WILL〜書かれなかった遺言書〜
春を感じさせる日差しの柔らかさに時折目を伏せながら、私はN駅の東口のカラクリ時計前で、奥寺さんを待っていた。
奥寺さんは、毎年、私が年賀状をやり取りしている唯一の男性で、大学生の時に所属していた硬式テニスサークルで、お世話になった二つ年上の人。首都圏で就職した奥寺さんに会うのは、サークルのOB会以来だから、ほぼ五年ぶりくらい。
仕事を始めると、月日が経つのは本当に早い。私は地元の百貨店でもう七年も販促業務をしている。奥寺さんのほうは大学院を卒業したあと、某電機メーカーの研究所にいると聞いていた。
奥寺さんと今日会うことになったのは、一緒に、ある大事なことをするため。
グレーのロングカーディガンを羽織っているけれど、風が吹くとまだ少し寒さを感じた。
「鈴ちゃん! お久しぶり!! お待たせ……」
駅の待ち合わせ集団の中で埋もれるように立っていた私の前に、突如として眩い空間ができ、爽やかモデル系のオーラを感じさせる男性が現れた。細めた目が優しく私に微笑みかけている。
えええ!?? 誰?
五年前の奥寺さんは、サークルにいた頃と変わらず髪の毛がどこか跳ねていて、眼鏡の奥の目が眠そうで、万年徹夜してそうな人だったはず。
特撮ヒーローが好きなオタクですと公言していて、申し訳ないけれどスポーツサークルに所属しているのが、不思議なタイプだった思う。それは地味子な私も同じで……。
「お、奥寺さん?」
「そうだよ」
「お、お久しぶりです……。誰かと思いました。眼鏡とオタク、やめたんですか?」
つい、思っていたことが、口から出てしまった。それほどの変わりようだった。
「うわっ、しばらくぶりに会って開口一番がそれ? いや、まあ、色々考えるところがあってね。あのままではイカンかと。とりあえず眼鏡をコンタクトレンズにしたら、街で美容師にカットモデルをやらないかって誘われて、のこのこついてったらこうなって、それ以来髪はそいつに一ヶ月に一度整えてもらって、服は適当な店でマネキン買い。今でもこの自分には慣れてない。ちなみにオタクは全然やめてないよ。特撮ヒーロー番組は毎週かかさずオンエアで観てるし」
「そ、そうですか……」
見た目の変化に驚きながらも、変わっていない趣味に少しは安心したけど……。
私の目の前にいるのは、本人の申告通り、紺のジャケットに白のTシャツ濃いベージュのチノパン、それこそメンズ雑誌からそのまま出てきたようなイケメン。
それに対して灰色を纏う私はまるで田舎のネズミだ。私は何もあの頃と変わっていない。
「ここ、驚くんじゃなくて、笑うとこだから」
「いえ、なんだか、奥寺さんじゃないみたいで、戸惑うというか、緊張します」
「えーっと、それは、どう解釈すれば? まさか、前の俺のほうが鈴ちゃん的には好みだったとか」
喋り方だって、ちょっと違うように感じる。
「あの、なんてお答えしたらいいか……。ごめんなさい」
「わー、謝らないで。俺、何言ってんだろ。別に答えなくていいし。……鈴ちゃんが綺麗になってて、いや、学生の時ももちろん可愛かったけど、久しぶりに会えてテンションあがっちゃって喋りすぎた。ごめんね、引いたよね」
照れ笑いをしながら、自然と頭をかく仕草もさまになっていて……もう、別人っ!?
