Cafe Shelly ライバル、登場
これでよし。準備は全て整った。今日からここが私の城となる。
喫茶ルポゼ。フランス語で休息という意味だ。日々の生活の中で、私の店で、私のコーヒーを飲んで休息を感じて欲しい。その思いでつけた名前。私自身、ほんの数カ月前までは企業戦士だった。課長という中間管理職に就いてから、休みなんて無縁の日々を送ってきた。が、それがたたり胃潰瘍に。幸い初期の段階で見つかったため、それほどひどくはなかったが。このときにしばらく会社を休み、今後の人生を考えてみた。そして出した結論が今の姿だ。
私の妻には猛反対された。なにしろ高校生の息子と中学生の娘がいる身。収入は大丈夫なのか、家のローンは払えるのか、私も仕事をしなきゃいけなくなるのか、などなど。まぁ気がつけばお金のことしか口にはしなかったが。離婚寸前まできたが、結局妻もしばらくは働きに出ることになって収入はギリギリでなんとかすることに。それよりも私は大好きなコーヒーを追いかけて行きたい。その衝動の方が妻の気持ちよりも勝ったのだ。
それから本格的に勉強と修行を積んで、資金もいろいろなつてを頼ることでなんとか確保。そして新年が明けて早々、この店を開くことができた。
「さぁ、開店だ」
午前九時。私は店の鍵を開け、OPENのプレートを掲げた。ここで店の外に行列が…できていれば最高だったが。そんなことが起こるわけがない。なにしろこの店を開くことは私の知り合いしかまだ知らない。それにここは立地がそんなに良いわけじゃない。街の中心から少し外れたところ。周りには多少のお店はある。が、人通りがそんなに多いわけではない。幸いなのは、近くに大きなスーパーがあること。お店に駐車場はないが、短時間ならこのスーパーの駐車場を利用してもらうこともできる。
お店はとても小さい。カウンターに六人ほど座れ、奥に四人がけのテーブルが二つあるだけ。基本的には純喫茶。食べ物は軽食程度しか用意していない。やはりおすすめはコーヒー。狭い店の奥にわざわざ自家焙煎の機械を置いてローストしている。おかげで店の中にはコーヒーの香りがほどよく充満している。このコーヒーローストの技術なら地域一番と自負できる。その研究は学生時代からもう何十年もやっているのだから。それでもまだ完成形は見つからない。コーヒーとは本当に奥が深いものだ。
チリン、チリン
ドアにつけた鈴が心地よく鳴り響いた。お客様第一号だ。
「いらっしゃいませ」
私はにこやかにお客様を迎え入れた。が、そこに立っていたのは妻だった。
「なんだ、まだお客さん一人もいないじゃない。これじゃ手伝いに来た意味がないわね」
「そう言うなよ。まぁ大した宣伝もしていないし、ここは人通りもそんなに多くないところだからな。最初からそんなには期待していないよ。でも、コーヒーの味さえわかってくれれば、それなりに評判は立つと思うんだけどな」
妻はまたかとあきれ顔。珈琲の味さえわかってくれれば。このセリフは何度言ったかわからない。
しかし妻曰く、世の中にそんなにコーヒーの味にこだわる人なんかいない。それよりもファミレスのドリンクバーで飲み放題でおしゃべりをした方が安いし気兼ねなくいることができる、という意見。私から言わせれば、それは主婦の世界のこと。目指しているのはビジネスマンがいっぱいのコーヒーで休息を取れる場所なのだ。
妻が来てから一時間ほどして、本物のお客さんが来店。が、これも妻の友達で、しかも妻がわざわざ電話で呼びつけたらしい。結局奥のテーブルは主婦の座談会の場と化してしまった。私の目指していた空間とは異質のものとなったな。客が来ないよりはましか。
その後、昼になってようやくお客さんが来店。しかし特に会話を交わすこともなく、気づいたら一日が終了。売上は一万円もいかない状態。
「あなた、こんな状態で本当に大丈夫なの?」
心配する妻をよそに、私は翌日の仕込みを始めた。
「大丈夫。いきなり繁盛するようなお店なんてなかなかないよ」
「でも、チラシくらい撒いてみたらどうなの? 前評判が高かったわけでもないし、地域でも知らない人の方が多いはずでしょ」
妻のいうことも一理ある。帰って早速チラシを作成し、自宅のプリンタで五百枚ほど印刷。翌朝、五時に起きてお店の周りの家にチラシを配りに行った。さぁ、これで少しはお客が来るんじゃないか?
が、結果は惨敗。開店二日目も一日目とさほど変わらず。ターゲットとしているビジネスマンの姿はほとんどない。主婦も毎日喫茶店に集うほどふところに余裕はなさそうだ。
「一体どうすればお客が集まるんだ?」
私は悩んだ。コーヒーの味さえ理解してくれれば。そうか、とにかく飲ませればいいんだ。店頭で無料試飲でもやってみるか。しかしここは人通りがそんなに多くはない。やるだけ時間の無駄か。ほかの喫茶店はどうやって最初のお客を呼び込んだのだろうか?
