産まずの親
味など無い方がマシだろう。棗は肉の全てを飲みこんだ。吐き戻しそうになる口を抑えつけ、彼は自らの母親を胃に収めた。残った頭骨に爪を突き立てて、棗は歯を食いしばる。口端から漏れる唾液が、この少年の現状を表していた。
「何だこの躾のなっていないクソガキは」
脂で艶がかった頭髪を掴んで、父は棗の頭を持ち上げた。恐怖を顔にしていた棗は、今はしっかりと父に侮蔑の瞳を向けていた。
「どっちが餓鬼だよクソ野郎」
十代らしい無理のある挑発。怯える素振りもなくなった棗からは、あどけない愛らしさが失われていた。同時に、人間としての枷も投げ捨てたということくらいは、僕の眼にも明らかだった。
「全部他人任せで口ばっかり利いてるアンタの方がよっぽどクソガキじゃないか」
鼻で笑った瞬間、棗は床に顔を叩きつけて、カーペットに体液を吸わせていた。頭上には父の足が置かれ、成人男性一人分の体重がかかっている。
「そういう君は、偉そうな口を利ける立場か。今この時、君の今後を握っているのは誰だと思う」
棗の首が、父の足を押し上げる程強くはないことくらい、予想がついた。無意識に、僕は父の服の裾を掴んでいた。やめてください、と、小さく懇願もしたかもしれない。
「たとえアンタが王様でも、神様でも、僕はアンタを畏れない。僕はアンタを信仰しない。人として信じるにも値しないからだ」
父は、未だハッキリと言葉を吐く棗の頭蓋をより深く踏みつけた。今に脳味噌をぶちまけるだろうという時、やっと、僕の足が動いた。父の脹脛を、持てる力の全てで蹴り上げる。僕の存在をわかっていなかったのか、父はそのままあっさりと床に背を打ち付けた。
解放された頭骨を上げて、棗は一人立つ僕を見上げた。擦りむいた額からは新鮮な血液が垂れて、唾液と混じっていた。
「すみません、父さん。棗については、傷を増やさないでもらえませんか」
ひっくり返って戻らない父を見下ろして、僕は精一杯の平静を装った。指先の一つ一つが冷える感覚があった。やってしまったと、後悔が過った。けれどそこに、以前のような、父に対する恐怖心は薄く、興奮が圧倒していた。
「そんな料理、また、作れば良いじゃないですか。もう一度食事をする時間くらいある筈だ。どうせ、ここには邪魔をする人も、来ないのでしょう」
葬儀屋の、近道の無い行き道を思い起こす。多分、似たような手口なのだろう。父は確実に、怪異の世界を歩んできた人だ。そういった技術に精通していても不思議ではない。
「また? もう一度?」
頭を抱えながら、父は上半身を起こす。失われた表情筋を力いっぱい動かして、彼は怒りを顕わにしていた。
「棗の父親がいたでしょう」
母を抱いて息を潜める棗を見る。彼は静かに、必死になって、母親の眼孔に口を付けていた。集中して、僕達の対話なんて聞こえていないだろうと、僕は現実に想像を押し付けた。
「人の肉を食えというなら、素材くらい僕に選ばせてくださいよ」
「――――……口答えが増えたな。お前も少年趣味だったか。母親そっくりで、今更驚いているよ」
「僕にそういう欲が無いのはご存じでしょう。貴方に比べれば圧倒的に好感が持てるとういうだけです」
「その好感とやらを、もっと別の人間に向けて欲しかったのだがな」
「親しい仲はもっといますよ。僕がそう思っているだけかもしれませんけど」
「知ってるさ。どれもこれも男ばかり。唯一の女は、何だ、下半身を欠いて、お前に食われるべき肉体は、残っていない」
違和感があった。妙な所で、会話が成立しない。父は、まるで僕に何かを察して欲しがっているようだった。それが匡香と重なって、意地汚いと思えた。眉の間に皮膚が寄って、深い皺になっているのがわかった。
「あぁ、そうですか。父さん、貴方は、僕に親心をわかってほしいんですね」
それを理解した時、脳の隙間で、糸が切れる音がした。興奮が頂点に達していた。多分、これを苛立ち、怒りと本来は呼ぶのだろう。それは転じて、僕の中では嘲笑となって流れ出た。
「なら、わかってあげますよ。貴方は僕を神にしたい。残るは僕が人肉を食らうだけ。でもへし折った筈の少年の心は未だ耐えていて、用意した食材を奪われた。怒りに任せて暴れれば、息子の僕に止められる。最後になって何もかも上手くいかない。次にどうするべきか、思いつかない」
一息で、吐ける全てを吐いていく。表情の違いこそわからなかったが、父の血が、頭に上っているのはわかった。
「困っているんでしょう。それは、何とも、お可哀想に」
初めてだった。口角を上げて、人を見下したのは。こんなにも鮮明に、人を嘲ったのは。きっと今の僕は、笑っている時の日比野と、同じ顔をしている。
瞬間、頸動脈が圧迫された。天井と、逆光で暗くなった父の顔が見えた。
「困っている、そうだな。お前がとんだ馬鹿息子だったのだとわかって、酷く困惑しているよ」
僕に馬乗りになると、父は確かにそう笑った。
「お前に男を食わせて何の意味がある。これならもっと小清水を躾けた方が実りがあったかもしれん。匡香をあてがえば、次はもっと質の良い餓鬼を産んだだろう。お前を前にして焦ったことを、少々後悔させられている」
やたらと饒舌な父を見ていると、何故か笑いが込み上げて、僕は潰される喉の奥で、カラカラと笑っていた。刻み煙草を嗜む父の吐息は、醜悪なものだった。
「あぁ、そうだな、さっき、お前が言ったとおりだ。今の私には、まだ食材が残っていた」
ふと、父は我に返って、僕から手を離した。一気に入り込んだ空気が、肺を焼く。咳きこむ僕を見下ろして、父は笑った。
「年増は味が悪いが、仕方がない。ハラヤ、アレを食べなさい」
父の指の先、這いつくばって食堂から出ようとしていたのは、ボロ鼠のような義母だった。