て、いうか、私が可愛かったとか、綺麗に、とか、やめて〜、そういう社交辞令に慣れてないし。
私がひとりで勝手に心を乱していると、奥寺さんが本来の目的を思い出したようで、真顔になって表情をかたくした。
「……高里が亡くなったこと、サークルの他のやつには、鈴ちゃん以外にはまだ誰にも言ってないんだ」
「そうなんですね……」
「なんだか、まだ実感なくて。家に訪ねて行けば、普通にそこにいそうな気がする。高里は自分は理系だから死後の世界や神さまは信じないって言ってたけど、でも、鈴ちゃんにお墓参りしてもらったら、あいつも喜ぶと思う。それじゃあ……行こうか」
「はい」
奥寺さんと私は、今日、昨年亡くなった高里さんのお墓参りをするため、会うことにしたのだ。
私たちは駅でお花を買うと、そこから歩いて二十分ほどの高里さんが眠っているというお寺を目指した。
歩きながら、奥寺さんが高里さんのことを話してくれた。昨年の十一月、突然高里さんのお母さんから高里さんが病気で亡くなったとの手紙が来たそうだ。驚いて電話連絡した時は、すでにお葬式も納骨も家族と親戚だけで、済ませたあとだったらしい。
奥寺さんは、昨年のうちにひとりでひっそりと高里さんの実家とお墓を訪れていたのだ。私はこちらにいるのだから、正直、声をかけて欲しかった。
駅の東側は、お寺が所々に点在するエリアで、お彼岸になると風にのってお線香の匂いがどこからともなく漂う。実は私の先祖の、鈴谷家のお墓のあるお寺もこのエリアにあった。先月、春彼岸でお墓参りしたばかりなのに、またここに来てしまった。
何気に奥寺さんにうちのお墓も近いことを伝えると、それなら素通りできないから寄ると言ってくれて、別のお花屋さんでうちのお墓用のお花も買わせることになってしまった。
そこから数分歩いたところにあるうちのお墓に寄ると、奥寺さんはお花を供えてお墓の前でしゃがんで合掌してくれた。なにを拝んでくれたんだろう。私も静かに手を合わせた。
おじいちゃん、ご先祖さま、こちらの奥寺さんは、大学の時のサークルで一緒だった人で、とても優しい人なんです。
奥寺さんが、静かに立ち上がる。
「先祖を大切にすると、良い人生を送れるって、よくおばあちゃんが言ってたよ。おばあちゃんは、墓参りに命かけてるみたいなとこあったな。名前にも〈寺〉がついてるしね。年に三回、元気なうちは欠かさずお参りしてた。俺の家族も俺も、それが当たり前になってたし、行かないとモヤモヤする感じ」
「そういうの、ステキです。大事だと思います」
「おかげで鈴ちゃんとも、またこうして縁が繋がって会えたのかな……」
奥寺さんの眩しそうに細めた目線を受けて、胸の奥でわずかにトクっという音が鳴った。
なんだろう?
鈴谷家のお墓参りを終えて、さらに東に進んだ道沿いに、雲浄寺と書かれた石作りの立派な門があった。
「ここだよ」
ここが……、高里さんの眠る……場所。
「すごい、桜……きれいですね」
門の横に、美しい桜の大木があって、花が春風に揺れながら、薄いピンク色の花びらを散らしていた。上に広がる高い青空。
その光景が美しすぎて、涙が出そうだった。
『俺の父親さ、三十歳で亡くなってるんだよね。人間、三十歳になったら、遺言書を書いておくべきだよなあ。何が起こるかわからないもんな』
高里さんは、あの時、そう独り言のように呟いた。三十歳なんて大学生の私たちには、遠い話だと思っていた。
でも、高里さんは、わかっていたのかもしれない。
その年齢に到達するのは、瞬く間だということを。たとえ心の成長が追いつかなくても、時は容赦なく過ぎていくということを。
◆
高里さんは、私が大学二年生の時に入部したテニスサークルを立ち上げた代表者でかつ当時は部長も務めていた。
涼し気な切れ長の目が印象的な男性だった。
私はサークル活動を通じて高里さんと過ごすうちに、しっかりとした意思を持ち、きちんと自分の意見を主張する彼を自然と好きになっていた。
