怪鮫注意報
B級伝奇アクションです。
よろしくお願いいたします。
「――雨だな」
「雨だね。明日の朝まで土砂降りだって」
「土砂降りか、そうか」
「うん。湿気も多いし、いたるところで変な臭いがするし。なんなんだろ」
言うだけ言って、おむすびを一口かじると、豊島あすかの顔に満面の笑みが浮かんだ。
おむすび専門店の名に偽りなし、ふわっとほぐれるお米の甘味に、鮭の旨みが登ってきて口の中で一つになる。完璧な調和。
学校帰りに小腹が空いてたし、ちょっと雨宿りもしたかったし、二人で前から目を付けていた店でなんか食べていこうという話になった。
だというのに、言い出しっぺにして腐れ縁たる暮内アキコは一つ平らげたきり、黄昏ていた。
ほんのり灯る照明に和風の内装、それに窓際の席が気持ちを鎮め、癒してくれるからだろうか。それにしても先程からぼうっと雨模様を目に映しながら、追加注文する気配もない。
「さっきからどうしたの、キコ」
「……あすか。頼みがある」
「何……? 改まって」
「必ず戻るから、30分ここにいてくれ。好きなもの頼んでいいから」
「え……って、ちょっと!?」
赤色のハーフコートと竹刀袋を手に取り、「あたしのおごりだ」という台詞と千円札2枚を置いて、アキコは風のように店から出て行ってしまった。鮮やかな紅の残像と、カバンと、傘を残して。
滝の如き豪雨のおかげで視界すら定かならぬ街中を、アキコは猟犬のように躊躇いなく駆け抜け、目指す場所に辿り着いた。
解体予定の廃ビル。”ニオイ”はここから発せられている。硫黄とヘドロと汚物を一緒くたにして醸した、病み腐った熱で胸の奥から溶け崩れそうになる悪臭。彼方の世界から流れくる毒と病の風。常人ならば即座に体調不良に陥り、濃度によっては死に至る中で、アキコは忌々し気に凛々しい顔立ちを歪めるだけだ。
躊躇うことなく柵を飛び越えて、建物周辺を回ると一か所、腐食した鉄製の扉が見て取れた。もはや機能を保っているのが不思議なぐらいの状態だが、アキコにとっては都合が良かった。
後ろで纏められた鉄錆色の長髪も、ハーフコートもその下のセーラー服も、全身ずぶ濡れて、大粒の滴が滴り落ちているが、気にも留めずに竹刀袋を解き、得物を取り出した。
赤樫の木刀だ。刀身に大小の細かい傷が刻まれ、使い込まれた様子が見て取れる。
「”ニオイ”消しもしてねえとは……奴ら本気らしいな。頼むぜ、相棒」
小声で呟くや、”相棒”を振りかぶる。大上段の構えから一気に振り下ろした。
それは鉄と鉄同士がぶち当たる音、豪快に破壊音をまき散らし、廃ビル中を震撼させた。衝撃が伝播し、刹那、水滴という水滴が霧散する。
鉄扉はひしゃげ、破片をまき散らして奥へと吹っ飛んでいった。ややあって激突音が聞こえ、静かになった。壁にでも当たったのだろう。
小さく鋭く、息を吐く。見る限りビルの中は薄暗く、視認は困難だ。雨は激しさを増している。
暮内アキコは、獣が息を潜めるざらつきを感じながら、闇の中に足を踏み入れた。
下の階と同じく、最上階も打ちっぱなしのコンクリートに柱が点々と配置されているだけのはずだった。扉を壊し、一歩足を踏み入れた途端、アキコは目を顰め、その肌は粟立った。
広大なフロア内は、外と同様かそれ以上の豪雨だった。薄暗く、視界は悪く、降り注ぐ大粒の滴は生温く異臭が酷い。不完全ながらここは瘴気の海、といったところだろう。その証拠に大きな魚影が泳いでいる。
かろうじて見える中央付近には歪んだ祭壇が建立されている。捩れた木々で組みあげられ、上部には人、蛙、魚の混合怪物を象った神体が縛り付けられている。祭壇を守る様に立つ、蛙顔の僧侶の大きな眼が闖入者を睨みつける。
入口に立つ少女の鉄錆色の髪に赤コート、セーラー服という出で立ちはただの女学生に見えるが、不敵な眼光と肩にかけた木刀は看過できるものではない。
蛙面の大きな口元が吊り上がった。
「遅かったな守護者。もはや我が眷属共に合図を送るだけよ」
アキコの胸中に火が灯り、全身が熱を帯びる。手に力を込めて、木刀を構える。
「お生憎様、それは失敗に終わる……あたしがここに来たから」
「吐かせ。小娘一人に何ができる」
蛙面が鳴き、影たちがざわめく。それは突撃の合図。太くぬめった指が組み合わされ、周囲を遊泳していた数多の”影”の内一つが、音もなくアキコへと迫った。
”影”は雨の中を馳せ、顎を開いた。小娘に気付いた素振りはない、奴にとってここは己の故郷も同然、華奢な少女の体など風よりも速く瞬く間に噛み砕きしゃぶりつくす。
赤い牙が実体化、赤髪に触れてブレた。風を切る音はほぼ同時。
「な……ッ!?」
驚愕が蛙面の口から漏れた。激突音、次いでフロア中に振動。
小娘は再び構えへと戻っている。しかし、かろうじて見えた。ギリギリまで引きつけて、木刀を横薙ぎに怪魚を斬った、いや殴り飛ばしたのだ。居合というにはあまりに力任せで雑だ、それは剣術に疎い僧侶にも解ったが、背筋に冷たい電流が流れる。
速過ぎる。この瘴気濃度に全く堪えた様子がない……雌の餓鬼だと侮っていたが、コイツ本当にただの人間か?!