そんな状態で開店から一週間ほど経った。客の入りは相変わらず。これでは予定通りの収入には程遠い。純喫茶という設定がまずかったのか? やはり目玉となる食べ物や、一風変わった飲み物などを用意しなければいけないのか? こういったことを誰に相談すればいいのだ?
妻曰く
「商売の素人が手を出そうとするからよ」
と冷たくあしらわれる始末。誰だって最初は商売の素人なんだから。そう反論したいところだが、それ以上次の句が続かないので言うのをやめた。
そんなある日、やたらと賑やかなお客さんが来店。
「へぇ、ここつい最近できたんですねぇ」
珍しくお客さんの方から私に声をかけてきてくれた。
「はい、まだ一週間ほどしか経っていませんけれど。でも、自家焙煎のコーヒーには自信があるんですよ」
「ほぉ、じゃぁマスター自慢のブレンドがあったらもらおうかな」
マスターなんて呼ばれたのは初めてだ。それに気を良くした私。だがコーヒーを入れるときは真剣勝負。お湯を注ぐ量や注ぎ方の加減、さらにはタイミング。こういったものをしっかりとチェックしながら入れる。
「はい、ルポゼオリジナルブレンドです」
カップも私が選んだお気に入りのもの。
「ではいただきます」
私はその客の顔をじっとうかがった。どんな反応が返ってくるのだろうか? お客さんはカップを置く。そして一言。
「うん、うまい。マスター、いい仕事しますねぇ」
どうやら満足してくれたようだ。だが次の一言で私は現実を知った。
「うまいんだけど、何かが足りない。そんな気がするんだよねぇ」
「何かって、なんでしょうか?」
「う~ん、うまく表現できないんだけど。何て言うかなぁ…うまいだけなんだよね。その先にあるワクワク感とか喜びとか。そういったものが感じられないんですよ」
コーヒーにワクワク感や喜びなんて、どうやって表せるんだ?
「あの、失礼ですけどそんなワクワク感とか喜びを感じさせるコーヒーってこの世に存在するんでしょうか?」
「う~ん、そうだなぁ。正直なところ、コーヒーだけじゃ無理でしょうね。お店とマスターとコーヒー。この三つがかもしだすハーモニー。それがあって初めて出るものじゃないかな」
お店とマスターとコーヒー。まだお客さんの言っている意味がつかめない。コーヒーの味はコーヒーがつくるもの。お店や私とは関係ないじゃないか。
「そんな味わいのあるコーヒーを出すお店なんてあるんですか?」
素直に私は聞いてみた。
「えぇ、私が行きつけの喫茶店があるんですけど。あそこのコーヒーは一味違いますよ。何しろ自分が望んだものの味がするんですから。おかげで私も望みどおりの結婚ができたものですからね」
聞けばお客さんは実家の文具・事務用品店の跡取りだとか。学生時代の同級生だった女性と結婚したくて、その喫茶店のマスターに相談したところ、そこのコーヒーをうまく使って告白をしたらしい。コーヒー一杯が取り持つ縁。そんな話もあるんだ。
「一度行ってみるといいですよ。あそこのマスターなら喜んで歓迎してくれますよ」
「でも、私はそのお店のライバルになるんでしょう。そんな人間がノコノコと伺ってもいいものでしょうか?」
「はははっ、心配はいりませんよ。あそこのマスター、変わり者だしね」
にこやかにそういうお客さん。とりあえず場所だけは聞いておいた。
カフェ・シェリーか。ちょっと興味はある。でも私がそのマスターの立場で、同じように喫茶店をやっている人が偵察に来たと知ったら、歓迎はしないだろう。どこで自分の技術を盗まれるかわかったものじゃない。
「じゃ、ごちそうさま。今度はもっと深い味わいのコーヒーを飲ませてくださいね」
そう言ってお客は帰っていった。翌日は水曜日、うちのお店の定休日にしている。
「今日はどうするの?」
妻からそうやって尋ねてくるときは、必ず私に何かを頼む時だ。どうせ車を出して買い物に連れていって欲しいといった内容なのだろう。
「どこか行きたいのか?」
「そういうわけじゃないけど…」
いまいち歯切れが良くない。しばらくは黙っていた妻だったが、やはり言いたいことがあったようだ。
「あのね、昨日職場の人から聞いた話なんだけど。ちょっと変わった喫茶店があるらしいの。でね、今日は私三時までだから。終わったら一緒にどうかなって思って」
どうやら妻も私の店のことは心配してくれているようだ。
「どんな喫茶店なんだ?」