私が大学を、高里さんが大学院を、同時に卒業して社会人になっても、ふたりとも地元に残った。高里さんが残ってくれて、嬉しかった。私は、高里さんから月に何回か来るメールを心待ちにする毎日だった。たまに電話をくれるときもあって、たいがい二時間くらい近況を報告し合ったり、雑談をしたりした。地元にいる他のサークルメンバーを誘って一緒にテニスをすることもあった。
そんな高里さんに、卒業して三年過ぎたあたりでやっとの思いで好きな気持ちを告白した。けれど、
『ありがとう。でも、鈴谷のことは、サークルの仲間としてしか見れないんだ。ごめん……』
と見事にフラれた。
高里さんの苦しそうな表情が心に堪えた。
そのあとは、結局、立ち直りに時間がかかっている間に疎遠になり、年賀状で一年に一回やり取りするだけの関係になってしまった。
二年前からはその年賀状すら、私の一方通行で、彼からは途絶えていた。
もう、私との繋がりは切りたいと思っているのかもしれないけれど、高里さんと奥寺さんには、一生年賀状を出しますと宣言したこともあって、その言葉通りにするつもりだった。
奥寺さんのほうは、高里さんと同じ大学、同じ理学部で親友同士、高里さんに誘われて、二人で新しいことをしたくてテニスサークルを立ち上げたらしい。奥寺さんはサークル内の事務的なことをしてくれていて、高里さん同様、奥寺さんにも当時とてもお世話になった。
高里さんからの年賀状が来なくなっても、奥寺さんからは毎年一言メッセージ付きできちんと届いていた。今年の元旦にいつものように届いたそれを見て、私は息をするのを忘れた。
ーー昨年、高里が病気で亡くなりました。高里は、東寺町の寺に眠っています。
嘘……。
驚きと衝撃、混乱、信じられないという思い、そしてかなり遅れて、込み上げたものが、目から溢れた。
いてもたってもいられず、奥寺さんにメールした。
電話では、混乱していてうまく話せる自信がなかった。メールを打つ手が震えたのを覚えている。
すぐに返信が来た。でも、
ーーごめん、鈴ちゃん。春になったら一緒に高里のお墓参りをしよう。詳しくは会った時に話すから。もう少し待ってて。
そんなそっけない内容で。
春になったら……? 春まで待たないとないの? どうして……。
私の記憶の中、最後に会った時の高里さんは、まだ変わりなく元気そうで、、病気や死の影などまったく感じなかった。
サークルのOB会で堂々と、みんなに呆れられながらも長々と挨拶するその姿を、奥寺さんの後ろに隠れるようにして見ていた。フラれた直後で、顔を合わせづらかったけれど、ひと目で良いので会いたかった。彼のその姿を見ただけで、直接話さずにすぐに帰った。奥寺さんには、体調が悪くなったと嘘をついた。奥寺さんからは、あとで心配する内容のメールが来たけれど、高里さんからは何も連絡はなかった。
告白したことに後悔はなかったけれど、自分の性格上告白前の関係には戻れないことがわかっていた。辛かったけど、時間が経てばまた以前のように話せると思っていたのに。
それも叶わなくなるなんて。
私は地味子のわりに、スポーツが好きだった。通っていた女子大のテニス部に入ったものの、あまりに練習がきつく初心者の私は馴染めなくて辞めた。それでも大学生活に華を添えたくて、二年になってから市内の大学生中心の外部のテニスサークルに一大決心をして入った。学校の掲示板にメンバー募集のポスターが貼ってあって、モノクロでシンプルすぎるそれは逆に私の目を引いた。
それが高里さんの設立したテニスサークルだった。まったくの偶然で、高里さんたちと知り合うことになった。
入部してみると、さすがテニス部と言えるような蝶のように煌びやかな女子部員の中で、性格も服装も地味なサナギの私はかなり浮いた存在だったと思う。女子の輪に入れなかった私に、よく声をかけてくれたのは、高里さんと奥寺さん。キラキラの女子部員たちからの二人の人物評価は、高里さんは話が理屈っぽくて長いとか、奥寺さんは冴えないオタクだとか、今ひとつ。女子部員からの人気は、他の男子部員のほうが高かった。
