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山の巫(かんなぎ)

作者: 東 砂騎

 第6騎兵隊は、日本最北の諸島の一つに駐留する部隊である。

201島とナンバリングで呼ばれる大きな島には、1945年夏以降民間人が殆どいない。

気象条件の厳しい、ロシアに面した島々で、ひっそりと兵士達は国境防衛の任についている。



 あの夢が来る。毎晩のように見るあの夢が。黒田 つるぎ軍曹は、何度も何度も味わったあの夢がまた、普通の夢に滑り込んでくるのを知っていた。


 子供の頃通っていたスーパーで、いつものようにカートを引いていた。飲料コーナーにはずらりと2リットルのペットボトルが並び、彼女の美貴はそのラベルを睨みながらお茶を物色している。目移りして左右を見比べる度、肩口で切りそろえた栗色の髪の毛がその動きに揺れる。美貴はいつも、裏までラベルを読んでいた。

「おい、早くしろよ」

 派手な顔立ちをこちらに向けた美貴が、咬みつくように言った。

「別にいいじゃん。どうしてそういうことばっか言うの?」

 スレンダーな脚をデニムに包み、赤いシャツを着た美貴はいかにも気の強い女に見える。

「どうしてって。どれでもいいよ」

 言い返してはみるものの、結局いつも美貴の言いなりだった。かごに入れたパック肉、葱、白菜も全部彼女が選んだものだ。大体、美貴は料理も買い物も、自分で全部済ませてしまうタイプだった。

「俺、酒買ってくるから」

「分かったー。じゃ、いっつもの」

 こちらを見ずに美貴が言う。彼女が飲むのはピンクのジーマ。自分の為に、いつもビールとスミノフを買い足す。

 そして、カートを離れてふっと振り向くと美貴はいない。


 スーパーの中は、蛍光灯が切れかかっているかのように薄暗い。商品も店内放送の音楽も普段通りにそこにあるのに、人は誰もいないのだ。心の中に、根拠の無い感覚的な不安が芽生える。

 足早に飲料コーナーに向かう。菓子コーナーにも化粧品コーナーにも美貴はいない。がらんどうなスーパーに、妙に明るい音楽だけが響いていた。


 無音ではない静寂。いない。いない。いない。

大事な何かを忘れているような不安感。まるで身体のどこかを失くしたことに気付かぬかのような。


「美貴ーっ」


 おそるおそる美貴を呼ぶ。レジにも、店のどこにも、人はいない。背筋に氷が滑ったような冷たさが走った。自分以外の、誰もいない世界。


  不意に 遠くから 草の匂いが する


「黒田」

 重苦しい偏頭痛を感じながら、黒田は意識の表層に出た。左のこめかみがひび割れた鉛のように痛む。ぼんやりする視界を無理矢理拡げた。頭痛と、ほっとする感覚を同時に覚えた。

「大丈夫?」

 感情を現さない表情で、女が黒田を見下ろしていていた。見慣れた白く整った顔。

「・・・准尉」

 ソファに沈み込んだ身体がやけに重たい。

 自販機コーナー兼休憩室には他に誰もおらず、妙に蛍光灯はほの暗い。光の無い暗い海。島の山の黒い影。准尉を見上げると、感情の読めない琥珀色の瞳で黒田を見ている。その顔には濃く暗い影が淀んでいた。

全体的にグラマーで質量感のある身体を山岳部隊用ジャケットに包み、黒髪はいつも一つにまとめられていた。派手さは無いが、整った顔立ち。生っぽい肌は白く、吸い付くようだ。人並みはずれて大きいわけではないけれど、目尻の切れ上がった弓なりの目は造形が美しい。