「そこのコーヒーが変わってて。飲むとその人が欲しがっているものを見せてくれるんだって。そのおかげで人生が変わったって人もいるみたいよ。そんなコーヒー、本当にあるのか体験したくて」
ん、昨日の客から聞いた話と似ているな。
「何ていう喫茶店だ?」
「ちょっと待って、手帳にメモしているから」
妻は急いでバッグから手帳を取り出し名前を確認した。
「えっと、カフェ・シェリーってところ。場所も聞いてきたわ」
まさか、ここでもカフェ・シェリーの名前を聞くとは。
結局、妻と二人で夕方からカフェ・シェリーに出かけることになった。それにしても、あのお客さんの言っていることは本当なのだろうか? 妻も同じことを言っていたのだから、やはりそうなのか。でも、コーヒーの味が飲む人によって変わるなんて信じられない。ひょっとしたら変なクスリでも混ざっているのではないだろうか? そんなことさえ疑ってしまう。
その反面、その店がどのような工夫をしているのかが気になる。それなりに繁盛しているのだろうか? 開店からそうなるまで、どのような道のりを歩んできたのだろうか? そこが知りたい。
そんなことをしていたら、妻との待ち合わせの時間が迫ってきた。急いで出かける準備をして家を出て行く。外はまだ寒い。特に今日は風が頬を刺すように冷たい。しまったなぁ、マフラーをしてくればよかった。
妻と待ち合わせの駅前に到着。あちらの方が先に着いていたようだ。
「こっちこっち、寒いから早く行きましょう」
妻に引っ張られるように歩いていく。気がつけば裏の通りへ入り込んでいた。そこはまるで別世界。何年もこの街に住んでいたのに、こんなところがあったとは知らなかった。いかに私が企業人をしてきたかを思い知らされた。目にうつるのはパステル色に彩られたタイル貼りの道。幅は車が一台通るくらいの狭さ。道の両端にはレンガでできた花壇がある。寒いのに、けなげに咲く花がなんとなくいじらしい。
「えっと、確かこの辺の二階だって聞いたけど…あ、あった」
妻が指さした先には、黒板の立て看板があった。そこにはコーヒーのイラストとメニューの文字が。
「ここの二階よ」
妻は軽快に階段を駆け上がっていく。私は逆に重い足をひきずるように階段を登っていく。
カラン、コロン、カラン
妻が扉を開けると、心地よいカウベルの音。ふぅむ、この響きも悪くはないな。同時に店の奥から可愛らしい女性の声。
「いらっしゃいませ」
遅れて、低くて渋い男性の声
「いらっしゃいませ」
「二人だけど空いてますか?」
「はい、こちらの丸テーブルの席にどうぞ」
妻に続いて店に入る。すると甘い香りが私を包み込んだ。どうやらクッキーの香りのようだ。店は私のところと同じくらい狭い。窓側に半円型のテーブルと四つの椅子。ここは若い女性で埋まっていた。店の真ん中に私たちが案内された丸テーブルと三つの椅子。カウンターには四つの椅子が並べられている。そこでは二人の男性客が会話を楽しんでいた。
私の店と大きく違うのは、お客同士の会話があること。私の店で会話があったのは、妻が友達を連れてきた時くらい。それ以外のお客はほとんど一人でやってくる。そして何も言わずにコーヒーを飲んで帰る。
「どうぞ」
ウェイトレスの女性がお冷を持ってきた。
「ここに変わったコーヒーがあるって聞いてきたんですけど」
妻は間髪入れずにそう尋ねた。これは私にはできない芸当。私は人にものを尋ねるというのが苦手。何か調べ物があると、まずは一人でできるところまで調査する。それでどうしてもわからなければ、専門家に尋ねるようにしている。おそらく今回も私一人で来ていたら、メニューを眺めてそれらしいものを注文してみるだろう。仮にそれが間違いだった場合は、別の日にもう一度やってきて違うものを注文する。当たりが出るまでそれを繰り返すことだろう。
「シェリー・ブレンドのことですね。うちのオリジナルブレンドで、みなさんに好評なんですよ」
「じゃぁそれ二つちょうだい」
「かしこまりました」
妻は私には何も聞かずに、勝手にコーヒーを注文。私は黙って妻のいう事に従う。これが夫婦円満の秘訣かな。
ふとカウンター席に目をやったとき、予想外の出来事が起きた。なんと、カウンター席にはこの店を教えてくれたお客さんが座っているじゃないか。なんとなく目を合わせたくなくて、すぐに後ろを向いた。が、向こうのほうが私に気づいてしまった。
