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冷凍された真夢  作者: 棺之夜幟
五章
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足りない感情

 再び開いた葬儀屋の戸は、僕を飲み込まんとする怪物に見えた。不快感は和泉と共に僕の首を撫でている。空気は淀んで死んでいた。


「あら、お待ちしておりましたよ」


 黒と白、そして唇と爪に差す赤。八百原はいつかの時と同じ表情、同じ姿勢、同じ声でソファに座っていた。

 今なら視える。彼女の皮膚を覆う魚類の鱗は、淡水魚、コイ科、金魚のそれと似ていた。


「血を出し過ぎですよ。お茶でもどうぞ」

「要りません」


 あら、と、八百原は零す。彼女と目を合わせた瞬間からその言葉に沿ってはいけないと思った。


「全部知っていましたよね」


 僕は八百原の目を見た。その視線はねっとりとしているものの、先生の軟体生物的な、軟化した粘度の高い体液のようなそれではない。彼女を包み、また誇示するのは、もっと別の、古臭い紙のような匂いを伴った空気だった。

 当の先生は、僕達が問答を始めた矢先、匡香を庇うように部屋の隅へと息を潜めている。どうやら先生は、僕の言葉の一つ一つに、これ以上あまり踏み込む気は無いらしい。


「全部と言うと語弊があります。私にわかっていたのは、貴方が殺人鬼で、()()()()()()()()()であるということだけ」

「小清水は、どうなんですか」

「敢えて申しますと、■■さんは大変興味深い存在です。彼自身が怪異そのものでありながら、辛うじて、貴方を人間として機能させていた。何より、"私"を抑えつけた上、韮井君の認知すらも騙し続けていた……アレで良心さえ無ければ、もっと"近づけた"でしょうに」


 煙が、部屋に浮かび始めた。それは隅で僕を見ている先生から発せられていた。紫煙は、僕達を守るように、隠す様に広がっていく。


「ですが、まあ、それは彼の"幸せ"には程遠いのでしょうけど」

「幸せ?」

「幸福、身の丈に合った良い暮らしです。怪異だろうとヒトだろうと、追及していることに代わりは無い、それです。私達はそれを支援することが大きな目的ですから」

「冗談しか言えませんか、その口は」

「貴方にはわからないでしょう。一生、それこそ、これからは永遠に」


 クフクフと、沼に浮かぶ泡のように、彼女は笑った。彼女の眼が、仕草の一つ一つが、全て、和泉に似通っていることに気づいた。


「貴方はもう、"幸福"を享受出来ないのですよ。幸せは理解してこそ、その価値を律する。故に、貴方自身に至っては、私達にはどうすることも出来かねます」


 水面で酸素を求める金魚のようだった。彼女は何度もその丸い口を開く。止まらない。止める手立てがなかった。腕を前に出そうにも、彼女の首を折ろうにも、僕の筋力は、悪夢に吸われ過ぎていた。


「いや、ね、貴方を責めているわけではないのですよ。言ってしまえば、貴方は何も()()()()()のですから」


 急転して、彼女の口が、手で覆われる。粘ついた空気に先生の吐く煙が混じる。香ばしい吐き気。油の浮いた水の中に沈められたような感覚があった。八百原の言葉は、夏の水泳の終わりのような、耳に入った水のように脳に留まった。


「始まりは遠すぎて意味を成しません。もっと近い過去。そう、例えば、貴方の御父上と御母上。あるいは畜生腹の片割れ。そして貴方を最後まで騙そうと努力する健気なご友人」


 唄うように、彼女は楽し気な舌を回した。赤い舌の肉を、奥から引き千切れば、少しはその煩わしさも消えるだろうか。


「そんな目をしないでください。理解せずとも、価値を認めずとも、その恩恵を得ることは出来るのですから。幸福とは、往々にしてそういったものでしょう」

「相変わらず、奇妙な言い回しですね。詐欺師のようだ」

「古臭い()()ですので。迷路を巡るような言葉が好きなのです」


 呆れるような言葉の全てを、僕は漂う先生の煙ごと飲み込んだ。足元では形を成し始めた幻覚たちが、僕の足の肉を齧ろうとしていた。


「耳障りの良い言葉ですね、幸福、というのは」

「欲しいですか」

「本当に存在するというのなら、求めるものでしょう。幸福追求権くらい、僕だって持っている」


 乾いた口からは、同等の笑いしか出なかった。感性は既に失われている。僕に"目的"は無い。あるとすれば"苦しみを消す"という、逆説的で合理的な幸福の追求くらいだろう。


「では手伝いましょう。貴方自身が出来ることは殆どありませんが……間接的に導くことは然程難しい事ではありません」


 そう言って、彼女はデスクに立った。クフ、と口角を上げると、キーボードを叩く音が聞こえた。画面の色が変わったのだろう。彼女の白い顔面に反射する色が変わる。それを確認すると、彼女は再び僕の前に座った。


「貴方は貴方のまま、人形のように生きれば宜しい。未だ芽生えぬ自我は、貴方を貴方と認める優しい人から奪えば良い。強奪は、お得意でしょう」

「他人を強盗のように言うじゃないですか」

「あら、連続殺人の方が余程上等でしょうに」


 不快極まりない八百原の笑う顔を、僕は自分の指の隙間から見つめた。何処へ目を反らしても、彼女の目線は途切れない。


「では、私達が貴方に手を出すのはここまでです。後は他の方々や、無関係の方への"被害"を出来る限り抑える……といったところでしょうか」


 被害と、彼女は確かに言った。


「僕はまた人を殺すと思いますか」


 脳裏には、■■■■や父、日比野、義兄と義母、そして銀細工のような――――あの綺麗な顔が、薄っすらと浮かんだ。僕にはどれも殺す理由がある。殺意と混じった、彼、彼女らとの腐った関係性を断ち切る解決法が、この手には含まれている。


「はい。殺すでしょうね」


 明確で、輪郭の尖った言葉を、八百原は僕に向けた。


「貴方に足りないのは、聖人殺しと食人です」


 あるいは、と、再び赤い唇が動く。


「母性と愛情、でしょうか」


 そうして、八百原は口を閉じた。全て噓のような、白昼夢にも似た、音と煙の中にあった。

 先生が煙草の灰を落とした。僕の中で、それは引き際の合図だった。目を合わせようともしない匡香は、先生に肩を支えられて、部屋を出た。僕は和泉達と似た人魚――――八百原に向けて、一つ、礼として、踵を返した。

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