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冷凍された真夢  作者: 棺之夜幟
四章
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父と師

 僕は小清水の手を振り払う。同様にして、日比野もその身を引いた。


「それじゃ、七竈君の安否も確認できたし、僕は帰らせてもらうよ」


 ゆるい前髪を揺らして、彼は薄ら笑った。コーヒーカップをシンクに置く。


「あら、もう帰っちゃうの」

「コーヒーありがとうございました」

「またいつでも遊びに来てくださいね」


 義母が声を弾ませる。どうやら彼女は僕が眠っている間に、日比野に懐柔されたらしい。単純な女であることは、半年経っても変わりない。

 日比野が車のキーを指先で弄ぶ。ついでに廊下の壁を片手で撫でていた。既にこの別荘の内部構造すら把握しているのか、その足取りに迷いはない。

 僕は玄関に向かう彼の足を追っていた。特定のリズムは崩れない。下手な鼻歌は、音程が壊滅的で、何を歌っているのかもわからない。辛うじて、僅かな正しい音が、子守唄のそれと同一らしかった。


「七竈君」


 振り返り際、日比野は笑う。口元は浮ついているが、目は固着したままだった。


「また、今度も遊びに来るね」

「出来れば向こう五年は来ないで欲しい。面がムカついて仕方がない」


 酷いなあ、と彼は声を上げる。玄関の空気が外と内で入れ替わった。戸の隙間、日比野の像が、ほんの一瞬だけズレた気がした。

 日比野を見送った後、僕の後ろを誰かが横切る。足音は少ない。ただ、存在だけが匂った。


「小清水?」


 僕は予感の中にあった名を唱える。返事はなかった。振り返った瞬間、間違えに気付いた。


 美醜のそれを易々と越えた顔は、まるで角のない悪鬼のようだった。炎、あるいは薬品によって焼け爛れた顔面の皮膚は、あるはずのない腐臭を錯覚させる。実際に香っていたのは、紛れもなく、懐かしさを纏ったシトラスの上品な色であった。


「ハラヤ」


 その悪鬼は、自らの体重を支えている杖で、カンカンと音を立てた。僕の名をなぞる声の感触は、親しみという柔らかさの中にあった。


「父さん。体調の方は大丈夫なんですか」


 口が、余計に回る。実の父親を前にして、僕の手は汗を握っていた。後天的に色が抜けたという父の右目は、僕ではなく、宙を見ている。代わりにギラギラと眼光を伸ばす左の瞳が、僕の中に焦りを植えた。


「私は別に、変わりない。大丈夫でないとするなら、政子さんの忘却症と虚妄が悪化したくらいだ。何もお前に心配されるようなことはない」


 端的で、否定から切り入る話術。僕の見目は実母の生き写しだというが、内容物はこの人のジェネリック的なものに違いない。自覚が出来る程度に、僕と父は同じだった。


「それは……その、良かったです」

「私は良いと思っていない」

「何かあったんですか」


 ギリと父の口元から、歯が擦れる音が聞こえた。

 怒っている。何か、地雷を踏んだらしい。ここ数日、こんなことばかりだった。


「成程、お前には自覚がまるでないらしい」

「何がですか。相も変わらず、口で話すのは苦手ですか」

「……それはお前もだろう。全く、実の父親に心配をかけておいて、何か言うことは無いのか」

「心配したんですか」

「当たり前だ。他ならぬ息子が誘拐されたんだぞ。()()()()()()()警察に世話になった、とはわけが違う」


 父はそう言って、僕の頭に手を置いた。


「しなければならない話が多い。着いてきなさい。客人も待たせている」


 父の手はゆっくりと僕から退くと、力無く垂れた。その足は一つ一つが重く、鈍い。僕は父の隣に添い、僕より重い体重を支えた。


 昔はよくこうしたか。


 懐かしみが、指先の熱を奪う。脳裏に、父に世話をされる母の幼い表情が過った。

 一歩ずつ、前へ向けて、足を出す。辿り着いた部屋は、書斎であった。父が扉をノックする。中にいる誰それの返事を待つより先に、僕は扉を押し開いた。


「お待たせしましたね、先生」


 内部を確認することもなく、父はそう口を含んだ。応接用のソファに腰を落としていたのは、久しく見ていなかった、涅色の毛髪を遊ばせる猫背の男。韮井先生は、僕と父を視界に認めると、ゆっくりと立ち上がった。


「いえ、押しかけたのは私ですから」


 いつもとは異なる、礼節と豊かな表情を携えて、先生は微笑んでいた。父は列する本棚を伝い、デスクに辿り着く。その間、一切の隙も無く、父が先生から目を離さなかった。


「ハラヤ、座りなさい。茶菓子は政子さんが持ってくる」


 忘れていなければ、と、父が言うよりも前に、僕は先生の目前に体重を落とした。体がずっしりと沈む。柔らかなバネは、腰の骨が浮き始めていた僕の体には丁度良かった。


「先生も、話があるのでしょう。すぐに立ち退くわけでもない。お座りください」

「これはどうも、ご親切に」


 先生の父への態度は、異様の一言だった。心底吐き気がする。良い人面の先生を、いつまでも眺めていられなかった。


「どうして先生がここに」


 座についた矢先、僕の口からは、そんな声が漏れた。ハハと先生の渇いた声が耳を撫でる。


「久しぶりですね、とか、お元気でしたか、とか言えないのか。それとも鼻血と嘔吐とで全て絞り出したか」


 あぁ、そうだ、これこそがこの先生だった。


「お変わりないようで嬉しいですよ、これでも」

「私はお前がもう少ししおらしくなっているんじゃないかと期待していたんだがな。元気そうで何よりだ」


 嫌味と皮肉の波。少し前には確かにあった、日常の破片。それが、僕の目の前に、客人らしからぬ横暴な雰囲気で座っていた。


「成程、ハラヤと小清水君が大人しく世話になれるわけだ」


 煙管に刻んだ葉を詰めて、父がそう言った。同時に、無言で差し出される先生の手から、僕は一本だけ煙草を抜き取り、口に咥えた。火の熱と共に、煙が交わり始めた。

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