「あ、ルポゼのマスターじゃないですか。やっぱりいらしたんですね。ほら、さっき話した新しい喫茶店のマスターですよ」
なんと、私のことをこの店のマスターに紹介し始めたではないか。
「あら、あなた有名人じゃないの」
妻が皮肉っぽくそう言う。だんだんと私の立場がなくなっていく、そんな気がした。
「あ、そうなんですか。ようこそ、私の店においでいただきありがとうございます。今日はゆっくりとくつろいでくださいね」
屈託の無い笑顔でマスターが私に語りかける。ゆっくりとくつろげ、だと。ライバル店でそんな余裕なんてあるわけがない。
「コーヒーのんだら帰るぞ」
妻に小声でそう言ったところ、逆にこんな言葉が。
「あらぁ、このお店ってなんだか落ち着くのよね。どうせだからもっとゆっくりいたいわ。それに、あなたのお店とどこが違うのかをしっかりと観察しておかなきゃ」
まったく、こっちの気持ちも知らないで、のんきなものだ。しかし、妻が言うようにこの店はなんとなく落ち着く。
「シェリー・ブレンドです。よかったら飲んだ感想を聞かせてくださいね」
そうしているとウェイトレスの女の子がコーヒーを運んできた。そうか、うちの店に足りないものの一つに、こういった女性の笑顔というのがないな。なにしろ店にいるのはむさ苦しい熟年の男が一人だから。華やかさも必要か。
「いただきまーす」
妻はのん気なものだ。先にコーヒーを口に運んでいる。私もコーヒーを飲もうとしたそのとき、妻の表情が一変したのを目にした。
「おい、どうしたんだ?」
「なに、この味…」
何か変な味でもしたのか? だがその予想は逆だった
「コーヒーなのにコーヒーじゃないみたい。飲んだ時にとても安心するっていうか、不安がなくなったっていうか。ブラックで飲んだのに甘い感じもするわ」
ブラックなのに甘いだと? 何か香り付けでもしているのだろうか。だが匂いを嗅いでもそれを感じることはできない。それ以前に、安心とか不安がなくなるという意味がわからない。
「とにかく飲んでみてよ。不思議な味がするから」
妻に言われるがまま、私はコーヒーを口に運んだ。これでもコーヒー通を自負している人間だ。味の良し悪しは理解しているつもり。果たしてどんな味がするのか?
そっとカップに口をつける。そして口の中にゆっくりと液体を流し込む。熱くて苦いものが舌に触れる、はずだった。が、それは私の予想を遥かに超えた、いや想像もできなかったものであった。まるで舌の上で小人たちが踊りだす、そんな賑やかな活気のある感触を覚えたのだ。さらにその液体をのどに流し込むと、今度はお腹の奥の方でもワイワイとした賑やかなものが騒いでいる。
味を確かめるためにもう一度その液体を口に含む。味は確かにコーヒーだ。けれどそこから湧き出てくるインスピレーション。それはまたも賑やかさをかもしだすものであった。
「な、なんだ、このコーヒーは…?」
私の中で、もはやそれはコーヒーではなかった。どうしてこんな味がするのだろうか? 不思議そうな顔をする私を見て、妻が小声でこうささやいた。
「うわさ通りだったわ。私は不安のない生活を送りたいと思っていたの。まさにそれにぴったりの味がしたわ。あなたはどうだったの?」
そういえば、このコーヒーはその人が望んだ味がするということだったな。ということは、私は先ほど味わった賑やかさを求めている。そういうことになるのか。
この時気づいた。今の私の店の状況がどうなっているのか。
私の店は、よく言えば落ち着いている。静けさとクラッシックの音楽が調和し、ゆっくりとした時間を感じさせる。だがそれは逆を言えばおしゃべりを楽しめる空間ではないという事。むしろ、誰かが言葉を発すればギロリと睨まれてしまう。そんな空気が漂っている。
私は休息のできる安らぎの空間を作りたかった。そこに力を入れすぎてしまったような気がする。そのおかげで、むしろ緊張感が走る空気を作ってしまった。
だが、この店は違う。音楽はジャズが流れており、窓も大きく明るい空間を作っている。そしてそこにはお客様の笑顔がある。決して派手ではない。むしろ空間としては落ち着きがある。しかし、ここに来るとおしゃべりをしたくなる。隣の客の会話がBGMにマッチして、耳障りになることがない。どうやったらその空間を作ることが出来るのだろうか?
