの人間だよ
「今のはとびきり活きのいい奴を差し向けたのだぞ……貴様、口先だけではなさそうだな」
「まさか。ただの人間だよ」
一転、ぶっきらぼうな調子で木刀を肩に担ぐ様子に、蛙面の歯がギリリと鳴る。
自慢の”怪魚”は壁際で痙攣していた。周囲にはどす黒い粘液が飛び散り、フロアを汚している。
赤い鱗に長い鰭は金魚に似ている。人間ほどにおぞましく肥え太った体躯、口元は大きく裂けて、長い牙は喰いついたが最後獲物を離さぬ鉄格子。天女のように舞っていたであろう鰭はいまや無様にのたくっている。
「下手な妖物よりも役に立ちそうだ……儂らの仲間にならんか?」
「さあね。それよりも訊きたいんだけどさ、アンタらなんでこんな事をするの?」
蛙面の怪僧は喉を鳴らす。アキコの目が細められる。
少しの間、不気味な沈黙があった。雨だけが閉じたフロアに降り注ぐ。
「知れたこと。この夢見待の霊地は力が埋もれておる。溢れかえるほどのな。なればこそ、”海”を降ろし、”鮫”共を解き放つのよ。極上の肉、我らが糧、贄、にえよ!」
主が唾を飛ばしてまくし立てるのに合わせて、瘴気がざわつく。影たちが沸き立つ。きょうの日は、祝祭なのだ。この世ならざるもの、まつろわぬものがこの世に住まうもの全てを生贄に、血で染め上げ肉で充たす祀り。
片隅の”鮫”は動きを止めていた。異界の屍が熱で炙られたように溶けていく。
「あの程度の”鮫”などいくらでもいる……さあ教えてやったぞ、協力するか?」
蛙面の顔が歪んだ。子供じみた、醜悪な嘲笑。
神妙な調子で話を聴いていたアキコだったが、ここに来て小さく息を吐いた。
「お断りだね。なんだかんだいってこの町嫌いじゃないから」
再び、蛙面が嗤う。
「愚者め……もはや貴様一人では止められぬ! その血肉をぶちまけ我らの祝祭を飾れ!」
怪僧の一喝を跳ね除けるように、少女剣士のしなやかな脚が地を蹴った。身を屈め、弾丸を彷彿とさせる速度、その肌に血色の葉脈が浮かび上がり、蛙面が目が剥きながら再び指で印を組んだ時には赤色の刃が側頭部に肉薄する。赤い弾丸の元に影が殺到した。
肉同士がぶつかり合う音と骨が砕ける音はほぼ同時、遅れてコンクリートの破砕音がフロアを揺らす。
祭壇から少し離れた柱の一本、その根元にアキコは頽れていた。コンクリートの躯体に蜘蛛の巣状の罅が刻まれる程の衝撃を全身に受けて、力なく項垂れている。
「……クソッ。しくじった」
よろめきながらも木刀を杖代わりにしてなんとか立ち上がる。葉脈は浮かび上がったままだ。手応えはいまいち、実体化した”鮫”の頭突きをもろに食らってしまったが、祭壇の方はどうなったか。瘴気雨と土煙の中、目を凝らす。
祭壇の前、蛙面はうつ伏せに倒れ伏していた。頭を押さえた指の隙間から血と灰色の粘塊が流れて、地面を汚している。小刻みに痙攣したまま、起き上がる気配はない。
「やった……のか」
雨の中、影たちがざわめいている。”鮫”共は恐らく蛙面が制御していたのだろう。再び力を込めて木刀を握りしめる。もう一仕事、鮫共の始末を付けねばならない。
スカートを翻して血色の脚が地を蹴る度、斬撃は紅に閃き影が散る。人知を超えた奇怪な乱闘は、やがて降り続く雨と静寂だけを残した。
ふう、とアキコは溜息をついた。木刀の切先を地面につける。後は祭壇をぶっ壊せばいい。
ふっ、と、少女剣士の背にそよ風が触れた。
「何、これ……苦しい。きもち、悪い……うッ」
背後で呻き、小さなものが倒れる音。アキコのの背筋に冷たいものが走った。
冷や汗がどうか解らないまま歩みが止まり、顔は青ざめる。声に聞き覚えがあった。いや、毎日聞いている。
「あすか!?」
やおら反転し駆け寄って、抱き起こす。
なんでここに! 待ってたはずじゃ!?
