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冷凍された真夢  作者: 棺之夜幟
六章
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誰も知らぬ血

 右腕を力任せに引かれて、叩きつけられた。それが数分前の出来事だという自覚はある。脳が揺れて、時間間隔が曖昧だということもわかる。微睡んでいた自意識が、数年ぶりに覚醒した気がした。

 その直後、私の背中に衝撃を与えたのは、慣性という名の、車両を覆う物理法則だった。暫くして、再びそれはスピードを上げた。奥歯を噛みしめて、周囲を見渡した。状況は飲み込むに値しない。ただ、それがドッキリだとか、友好的なそれではないことは理解出来た。


「豊さんに連絡したから。今から行きますって」


 年若い一人の男の、声を聞く。私を抑えつけているその大男は、ふと、私と目を合わせた。自分の眉間に皺が寄っているのが分かった。


「そんなに睨まないでくださいよ。こっちだって仕事なんですから」


 彼は窮屈そうに身を縮こませる。妙な温和さがあった。グローブ越し、彼の手が額に触れた。被っていたフードを取られる。視界が開かれた。車窓は遮られていた。フロントガラスだけが唯一、開かれていて、知らない山の中を進んでいることはわかった。


「本当に女みたいな面だな」


 運転席から、ミラー越しにもう一人の男がそう笑った。

 何か、勘違いをされている気がする。女みたいな面というのに心当たりがあった。

 長い睫毛と、時間が止まったような幼い少女のような顔面。瑞々しく、何時までも赤子のように張りのある表皮。やつれてもなお美しい、義兄への羨望が、頭の中に沸いていた。


「――――アンタ達、ハラヤを狙っていたのね」


 いつまでも塞がれない口から、ポロと零れる。二人は目を丸くしていた。私は上半身を持ち上げた。緩く揺れた胸部を見て、大男が舌打ちする。


「女、女じゃんか」


 もう一方の運転手は、酷く狼狽えていた。より詳しく表現すれば、何処か恐怖に支配されているようだった。

 車体が前方へと傾く。どうやら、急ブレーキをかけたらしい。大男は前方の席に体を叩きつける。私は、咄嗟に彼の胴体に支えられて、肉と肋骨のクッションに頭を包まれた。


「戻らないと」


 手を震わせて、運転手が言った。再度、頭上から舌打ちが聞こえた。大男は怒りというよりも、呆れを顔にしていた。


「馬鹿がよ。間に合うわけねえだろ」

「じゃあどうすんだよ! 失敗したらどうなるのかわかってんのか!」

「わかってるよ。豊さんとは長いんだ、こういう失敗もよくしたさ」

「じゃ、じゃあ、そっか、大丈夫か……」

「まあ、俺の相方が一年持ったことはないけどな」

「お前ふざけんなよ……」


 ガタガタと、その振動が伝わる。アクセルを踏むべき足は、貧乏揺すりに囚われていた。


「これはバレてたのかな、お嬢さん」


 諦めを含んだ声で、大男は私の手を取った。関節の痛みで起き上がれなかった身体は、無理やり重力に反する。


「私は知らなかった。でも、窓の外をずっと見て、私に早く出ろと言っていたから……察してはいたんでしょうね」

「成程、独特な感性をお持ちらしい。君も被害者というわけだ」


 ポケットの中から煙草を取り出す。自然な手先が、小清水君を想起させた。


「君も、随分と落ち着いているね」

「そうね、自分でもびっくりだわ」


 どうしてかは、わからなかった。確かにいつもより私の脳は冷えていた。逆上せるような、どうにもならない感情が、失われていた。ハラヤの前では、いつも冷静さを欠いていた。多分、羨望混じりの嫉妬があったのだと思う。けれど、ハラヤが愛情の無い哀れなヒトで、小清水君が、ハラヤを愛しているわけではないとわかって――――ホッとしてしまったのだと思う。


「それで、君、誰?」


 一息、煙を吸い込んで、大男が言った。


「自分が先に名乗りなさいよ。拉致しておいて失礼ね」

「……犬江(いぬえ)紫貉(シバ)、シバで良いよ、お嬢さん。運転手については知らなくても大丈夫。日雇いの予定だし、何より」


 大男、シバはそう言って、私の眼を、その大きな手で隠した。


「どうせ今すぐ死ぬんだから」


 その直後に聞こえたのは、小さく硝子が割れる、僅かな高音。同時に、水っぽい音。数秒遅れて、ゆっくりと血と嗅ぎなれない体液の臭いが漂った。


「ご足労頂いてしまったみたいで、すみませんね」


 シバはそう言って、私に深くフードを被せた。視界は暗く、周囲のことはわからない。が、あれだけ荒かった運転手の息が、今は聞こえなくなっていた。代わりに、一瞬病んだ蝉の声が、一際強く鼓膜を叩いた。


「良いんだ。出迎えはするつもりだったし」


 車の、ドアの開く男がする。応答は同年代の男の声だった。いや、それ以上に、何か、聞き覚えすらあった。聞いたことはないけれど、いつかありえる未来で、この声を聞いたかもしれない。そんな、予感が混じった記憶。


 きっと、ハラヤが、正常な第二次性徴を迎えていたら、こんな声だった。


 そんな、声だった。それに気づいた頃には、シバの手で、私は車の中から放り出されていた。


「君が匡香ちゃんか。ハラヤ君から聞いているよ。こちらの手違いで迷惑をかけたね」


 僅かな光の中、喉仏が動くのが見えた。遮るものを失った手で、フードを取った。視界が開ける。夏の日差しは白く濁る。木々の影で輪郭を得ていたその青年は、スマホと拳銃をそれぞれの手に微笑んでいた。仮面のような感情の蓋は、社交的であることを物語っている。無表情で、人間味の無い神々しさを持ったハラヤとは違う。アレは信仰という好意を得る存在だった。けれど、今、目の前にいるコレは、信頼と恐怖で好待遇を毟り取る人間だ。


「僕は日比野豊。ハラヤ君の――――お友達? ファン? 信者? みたいな感じ」


 銃をポイと車に放り投げて、彼はそう言った。その行為を補足するように、シバがそっと運転席の死体を整える。


『――――信者? 気色が悪い。事実を口にしたらどうだ』


 ふと、突然、正しく聞き覚えのある声が聞こえた。生温く気怠い語尾と、女性的なハスキーボイス。感情が一気に回り出す。多分、これは怒りというもの。

 しかし、それより前に、日比野がケラと笑って、心底嬉しそうに言葉を吐いた。


「わかったよ、兄弟」


 彼の深い黒の眼は、ハラヤと揃いの、黒真珠だった。

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