「いかがでしたか?」
ふいにウェイトレスの女性から声をかけられた。
「マスター、面白い味のするコーヒーだったでしょう?」
あの文具屋も私の方を向いている。
「はい、今までにない味わいでした。不思議なコーヒーですね。どうやったらこんなコーヒーを作れるんですか?」
思わず口にしたが、これは当然企業秘密だろう。だが意外なことに、マスターは簡単にその謎を教えてくれた。
「この豆は私の知り合いから仕入れているんですよ。昔雑誌に載ったことのある方で、今はペンションをやりながらコーヒーの焙煎を半分趣味でやっているような人でして。でも、どうやら豆だけじゃこの力は引き出せないみたいで。入れ方にもポイントがあるんです」
そう言ってマスターは自分のコーヒーの入れ方を丁寧に解説してくれた。私もコーヒー通を自負する者。特に特殊な事をやっているわけではないことはわかる。だが唯一異なるのは、コーヒーを入れるときの気持ちだ。私はとにかく味にこだわっていた。が、このカフェ・シェリーのマスターはお客様のことを第一に考えている。
「なるほど、ありがとうございます」
と、とりあえずお礼は言っておいた。だがそれだけがこの店の人気の理由ではないはず。私がキョロキョロと周りを見回したのを悟ってなのか、今度はウェイトレスの女性が私に話しだした。
「うちのお店、他にもいろいろと見えない工夫はしているんですよ。たとえばあの窓際のテーブル付近。くつろぎを出すためにアロマを炊いているんです」
なるほど、なんとなく落ち着くのはそのせいだったのか。
「あと、色彩にも気を気をつかっているんです。基本的には白と濃い茶色で落ち着きのある空間をつくるんです。その他の装飾品は、原色系は使わずに淡いパステル色のものを基本としています。色合いも季節によって変えるんですよ」
うぅむ、そこまでは考えていなかったな。
「マイさんはカラーセラピストの資格も持っているから、色には詳しいんですよね」
あの文具屋のお客がそう付け加えた。
「へぇ、だからカウンターの横に二色のボトルが並んでいるんだ。確かオーラソーマとか言ったんじゃなかったっけ?」
妻が目を向けた先には、色とりどりの二色のボトルがたくさん並んでいた。
「はい。お店が終わった後には予約制でオーラソーマによるカウンセリングもやっているんです」
「わぁ、私も一度やってもらいたいな」
「はい、よろこんで」
今の会話の中に一つヒントを見つけた。こうやってお店だけでなく、そこにいる人に興味を持たせること。これもお客さんを呼ぶ秘訣の一つなんだな。ここのマスターも同じだ。なんとなく人として興味がわく。けれど私にはそんなものが何もない。私はコーヒーさえ美味しければお客が来ると思っていた。けれど、人にも魅力がなければお客は来ない。
「人に興味を、か…」
私のつぶやきが聞こえたのだろうか。
「それが商売をうまくいかせるコツだと、私の知り合いが言っていましたよ」
マスターがカップを磨きながらそう答えてくれた。マスターの話しはさらに続く。
「こんな話しがあります。お店に来る人というのは、大きく常連さんと一見さんに分けられます。その比率は二対八。常連さんが二で一見さんが八だそうです」
「ってことは、一見さんにどうやって買わせるかが商売の成功の秘訣ってことになるんですね」
私の答えにマスターは首を横にふった。
「いえ、これが面白いことに。売上の八割は常連さんがつくって、残りの二割が一見さんなんですよ。売上になると比率が逆になるんです」
「あ、それ二八の法則ってやつですよね」
文具屋のお客が横から口を挟んできた。
「はい。だからこそ、目を向けなければいけないのは常連客なんです。ところで常連客はどうして常連になっているのだと思いますか?」
常連客が常連になっている理由。そんなこと、考えたこともなかった。
「そりゃまぁ…よくそのお店に通っているからでしょう?」
それが答にならないのはわかっている。問題はどうしてよくそのお店に通っているか、だ。そこを突っ込まれるかと思ったら、マスターの言葉は意外なものであった。
「その通りです。さすがですね。よくお店に来てくれる。だから常連さんになってくれるんですよ」
「は、はぁ」
なんだか拍子抜け。だがマスターの言葉は続いた。
「そのためにも、魅力をつけないといけないと思っているんです」
「魅力、ですか?」
「はい。またここに来てもらいたい。そういう魅力です。でもそれって、商品だけじゃできないことなんですよね。私たち商売人が一番につけなければならないことだと思っています」
「具体的にはどのようなことなのですか?」
「う~ん、やはりその人が一番得意とするものを伸ばす。そこじゃないかな」
得意とするものを伸ばす、か。
「マスターはどんなことが得意なんですか?」
私はマスターの魅力について知りたいと思った。しかしこのストレートな質問はこんなふうに切り替えされた。
「今の私を見て、どこに魅力があると思いますか?」