 黒田は、准尉から目を逸らし、額に浮き出た脂汗を手の甲で拭った。無機質な視線は何故か自分を見通しているように感じる。

 心の奥に淀んだ不安感。繰り返す夢。

「水」

 白い手がペットボトルの水を差し出した。

「え」

 どんな顔をしていいのか分からぬまま、黒田は准尉を一瞥した。表情を変えぬまま差し出された水を、無表情に受け取る。

「喉、渇いたでしょう」

 わずかに細められた琥珀色の瞳が鈍く光る。その瞬間初めて、黒田は張り付くような喉の渇きを知覚する。

「・・・でも、これ」

 受け取ってしまってからようやく、黒田は准尉のしたいことを理解した。

「別にいい。間違って買ったから」

 嘘だ。それもとびきり下手な。准尉はさっと踵を返した。

「1915に、本部前に集合」

 簡潔にそれだけを言い残して彼女は足早に去っていく。

「・・・ありがとうございます、これ」

 去っていく後姿に、その声が聞こえたのかは分からない。でも、准尉なら必ず聞こえたと、黒田は思う。准尉は感覚が鋭い。気持ちが、悪いほどに。



 准尉が異動してきたのは今年の春先だ。売店のレジ打ち以外に女のいないこの島に、女性の軍人が配置されることがいいことだとは黒田は思わない。そもそも、山と浜以外が無いこの島の任務はハードだ。1日1〜2回の山間パトロール。山岳戦闘訓練。大の男でも音を上げる、厳しい気象に高低差の激しい地形。

 場所によってはクライミング、沢登を含む危険なコースもある。何故准尉がこんな島に来たのか、隊員は誰も知らない。

 女と男の間にある体力の壁は圧倒的で、彼女はことに「特務准尉」という速成の士官だ。そんな女に何ができるか、というのが黒田だけではない男性隊員の見識だった。

 その予想をよそに、彼女はどんなコースにでも挑んだ。単独で、ペアで、島で一番難しいコースにも。


———まだ、誰一人として准尉がへばっているのを、見たことがない。


 先頭が息を切らしても、准尉の呼吸には乱れ一つなかった。そうなると、逆に島の人間は准尉を気持ち悪く思うようになる。

 時折、准尉がパトロールのコースを決める小隊長に意見を具申する時がある。不自然にコースが変更されて、翌日そのコースを通ると大きな落石があったりするのだ。だから、准尉は気味悪がられている。

 島の唯一の女性軍人であろうと、誰も彼女に近づこうとはしない。黒田軍曹も例外ではなかった。


 ベッドに座ってナイロンの紐を思い切り引き、コンバットブーツの編み上げを締め上げる。保温用のフリースのチャックを閉め、その上からごわごわとしたジャケットを羽織った。休憩時間から、瞬間、気持ちが切り替わる。

 厚手のナイロンのズボンに、モスグリーンに黒の切り返しが入った山岳部隊専用ジャケット。北部国境警備隊にのみ支給されるこのジャケットは、登山メーカーに特注して作られたものだ。国防軍のものとは全くデザインの異なる、アクティブなデザインはこの部隊の隊員の密かなプライドを満たしていた。薄手のネックウォーマーを襟の内側に着、山岳用の厚手の戦闘帽を目深に被る。黒いナイロンのベルトを締め、小さなバックパックを背負った。

 そしてチョコレートに、ステンレス製のボトルに入ったスポーツドリンク、それに電波発信機、オイル式のカイロ。どんな季節であろうと、この島の夜は寒い。

 その環境に適応し、骨に筋肉と皮だけだった、どちらかといえばスリムだった黒田の身体は、4年間の間にがっしりと筋肉と脂が乗ったスタミナ体形へと変化していた。スキー選手のような足腰周りは、ズボン越しにも張っているのがよく分かる。黒田だけではなく、この部隊の人間は、大抵こういう体形になってくる。

