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冷凍された真夢  作者: 棺之夜幟
二章
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眼球風呂

 ふわふわとした幸福感にも似た感覚が、全身を覆うようだった。

 ボーッと空間を眺めていると、薄らぼんやりとしていた視界が、少しずつ輪郭を作り始めていた。目の前にあるのは、鏡。暖かい色の光が反射する。よく見ると、鏡の周囲が白い水垢で汚れていた。自分を写す鏡には、頭の上にあるらしい蛇口が見えた。そこでようやく、僕は今、自分がゆっくりと湯船に浸かっていることに気付いた。人肌のぬるま湯は、のぼせるには程遠く、揺らぐ泥に浸かっているようだった。水垢で見えにくい自分の周囲を、僕は素肌で確かめる。粘着質の液体が僕の指と指の隙間に絡まった。僅かに、また輪郭が整い始める。

 いくつもの球体と糸が、僕の周囲に浮いていた。それは眼球とそこから伸びる視神経。潔き青少年であれば誰でも一度は妄想し、何かしらの空想で見る、そのままの形。それらはチャプチャプ音を立てて、まるで果実の様に湯船に浮いていた。水面はそれらによって埋め尽くされ、水底を見せない。否、眼球らは湯に浮いているのではない。その他の組織が、湯船全体を充填しているのだ。僕は適当に湯船の中を弄って、空気に触れさせる。多量の鉄分で麻痺していた鼻でも、腐臭を感じ取れた。筋繊維か、それとも血管か、柔らかく熟成された肉の切れ端と、多数の眼球が混ざる。それらが人間のものであるという保証はない。幾つかの眼球の大きさと、銀箔の様な膜が、魚類のそれを意味している。何種類かの生物が、この中で混ざり合って、僕を包んでいた。

 無意味で情緒の無い固体と液体の混ざり合ったそれは、次第に乾きと熱によって、その比率は固さが優っていく。粘着力が、肌に貼りつき離さない。このまま汚物の中で溶けるのだろうとすら思った。

 目を瞑ると、毛穴一つ一つまで感覚が鋭くなった。指先でなぞるのは自分の喉。僕は鼻まで血肉の中に身を沈める。入りきらなかった足が外に出た。同時に、数個の眼球と薄い血液が漏れる。

 べちゃべちゃという肉の割れる音に被せて、ぺたぺたという足音が聞こえた。僕はそのまま息を止めて、ゆっくりと目を開く。浴槽の隣、肉の落ちた床には、白い人影が見える。育ちの良さそうな白いシャツには、ベッタリと血糊が付着している。よく見れば口元とシャツの袖口も汚れていた。

 前見た時よりも、幾分か不健康そうに見える彼は、銀細工の男。彼の目元には大きな隈が見えた。僕と同じ隈があった。

 

「……そろそろこれも片さないと。臭いがキツイね」

 

 掠れた声は、寝起きの僕の声と少しだけ似ている。彼もまた深く眠れていないのかもしれない。


 ふと唐突にキャンっという高い音が聞こえた。チャリチャリという小さな硬いものがぶつかる音は、リズミカルだが僕には聞き覚えがないものだった。

 

「イド、そこにあるのはダメだよ食べちゃ。お腹壊すからね。すぐにご飯を用意してあげるから、ちょっと待っててくれ」

 

 どうやらそれはイドという、彼のペットらしい。ゆっくりと音を立てない様に僕は湯船から身を乗り出し、音の方を覗いた。小動物の息は荒く、ハグハグと音を立てて、僕が落とした眼球を喰らう。所謂ポメラニアンというやつが、ふわふわの毛が赤く染まっている。真っ黒でつぶらな瞳に対して、僅かに可愛らしいと思ってしまった。ニチャニチャと音を立てて腐肉を食らっていると、後ろから濡れ手の男が犬を抱える。強く溜息を吐いた。


「全く、ここを立ち入り禁止にするしかないな。ほら、口を洗うから暴れないでくれよ」

 

 一際近く、男の顔と僕の顔が近づいた。肌のキメの細やかさと、根本から艶やかな銀髪が、神様の様にも見えた。どんなに僕が観察しても、彼はこちらに関心を寄せず、まるで僕が見えていないようにようだった。それに良い気になって、より近づく。犬の生臭い口臭が気になった。彼の青紫色の虹彩が、宝石のようで、吸い込まれた。僕と同程度弱っていたとしても、ごく健康なその辺の女よりも、ある意味で唆られた。

 やはり僕は、この男を知らない。僕とこの男に、共通点が無い。こんなに綺麗な生き物を、僕は現実で見たことがない。まるでこの夢が全て、虚構であると言っているようだった。


「君もあまり中身を漏らさないでくれないか。イドが食べてお腹を壊してしまう」

 

 彼はそうとだけ呟いて、犬と共に部屋を出る。犬がキャンと吠えて、黒い瞳に僕の呆けた顔を映す。


 なんだ、見えているんじゃないか。

 だったら、無視しなくても良いじゃないか。


 そんなドス黒い感情を溜め込んで、僕は汚物の泥に沈んだ。また幾つか眼球と筋肉が漏れた。僕の瞳も溶けていく。

 そしてまた、朝が来た。瞼を透けて、光がそれを知らせた。清潔な空間が、逆に鼻についた。

 

「よく眠れましたか、七竈さん」

 

 管をせっせと整理する彼女は、昨日話をしていたあの女性看護師だった。ふと、僕の周りを動き回る彼女の胸を見上げた。ぶら下がった名札を見るとそこに"和泉"という文字があった。

 

「和泉……さん」

「はい、どうかしましたか」

 

 淡々と返答する彼女の顔が、天井に張り付いた和泉の虚ろな顔と一致した。

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