マスターはちょっとおどけた格好でセクシーなポーズをしてみせた。中年の男がやると、ギャグにしか見えない。
「マスター、そこには魅力はないと思うけど…」
文具屋さんがするどくツッコミを入れる。
「なるほど、わかりましたよ」
「えっ、何がですか?」
私が突然「わかりました」なんて言うから、全員の視線が一気に私に向けられた。
「あ、いえ、マスターの魅力の話しです。マスターって人と話しをするのが好きなんですね。そしてその話しで人を喜ばせる。そうじゃないですか?」
「あはは、確かにそうだ。でも昔はそうでもなかったんですけどね。話しが好きと言うよりも、人を元気にさせたい。その思いが今の私をつくったんだと思います」
「その思いは私も同じです。私の場合は多くの人に休息の場を与えてあげたい、そう思ってあの店をつくったんです」
「だったら私と同じですね」
「でも、マスターは会話の才能があるじゃないですか。私なんてそんなことができない性分なんですよ」
そのとき、ウェイトレスのマイさんが何か言いたそうに笑いをこらえていた。
「マイ、おまえツッコミを入れたそうだな?」
マスターの言葉で、マイさんは耐えきれなかった思いを口にした。
「だってマスター、最初はとても無愛想だったんだから。知り合いだったら問題ないけど、初めてのお客さんと会話なんてとてもできなかったんですよ。私がどれだけフォローしてあげたことか。マスター、よくここまで成長したよねぇ」
それは意外だった。このマスターが会話をできなかっただなんて。
「あはは、昔の話ですよ。でも、どうにかしようと心がけていたら、自然に話もできるようになりました。また私の場合、お客様に恵まれていましたから。常連さんになってくれた人は、なぜだか波長の合う人ばかりだったんです」
「類は友を呼ぶってやつですよね」
文具屋さんが横から口を挟んだが、まさにそのとおりだと私も思った。
「そうか、そうなんだ。今の私は会話が少ない。だからそういったお客さんばかり集まるんだ。お客さんが悪いんじゃない、私が悪いんだ」
「はい。私もそこに気づくまではかなり時間がかかりました。けれど、マイはそこには気づいていたんだよな」
「うん。だから再三言ったじゃない。言葉で言ってもなかなか理解してくれないんだから」
マイさんはちょっと怒ったふり。
「まぁまぁ、ホント、ケンカするほど仲がいいってやつなんだから、この夫婦は」
「えっ、マスターとマイさんってご夫婦だったんですか?」
これにはびっくり。マスターはどう見ても四十代半ば、マイさんはまだ二十代だろう。
「まぁ年の差カップルってやつですけど。でも、私の方がマイから教えられることの方が多いですよ」
このマスターの言葉にもドキッとした。教えられることが多い。私は人から教えられることを拒絶していたんじゃないだろうか。妻から、周りからいろんな助言をもらっていた。が、それは自分のやり方や考え方とは違う。そう思って、その言葉を跳ね返してたような気がする。
しかしここのマスターは違う。年下の奥さんからの言葉を素直に受け取り、そして学んでいる。だからこそ今がある。
「ありがとうございます」
「えっ、突然どうしたんですか?」
私がいきなり頭を深々と下げお礼を言ったので、また周りがびっくりしてしまった。だが今の私の気持ちを素直に表すと、その言葉しか出てこない。
「いえ、今のマスターの言葉で私に足りないものを気付かされました。私は自分のやり方が常に正しいと思っていました。店の作り方にしろ、コーヒーの入れ方にしろ、経営のやり方にしろ。でもそれは間違いなんですね。もっと謙虚に、人の言葉を聞き入れないと」
私の反省の言葉に対して、マスターがまた意外な言葉を返してくれた。
「いえ、それは間違いじゃありませんよ。自分のやり方、考え方、それは正しいことなんです」
「でも…」
私の反論に、マスターはにっこり笑ってこう答えてくれた。
「今の自分の考えを変えるのではなく、今の自分の考えにより良いものを足していけばいいんです。そもそも、絶対的な正解なんて誰も知らないし、そんなものないんですから」
絶対的な正解はない。その言葉は衝撃的だった。自分なりの正解は持っている。けれどそれが必ずしも全ての人にとって正しいものとは言えない。けれど、別の人のやり方もまた正解でもある。
「だからこそ、私たちは人から学ぶんです。学んで学んで、その中から自分に合ったものを見つけ出し、そして改良を加えて自分の正解を見つける。それが成功の秘訣じゃないかと私は思うんです」
このマスターの考え方は大いにうなずけた。
「マスター、すごいですね。感心しちゃった。私、マスターのファンになっちゃうわ」
今まで黙って聞いていた妻が、目を輝かせてマスターを見てそう言った。
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
「でも、どうしてうちの人にそんなこと教えてくれるの?」
「どうしてって?」