最初は疎外感だけがあったサークル活動も、まともにボールを打ち返せるようになると、楽しくなってきた。バックハンドは苦手意識があったけど、高里さんから両手打ちを習うと、ボールの勢いに負けずに打ち返せるようになった。上手く体重をのせて打っているからボールに重さがあって、フォアよりも安定していて良いと褒められた。
シングルス、ダブルス、混合ダブルス、基本的なルールや試合、試合の審判のやり方まで、一通り高里さんたち男子部員が教えてくれた。
市内の大学生テニス連盟の公式試合にも出場した。公式試合では、ジャージではなく必ずテニスウェアで女子はスコートを着用しなくてはならず、ミニスカート的なので、恥ずかしかった。
シングルスでは一度も勝てなかったけど、女子部員のひとり、菅井さんとペアを組ませてもらって臨んだ女子ダブルスで、一試合だけ勝てた。私のボレーが冴えていて勝てたようなものだと、菅井さんはじめ応援してくれた他の女子部員、高里さんと奥寺さんからも褒められた時は、とにかく嬉しかった。試合の練習や本番を通じて、女子部員とも絆ができて、今でも菅井さんとは、たまに連絡を取り合ってテニスをしている。
外部のサークルだと、テニスコートは民間や市営のコートを借りるのだけど、場所は郊外が多く、練習に行くのにも車が無いと時間がかかる。車の無い人は行きは自力で、帰りは車を持っている人に送ってもらうことが多かった。練習のあと、みんなでお茶や夜ご飯に行くとか誰の車に乗るとか、面倒なことがあって、何かとあぶれる私を乗せてくれたのは、たいがい高里さんだった。車を持っていなかった奥寺さんと私が、高里さんの車に乗るのが常になった。
『奥寺、鈴谷、行くぞ』
『サンキュー!』
『はい、ありがとうございます。いつもすみません』
私は高里さんと奥寺さんが車の中で会話しているのを聞いているのが好きだった。
神さまが実際いるかいないかとか、男女の間に友情は成り立つかとか、人はなぜ山に登るかとか、マラソンや箱根駅伝をじっくり観てしまうのはなぜかとか。たまに、鈴谷はどう思う? とか、突然ふられて慌てたものだ。
私が必死に答えると、優等生の答えだと高里さんが笑った。
サークルは練習ばかりではなく、娯楽的な行事もあって、やっぱり車に乗せてもらっての移動が多かった。
忘れられない思い出がある。市近郊にある水族館の駐車場で待ち合わせて、その後みんなで海岸沿いをドライブしながら新しく出来た巨大迷路のある美術館に行くという行事が企画された。
実家住まいの私を、高里さんが近くまで車で迎えに来てくれて、水族館でみんなと合流する予定だったが、高里さんが大遅刻。
その時に限って、高里さんはスマートフォンを忘れるし、私のはバッテリーが弱っていて、遅れている状況を奥寺さんに連絡している間にバッテリーが切れてしまって、連絡をつける手段がなくなってしまった。それでも水族館の駐車場に行くと、奥寺さんがポツネンと待っていてくれた。
『俺、泣きそうだったよ』
『悪かった。先にみんなと行ってても良かったんだぞ』
『やだよ、俺、あいつら苦手なの知ってるだろ? あいつらと先に行ったってつまんないし。連絡係を買って出た。みんな三十分以上待ってくれてたんだぞ。高里、こういう時にはスマホ忘れるなよ』
『悪かったって』
『一時間も待たせて全然悪いって思ってないだろ? 鈴ちゃんもかなり待ったよね。怒ってやった?』
『鈴谷は優しいからな』
『そうやって、鈴ちゃんに甘える〜』
奥寺さんが珍しく拗ねていた。
『ところでさ、奥寺は巨大迷路って興味ある?』
『無い』
『鈴谷は?』
『あ、えっと、あると言えばあるし、無いといえば無いです……』
『どっちやねん』
『無いです』
『決まりだな』
『?』
『まあ、俺たちがいなくてもあいつら適当に楽しむだろ』
『!???』
『巨大迷路はやめて、その先の花銀山まで行こう!』
