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冷凍された真夢  作者: 棺之夜幟
六章
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博愛主義者の妄言

 何か、糸のようなものが切れる音がした。それは現実の音ではない。もっと概念的なモノ。例えば、ハラヤの堪忍袋の緒が切れる音。

 全てがコマ送りにも見えた。誰も止める術を持たない程に速く、合理的に、ハラヤは四肢を動かしていた。テーブルの上からナイフを掴みとる。その勢いのまま、床を蹴り、望の首に手をかけた。少ない体重だが、それだけの速度と重力があれば、二メートル近い体も床に伏す。否、望が全く抵抗しなかったのが大きい要因に見えた。或いは、望が自らハラヤを抱きとめるように倒れたのかもしれない。


「僕が男でなければなんだ。女か。まだそういうことを言うか。さっき謝ったのはどうした、なあ」


 眉間に刃先が触れる。望の白い皮膚から、赤い生命が流れた。


「……ッア」


 未だ対話に臨もうと、望の口は呻き声を奏でる。しかし、気道を体重にせき止められて、呼吸すらままならないようだった。

 無意識に、私の正気が望を救おうと動く。ハラヤの身に触れようと、手を伸ばした。けれど、それが届くよりも前に、私の体も背側に傾いた。背後に回っていた日比野が、私の肩を掴んで放さない。人間の体を熟知しているのだろう。ただ手を添えられているだけで、私は一歩も動くことが出来なくなっていた。


「大丈夫、二人とも傷はすぐに失われるよ」


 日比野は粘度を含んだ声でそう笑う。辛うじて見える彼の表情それ自体は、虚無そのものだった。


「お前の、その、美しく幸福なだけの目で見える僕は、何だ? 僕が一体、何に見えている」


 返答を望まない問いかけは、ただの攻撃だった。その言葉に、深い意味は無い。ハラヤの自己満足のその先に、未来は見えない。望がどう返答しても、しなくとも、ハラヤ自身は何も変化しない。


「僕は男か? 女か? 人か? 悍ましい怪物か? それとも、皆が望む神という存在か?」


 ハラヤの言葉に合わせるように、日比野が拘束を緩めた。と、同時に、彼は私の視界を手で覆った。夏にしては冷えた、水分の少ない手だった。茹っていた脳を覆う熱が、彼に移っていく。代わりに私の中へ、日比野の冷気が流れ込んだ。指の隙間から、二人が見えた。

 ――――そこから見るハラヤの姿は、黒い血泥を頭から被っていて、神々しく淀んでいた。


「お前も怪異なんだろう。なら視える筈だ。僕の本当の、僕の、本質が」


 これが、彼等の視る風景。黒く、赤く、おびただしい死の臭いが漂う空気。和泉霧子という女性が、先生と呼ばれていた人が、私から遠ざけようとしていた領域。私はそれを、日比野の手から、視ていた。

 おそらくこれは人、事、物の本質を視るもの――――小清水君も、視ている世界。

 心が躍った。輝かしい世界に、入り込んでいるとさえ思った。私は今、共感の境地にいる。


「皆、僕を何かにしようと必死になっている。なら、今の僕は、一体何なんだ?」


 神々しい泥が、ズルと床に落ちた。それは不定形だったハラヤの感情らしい。ハラヤの手が緩んだのだろう。望の呻き声は咳きこむ肺の音に転じた。悍ましい泥(七竈ハラヤ)が被さっていた彼女は、起き上がって、輝く。成程、確かに今の視界には、彼女が天使にも見えた。ハラヤに吐きかけられた黒さの中で、望は白さを溢れさせていた。


「――――君は、何でもないんだよ、ハラヤ」


 その清浄な唇から出たのは、そんな当たり障りない、無味な言葉だった。


「君はカテゴライズが欲しいんだろう。そんなところも豊とそっくりで、愛おしく思うよ。だからこそ、同じ祝福をあげる」


 その全てが、愛情から成る発言であることくらいは、部外者の私にも理解が出来た。それと同様に、ハラヤにとってそれが侮辱以外の何物でもないことも、家族として、理解してしまった。


「君は君以外の何者にもならない。どんな形を当てはめても、七竈ハラヤだ。安心して良い」


 望の言う安心は、ハラヤの精神の表面で、擦れて消えた。ハラヤがナイフを刺して、この部屋が血だらけになるのも、時間の問題だった。

 そのように、思えたのだ。私には。


「……わからない」


 しかし、本当に出て来たのは、怒りでもなく、憎しみでもない。それは困惑と呼ぶものだった。


「何故そんなにも自信満々に、間違うことが出来る。お前には羞恥心というものが無いのか」


 毒気を抜かれた様子で、ハラヤは言った。笑いはしない。だが、肩は落ちていた。同時に、手にあったナイフも、滑って床を鳴らした。


「好きなモノを前にして、正誤を考える程、僕は冷徹さを持ち合わせていないんだ」


 望はナイフと共にハラヤの言葉を拾い上げた。そこに迷いは無い。初めから決められていたのではないかと錯覚する程に、彼女の精神は強固にして不動だった。

 私の知る慈愛とも違う。そも、根底が、赤檮望と私達では異なっている。


「好きだなんだを持ち出すことか、これは」

「僕にとってはとても重要なんだ、この感情は」

「気色悪い。吐き気がする」

「君、それが口癖なんだなあ。僕は君にそう言われても、心地良いくらいには、君のことを愛しているよ」


 酷く、穏やかだった。悪意は望に届かない。届かないなら対抗する必要も無いのだ。望の怒りは、この狂気的な愛情で溶かされていた。それどころか、その情だけで、ハラヤの言葉を全て打ち返していた。


「君だけじゃなく、豊も、匡香ちゃんも、全てを好いているよ」


 淡々と、望は言った。朗らかに口角を上げ、声を跳ねる。


「博愛主義を纏った隣人愛の狂信者め」


 反対に、ハラヤは声を濁して鼻で笑った。


「うん、そういうことなのかもしれない。僕は誰に何をされても、心から愛を説ける自信がある」


 望の屈託のない笑顔が、輝く。それを眩しがってか、ハラヤは顔を背けた。


「――――僕がお前を殺しても?」


 急転、再びハラヤは望に殺意を向ける。だがそれは無気力で、疲労感を漂わせていた。そのことが、本心が、見えているかのように、望は再び目じりを下げた。


「君が僕の死後、僕を愛してくれるなら」


 そう言って、望は立ち上がる。ハラヤは座り込んで彼女を見上げていた。そんな義兄の姿が少し惨めで、私の脳は、コメディ映画のスタッフロールを見ているような、そんな感情で満たされていた。

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