「だって、うちの人はマスターのライバル店になるでしょ。普通はライバルにそんなこと教えないでしょ。ひょっとしてマスターってお人好し?」
「こらこら、なんて失礼なことを」
「あはは、いいんですよ」
「でも、確かにマスターってお人好しだよねぇ。自分で勉強したことを惜しみなくオレたちに教えてくれるし。いつも助かってるんだよねぇ。でもホントにライバルにそんなことを教えていいの?」
これは文具屋さんの言葉。
「ライバルだからって関係ないですよ。英語だとライバルは、あくまでも競い合っている宿敵のことを言うんですけど。けれど本質は、お互いにより良いものを目指して高め合うことのできる相手のことを言うんだと思いたいですね」
「だからこっちのマスターに商売の秘訣を教えているんだ。でもそんなことをしたらお客が奪われちゃうんじゃないの?」
文具屋さんの言葉も一理ある。というか、普通はそう考えるだろう。けれどこのマスターはその考えのさらに上をいくものであった。
「一時的にお客が奪われることはあるかもしれませんが。けれど、お互いの店でそれぞれのことを評価しあえれば、どちらのお客もそれぞれの店に通うでしょう。それに、その店ごとのマネのできない特色というのもあるし。お客も気分によってお店を変えることができるから、お得なんですよ。またそうやってできた常連客が次のお客さんを呼んでくれるし。これだと誰も損はしませんよ」
お互いの客がさらに客を呼ぶ。そんな理想的な状態、考えたこともなかった。
世の中は競争社会。どちらのシェアを喰い合うか。それが資本主義の世界。私はそんな世界にずっと身を投じてきた。
マスターの考え方は甘いのか? いや、そうじゃない。これからの社会に、この不況だからこそ大事な考え方じゃないか。
「競争よりも協力の方がいいと思いませんか?」
さらにこのマスターの投げかけは私にとっては衝撃的だった。確かに、競争よりも協力の方がいい。もうこれ以上人と争うのはまっぴら。そんな人達の憩いの場所を作りたい。だからこそ、私は喫茶店を始めたのに。私自身が競争をしてどうなる。
「はい、競争よりも協力の方がいいですね」
私はマスターの言葉に賛同した。
「確かに、このカフェ・シェリーには競争ってのは似合わないなぁ。なぜかここに来ると、見知らぬ人同士でも協力しあえちゃうんですよね。これが魅力でここに集うのかなぁ」
間違いない、私もまたこの店に来たくなったのだから。
「競争よりも協力がいいのは分かりました。でも、具体的に私は何をすればいいのでしょうか? 私がどこで何を協力すればいいのか、まだわからないんです」
今度はこの疑問が湧いてきた。
「あらぁ、そんなの簡単じゃない」
またまた妻が横から口を挟んできた。
「簡単って、何をすればいいんだ?」
「さっきマスターが言ったことをすればいいのよ。このカフェ・シェリーのことをお客さんに伝えるの。こんないい喫茶店があるわよって」
私に他の店の宣伝をやれと言うのか。と、思わず口に出しそうになった。が、それはまだ私に競争の意識があるということの現れだ。そこはグッと言葉を飲み込み、協力の意識を芽生えさせてみた。
「わかった。そうしてみるよ」
「じゃぁ私もお店の宣伝をさせてもらいますね。ちなみに宣伝するためにはどんなお店かを知らないといけませんから。よかったら詳しく教えてください」
マスターの言葉にホッと一安心。それから自分の店のことをマスターに、そしてみんなに語ることができた。そして語りながら気づいたことがある。まだ自分の店のコンセプト、休息の場というのがきちんと出来上がっていない。何が足りないのか、何をすれば良いのかが話しながら見えてきた。
気づけばもう辺りは暗くなり始めていた。
「やべっ、またカミさんに怒鳴られるわ。マスター、また来るね」
文具屋さんは慌てて店を出て行った。
「じゃぁ私たちもそろそろ」
「はい、またいらしてください。私も一度伺わせていただきますね」
マスターのその言葉は社交辞令ではなく、しっかりとした約束として受け止めることができた。だからこそ、私もこの店を、そしてこのマスターを信頼できる。それを強く感じることができた。
帰り道、珍しく私は妻に対していろいろと語ってしまった。今の店をどのようにしていこうか、どこに何を追加しようか、メニューをどうしようか、などなど。語れば語るほど、まだまだ改善点があることに気づいた。店ができた時点で、私はもう完成されたものだという気持ちが強かったことにも気づいた。
妻は私の言葉に対していろいろと自分の考えを述べはしたが、基本的にはしっかりと私の言葉を受け止めてくれたようだ。
「じゃぁ、明日私も早速手伝いに行くね」
「仕事はいいのか?」
「ま、わりと時間に自由はきくから。心配しないで。というより、あのカフェ・シェリーの夫婦を見ていたら、私もあなたのお店で働きたくなっちゃったの。ダメ?」