『それ賛成!』
高里さんと奥寺さんがニヤリと笑みを交わした。私は車の後部座席で驚きを隠せなかった。
奥寺さんのスマートフォンで、高里さんが急用ができたからとかなんとか、あとで行くとか適当に誤魔化して、花銀山まで三人でドライブすることになってしまった。
花銀山までは、ずっと海沿いのルートで、高里さんと奥寺さんの心地よいお喋りに耳を傾けながら、きれいな海を見ながら爽やかな風を受けての、楽しいドライブだった。
岬の先にある駐車場に車を停めて、離れ小島の花銀山まで連絡船で渡った。海を進む連絡船に白いカモメが何羽も横に並ぶようにして飛んでいる。なにかと思ったら餌目的らしく、見ると他のお客さんが船着場で売っていたカモメの餌を海に向かって撒いていたのだ。カモメが上手にそれを飛びながらキャッチして、飛び去って行く。まるで曲芸だ。
『あいつらスゲーな。うまいもんだ。慣れてるんだろうけど』
高里さんのコメントに、三人で顔を見合わせて笑った。
花銀山は小さな山のある島で、大人の足で頂上まで往復およそ二時間と書いてあった。
『高里は、そこに山があると登るタイプなんだよ。鈴ちゃん、行ける?』
奥寺さんが、登る気満々の高里さんを横目で見ながら、心配そうに私に聞いてくれた。テニスで鍛えてるんだし、問題ない。
高里さんが行くなら当然私も行く!
『行けます!』
『頼もしいぞ、鈴谷!』
『大丈夫かなあ……。鈴ちゃん、スカートだよね』
『大丈夫です。スカートですけどセミロングだし、楽な靴ですから』
観光地らしく登りやすそうに開けている山道を、高里さん、私、奥寺さんの順番に進んだ。たまに降りてくる観光客とすれ違ったが、ほとんど私たちしかいない静かな山道だった。先を行く高里さんの背中を見ながら息を弾ませ登る。後ろには奥寺さんの息遣いが感じられて、安心感があったのを覚えている。
黙々と登っていても、三人の気持ちがシンクロしてるみたいだった。急なところは、高里さんが上から手を差し伸べてくれて、その大きな手が何度も私を力強く引っ張ってくれた。それがとても心が踊って幸せに思えた。
花銀山の頂上は狭く、東屋がひとつ、そしてベンチがひとつあるだけだった。それでも登りきったという達成感がなんとも気持ち良かった。それに澄んだ空気、青空に白い雲、ゆっくりした波の流れを見せる海、水平線、すべてが輝いて見えた。
他に誰もいなかったので、三人で東屋に寝そべった。
『高里、鈴ちゃん、ありがとう。俺、人見知りだからサークル活動なんてやっていけるかと思ってたんだけど、楽しめてるのは二人のおかげだよ』
奥寺さんがそんなことを話し出した。
『私もです。お二人のおかげで私も楽しいです。入部して良かったです。私、高里さんと、奥寺さんには一生年賀状出しますから』
『鈴谷って、面白いよな。なに、その、古めかしいコメント。今どき年賀状って……』
『いいじゃん、年賀状。元旦の楽しみだろ。メールと違ってその人の字とか文章とか味わいがあるし』
奥寺さんがすかさずフォローしてくれて、私の恥ずかしさが少し緩和された。
『確かに。その人の人物像、人柄も感じられるな』
高里さんも同意しながら……少しの沈黙のあと、ふいに呟いたのだ。
『俺の父親さ、三十歳で亡くなってるんだよね。人間、三十歳になったら、遺言書を書いておくべきだよなあ。何が起こるかわからないもんな』
遺言書のことを。
『知ってる? 英語のwillって単語、名詞だと普通は〈意思〉って意味でよく使うけど、〈遺言〉て意味もあるって。それ知ったとき、なんだか胸にその単語がすっと収まったんだよね。忘れられない単語になった』
『へえ、will……が〈遺言〉ね』
奥寺さんが感心したように頷いた。
〈WILL〉
その単語と高里さんの言葉は私の心に深く刻まれた。
◆
整然と並ぶ墓石、その中のひとつ。
高里さんのお墓の前に私たちはいた。買ってきたお花を供えて、お焼香もして、二人で並んで手を合わせた。
この下に、高里さんが?