「大丈夫か!?」
「……キ、コ……生きてる……?」
小柄な親友は、うつろな目でアキコを見返して、心配すらしている。あすか本人の呼吸は不規則で、脂汗が酷い。肌に至っては紙の色だ。
理由を問い質すのは後だ、一刻も早く脱出せねばならない。親友を肩に担ぎ、一緒に立ち上がったアキコの耳が、風を切る音を聞いた。
「ぬぐッ!?」
首に走る衝撃と骨が軋む音、息が詰まり痛苦に呻いてしまう。
思わずあすかと木刀を取り落としてまった隙に、次々と四肢や腹にぬめる太縄が巻き付く。
「ぐ、くッ……」
獲物を逃さぬ早業、瞬く間に自由を奪われてしまった。汚物色の触手だ。タコやイカのような触手が各所を縛り上げている。
無理矢理両手足を拡げられ、苦痛に呻いてしまう。脱出しようともがくが、びくともしない。引っ張られる。向かう先は祭壇であり、触手は蛙面の背が爆ぜ割れて、そこから伸びていた。
屍の断面から新たな触手が走った。どす黒い血を振りまいて、滑った器官が木刀へと叩きつけられる。乾いた音が、得物の破壊を告げた。
「か……はッ……ッ」
目が霞む、呼吸ができない。
苦しむアキコの顔に、再び赤い葉脈が浮かび上がった。それらは肌の上で流れ、うねり、全身に広がり、形をとる。色は命、形は力、現れたのは魔物の顔。額、胸、肩、手の甲、二の腕、膝、足の甲……各部に怒り、あるいは睨みつける憎しみ、妬み、怒り、怨みの形象。
力の顕現は一瞬、全身に力を込める。雄叫びを上げて、思い切り腕を振るった。
触手の一本が急激な負荷に耐えきれず破断した。不協和音がおぞましく大気を震わせる。怪物の絶叫を背に、他の触手も力任せに引きちぎると、勢いのまま反転し、跳躍。
祭壇に着地、というより踏み付けにするや、その場で力の限り暴れ狂った。
凶暴極まる咆哮と肉、骨、木が砕ける音の連続、しばらくのちに止んだ。雨も、雲も、合わせたかのように消え去った。
術の根源は祭壇だったのだろう。怪異は消え去り、土煙と残骸の中、暮内アキコが立ち尽くしている。
「ぐ……ッ」
やおら体の向きを変えて、視線の先には倒れ伏すあすかの姿。アキコの”刺青”は未だ消えず、輝きを放っている。
目は血走り、息は荒く、一歩、また一歩。苦し気に呻くあすかの姿は、今の彼女にどう映っているのか。
銃声が轟き、少女鬼の体が弾かれたように吹っ飛ぶ。
「他の祭壇はボスと私で片付けてきました。生き残りはいません。君はだいぶ派手にやったようですね」
謡うように滑らか、一切の抑揚なく語り掛けるのは、よく通る男の声。
入口、あすかの傍らに神父服の青年が立ち、拳銃を構えている。
艶消し黒は闇に溶け込むだろう、回転式拳銃の銃口からうっすらと硝煙が流れている。眼鏡の下の眼光は氷より冷ややかだ。
「がはッ……は、や、さか……」
「瘴気に中てられたのですね。時間がありません。民間人の処理を行います」
アキコがガバッと起き上がる。
「早坂よせ!」
早坂と呼ばれた青年は応える事無く弾丸を一発補充すると、あすかに銃口を向けた。躊躇いというものが一切見られない動作。
廃墟に、銃声が響いた。