今まで私の店に無関心にも見えていた妻だったが、この言葉はとてもうれしい。心の奥で燃えるような思いがこみ上げてくる。今すぐにでも行動を開始したい。そんな自分に気づいた。
そして次の日。私は早速店の改善を始めた。妻も一緒だ。
落ち着いた雰囲気を、と思っていたが、あらためて客観的に見ると暗い雰囲気になっていることに気づいた。そこでライトの照らし方を変えたり、装飾品を明るめのものにしたり。ただし、カフェ・シェリーと同じように原色系は使わないようにしてみた。
朝一番のお客さんは、なんとあの文具屋さん。
「あれっ、なんか雰囲気が変わりましたよね。こっちの方がなんとなく居心地がいいなぁ」
その言葉に妻も私もにんまり。さらに私は文具屋さんとの会話を積極的に試みた。
「へぇ、マスターは経理もやっていたんですか」
「えぇ、あの頃は鬼のような人間でしたよ。おかげで胃潰瘍になってしまいましたけど」
「だったらちょっと相談に乗ってもらいたいんですけど…」
文具屋さんが言うには、個人商店のお客さんで経理に困っている人がいるらしい。税理士にお願いすれば、というアドバイスをしたけれどイマイチ乗り気ではないとか。
「なるほど。だったら私の知り合いにちょっと面白い人がいますよ。会計ソフトを扱っている人で。個人的にも会計のやり方のレクチャーをしているので、うまくいけばなんとかなるかもしれません」
そんな話しをしていたら、妻の方からこんな言葉が飛び出した。
「あらぁ、そんな人知り合いにいたの。だったら私の友達も困ってるから一緒に紹介してよ。早速電話をかけてみるね」
妻の行動は早い。その友達、すぐに店に来てくれた。文具屋を交えて話しを進めたら、今度はその友達が文具屋と意気投合。取引の話しまで始めてしまった。またそのときに別の男性客も近くにいたのだが、その二人の話しを聞いて横から割り込んできた。
「すいません、私はこういう者ですが」
名刺を見ると、なんと地元では名の知れたビデオレンタル屋のオーナーであった。
「うちのゲームコーナーに置いてあるクレーンゲームの商品。あれも一工夫したいと思っていて。さっきそちらの文具屋さんがオモチャ類の取り扱いの話しをされていたのを耳にして。ちょっと相談にのっていただけないでしょうか?」
なんだかあっという間に話しが膨らんできた。文具屋さんも思わぬところで商談が進められ、さらに周りにいた人もいろんな意味で助けられたようだ。一通りの商談が終り、文具屋さんが私にこう言ってくれた。
「マスター、この店って企業戦士の休息の場だったよね。でもこういう路線もありじゃないですか?」
「こういう路線といいますと?」
「ほら、さっきみたいにここに集う人同士がビジネスの情報交換をする。すると新しい取引が生まれたりするわけじゃない。それだったらオレ、ここにしょっちゅう顔を出しちゃうよ」
「あぁ、それいいですね。私もそんな場所があったらうれしいですね」
ビデオ屋さんも文具屋さんの提案に乗ってきた。なるほど、そういう路線もありか。これだとカフェ・シェリーとはまったく違う感じの喫茶店になる。正直なところ、休息の場という意味ではカフェ・シェリーには勝てないと思っていた。同じ土俵で勝負を挑むのではなく、違う土俵を作る。こっちのほうがいいに決まっている。
「それにカフェ・シェリーのマスターも言ってたじゃない。競争よりも協力だって。ビジネス情報の交換って、まさにお互いが協力しあって成功できるものじゃないですか」
「あなた、そうよ。あなたが会社員時代に持っていたノウハウだって活かせるじゃない。それ、グッドアイデアよ」
妻まで乗り気になっている。
「そうですね、その路線いただきかもしれませんね」
「かもしれない、じゃなくてそれでいきましょう。早速そのことをカフェ・シェリーのマスターに報告してきます!」
なんだかにわかに周りが動き始めた。そんな気がした。そして気づいた。自分ひとりの思いだけで突っ走ってはダメなんだ。自分の思い、これも大事。けれど、周りの人と一緒に情報を共有しながら、そのアドバイスをしっかりと受け止め、さらに発展させていく。これが商売をうまくいかせる秘訣なんだ。
最初から完璧なものはできない。人も情報も日々進化していく。それに対応できるよう、私も日々進化していかなければ。
それにしても、カフェ・シェリーとの出会いは衝撃的だったな。私もあのマスターみたいに、多くの人に有益な情報を伝えていかないと。
「ねぇ、コーヒー欲しいな」
閉店後、誰もいなくなった店で妻がそうねだってきた。
「めずらしいな、お前がコーヒーをねだるなんて」
「うん、なんとなくあなたのコーヒーが飲みたくなって」
よく考えたらこれも初めてのこと。今までは私が飲めと言わんばかりにコーヒーを入れてきた。コーヒーを入れると、妻がこんなことを言ってきた。
「あなた、ステキなライバルができたわね。お互いに助け合い高めあえる。こんないい人達を大切にしなきゃね」
「そうだな」
私の中の何かが、そして未来がライバルのおかげで大きく変化したな。
<ライバル、登場 完>