違う、この下にあるのは骨だけ。
高里さんの魂は、どこに?
会いたいと思っても、もう思い出の中でしか会えない。
写真でしか会えない。
夢の中でしか会えない。
二度と会えなくなるなら、もっとあなたに会っておけば良かった。疎ましいと思われようが、会いに行けば良かった。
高里さん、あなたに会いたい!
今さら遅い。問いかけても返事はあるはずもない。
「高里が亡くなる少し前、珍しく電話がかかって来て、電話で話したよ。声はいつもと変わらなくて。長くないって知ってたら、聞かなかったのに……」
奥寺さんが、辛そうに言葉を発しようとしているのを見て、すぐに察した。
「遺言書のこと。お互い三十過ぎてたから、俺、書いたのかって聞いた。なんでかな、その時聞かずにはいられなかったんだ。……高里さ、まだ書けないって言ったんだ。たかが三十くらいで書いて本当に死んだらそれは残るから、母親が長く悲しむだろうって。電話でどういう流れでそういう話になったか覚えてないけど、なにをしなくても長生きするだけで、親孝行だからって。奥寺は長生きして親を絶対看取れよって言われた……。俺は、その時は何を言ってんだこいつ、縁起でもないって思って、高里の言葉を流してしまった。こんなことになるなら、真剣に受け止めてやれば良かった……」
奥寺さんは、そこまで話すと目頭をおさえた。
私はすでに顔がぐちゃぐちゃになるほど頬を濡らしていた。ハンカチの存在なんて忘れていた。
「奥寺さん、高里さんの分まで私たちは頑張って長生きしましょう……。それが高里さんの言葉を、その想いを大切に受け止めることになりますよね。遺言書なんてあってもなくても、どっちでもいいです。数年でも高里さんと一緒の時間を生きたという事実と想い出は奥寺さんと私の中にずっと遺るんですから」
「鈴ちゃん……。そうだね。鈴ちゃんを泣かせたって、高里に怒られるな」
奥寺さんが泣いてるのか笑っているのかわからないような表情をしながら、私の頭を撫でた。奥寺さんの手の温もりが、しっかりと感じられた。
「去年高里の実家に焼香に行ったとき、高里のお母さんが、高里家のお墓のあるお寺さんは桜がきれいだから、もしお参りをしてくれるならお彼岸より少し後の桜の季節をすすめてって高里が言ってたって。そんな話をされた。だから、ここまでお墓参りを待たせてしまって。鈴ちゃん、ごめんね」
ああ、それで……。それが高里さんの遺した……。
「そんなこと……いいんです。門のところの桜、本当に泣きたくなるくらい、きれいでしたね。見られて良かったです」
私は、スカートのポケットからハンカチを取り出して、涙を拭いた。
「就職してから忙しさにかまけて高里に連絡もあまりしなくなってた。あれが最期の電話だってわかってたら、もっと話すこともあったかもしれないのに。高里のお母さんさ、病気のことは誰にも言うなとあいつから釘を刺されていたらしい。ストイックで残酷なやつだよな」
「……はい」
ストイックな高里さんだから、自分の人生を悔いなく生きたと信じたい。
「高里はさ、鈴ちゃんのこと勇敢だって言ってた。誰も知らないやつばかりだったうちのサークルに、友達と一緒じゃなくたったひとりで入部してきたのは、鈴ちゃんだけだったって。だから、その勇気に敬意を表して、絶対入部したこと後悔させない。楽しい思い出にしてやるからって。寂しい思いはさせないって言って、鈴ちゃんのことは、特に気にかけてたよ」
「そんなことを、高里さんが……」
あなたは確かに私の青春の日々にたくさんのきらめきをくれた。
拭いても拭いてもさらに溢れ出す涙をどうしたら止められるんだろう。
高里さん……本当にありがとう。
私が泣き終わるまで、奥寺さんは静かに待っていてくれた。
ひとしきり泣いて涙は止まってくれたけど、腫れぼったくなった目を奥寺さんに見られたくなくて、私はまだ下を向いていた。
「……俺さ、高里と違って俗物だから煩悩まみれで……、鈴ちゃんのこと下心ありありで見てたんだよ。鈴ちゃんは高里が好きなのはわかってたから、ヤバいと思って卒業後はきみと距離を置いた。それでも、毎年欠かさず鈴ちゃんがくれる年賀状が楽しみだったよ。高里は俺には鈴ちゃんとのことは何も言わなかったし、俺も聞かなかった。きっとふたりはうまくいくんじゃないかと思ってた」
え? 下心って、なに?
まさか、奥寺さんが私のこと?
「私、フラれたんです。高里さんに」
「うん、少しだけ聞いた。……あいつ、バカだよな。鈴ちゃんをフルなんて。でも、鈴ちゃんのことは、本当に大切にしてたから」
「……」
わかる。だって、高里さんのこと思い出すだけで、胸が温かくなるもの。
墓地って、静かだ。今は、シーズンが終わっているので誰もいないけど、他にお参りしている人がたくさんるときでも、静けさを感じる。
高里さんの声、色んな表情、覚えている。昨日のように懐かしく思い出せる。
とても悲しいけど高里さんにあの時フラれたから、こうして取り乱さずにいられるのかもしれない。
「今ここで? って、思われるかもしれないけど、鈴ちゃんは、今お付き合いしてる人とか、好きな人とかいる?」
お付き合いしている人はいない。今好きな人? 思い巡らしても、誰も浮かばなかった。
「いません」
私の恋は高里さんに捧げて、それが実らなくて拗らせて、引きずっていたから。
「良かった。実は俺もフリーなんだ。この姿に変身してから……」
変身……て。ヒーローみたいに。
でも確かに。
口に出しては言わないけど。
「結構女の子から声をかけられるようになったんだけど、付き合ってもだんだんかみ合わなくなるんだ。鈴ちゃんだったらって。変身前の俺と普通に接してくれていたのは、鈴ちゃんだけだったなって、思い出す日々で。俺は高里にはかなわないけど、鈴ちゃんと年賀状だけの関係から、先に進みたいと思ってるから、勇気を出すよ」
先に進む?
「鈴ちゃん、俺、後悔したくないから言うけれど、また俺と会ってくれる?」
「はい、もちろんです」
「とりあえず、今日はLIME、交換してくれる?」
「いいですよ」
「心が落ち着いたらでいいから、俺のこと、かつてのサークル仲間じゃなくて友達以上みたいな感じで見てくれる?」
それって……。やっぱり。
奥寺さんの優しい光を宿す眼差しに、またもや私の胸の奥が、小さくトクっと鳴った。
私は自分の胸に響いた小さな鼓動を信じてみようと思って、はい、と返事をして頷いた。
でも、遠距離だから、なかなか会えないのかな。
「嬉しいよ。ありがとう、鈴ちゃん。あの、俺、四月一日付けでこっちの研究センターに異動になったんだよね」
「え!?」
心臓が跳ねる。
それじゃ……。
「驚かせようと思って、内緒にしてた。だから、これからはいつでも会えるから、覚悟してね。今日はこのあと引越し祝い、お茶とかご飯とか、付き合ってくれる?」
「……はい」
私にくれる奥寺さんの控えめな笑顔、変わってない。カッコよく変身していても、話してみると私のよく知ってる奥寺さんだった。
一瞬心地よく香しい風が、桜の花びらをのせて私たちの間を通り抜けた。
高里さん、あなたの死は悲しくてしかたがないけれど、私たちは前を向きますね。私たちのこと、どうぞ見守っていてください。
私たちは、いつの間にかお寺の門の満開の桜の木の下で立ち止まって、長い時間、話し続けていた。
そこに高里さんも一緒に静かに漂っていてくれるような気がしてならなかった。
楠 結衣さまよりいただきました素敵なバナーです。
最後までお読みくださって、どうもありがとうございました。
香月よう子さま、このような素敵な企画に参加させていただきまして、どうもありがとうございました。