 頭の中の装備リストをチェックし、黒田は鏡をのぞいた。机の上の鏡に映した自分の顔の髭には剃り残しはない。

「じゃあ、行ってきます」

 同じ部屋の先輩、パンツ1丁の早岐軍曹に声をかける。バラエティーで大笑いしていた早岐は、いかにも田舎のお人よしといった顔を向けた。

「おう、気を付けろよ」

 はい、と黒田は少し笑って返事する。ニコニコとしたあばただらけの顔が特徴的な早岐は、神経質な黒田にとって有り難いおおらかさの先輩だった。それに、何も喋らない黒田のことをよく分かってくれる。

 准尉といるより、ずっとずっと心地よい。

 下士官10居室のドアを閉め、黒田はパトロールへ向かう。あの女と過ごす時間の始まりだ。



ひかりごけのように、頼りない光が眼前に揺らぐ。小さなザックに縫い付けられた、1センチ角の蛍光シールの薄黄色い光。前を歩く准尉の、それは儚い命の灯火のようだ。

 月明に、わずかな女の影が移ろう。どこまでも生い茂る木々の下、人間の影は小さい。黒々と空を覆うように腕を伸ばした、木々はまるでこの島の主だった。濃密な緑は、この島が日本軍の基地であった時代も、ソ連軍の占領下であった時代も、変わらずここを支配し続けている。

 生気を放ち、人を呑むような奇妙な迫力。神を信じない、とはっきりと言い放つ黒田でさえ、畏敬を感じずにはいられない。山々の合間を縫うような細い砂利道は、人さえいなくなればすぐにでも山に埋もれてしまうだろう。

 半分に翳る月を刺すような長い長い枝。静寂の中に、時折風にそよぐ葉の音だけがざわめく。准尉がパトロール中に言葉を発することは滅多にない。落石や足元の崩れている時などの必要以外、口を利かないのだった。それでも、不思議なほど黒田のペースに合わせてくる。

 足が痛い日も、調子のいい日も、その時無理のないペースで先導するのだった。長く組んでいれば、なんとなくペアがどの程度の調子なのかは分かるようになる。しかし、准尉と組んでからは数ヶ月も経っていなかった。

 それがまた、彼女を気味悪く感じる原因であった。


———それに、時折その存在を全く感じなくなる時がある。影が闇の奥に溶けるように、准尉の存在感が消えるのだ。目の前にいるのに、そこにはいない。森に、山そのものに、変化してしまったかのように。夜のパトロールのたびに、そんな不安感を黒田は抱いていた。

 山の中腹を横切る砂利道は変化に乏しい。べた塗りのような影は立体感を奪う。だから、手持ち無沙汰になってこんなことを考えるのだろう。黒田はそう思っていた。というより、思い込んでいたというほうが正確だった。

 准尉という存在が持つ異様さ、内包した底知れなさに理由をつけ、レッテルを貼ることで安心しようとする。それが正しくなくても、それ以外に安心する手段がなかった。

目を上げると、ツクツクと木の生えた山並の向こうに、光のない海原が横たわっているのが見える。四季を通して暴風の吹き荒れることの多いこの島の、貴重な穏やかな夜だ。

 月明かりに青白く揺らぐ、准尉の丸めた黒髪から、時折よい香りがこぼれる。少し蒼味がかった黒田の瞳孔の前に、それは誘う様に揺らいだ。


 准尉でなければ。

 その黒髪を指に絡め、弄んでいたかもしれない。准尉でさえ、なければ。儚く切ないその香りが誘うまま、背中に腕を回し、思うままにしていたのかもしれない。だが、その妖艶さが、どことなく冷たい容貌の奥に潜む生々しさが、逆に黒田を遠のけていた。

 それは恐ろしい暗渠に、黒田を引きずり込む罠のようにも感じられる。そうでなければ、何故これほどまでに魅入られるのだろう。背負った銃の冷たい重みだけが、黒田の感覚を現実と繋ぎとめていた。さびしいひかりごけの光は黄泉の道しるべのようだ。


 准尉は死者のようでありながら生々しい。生々しいけれども、まるでその眼は死者のようだ。だから黒田は准尉が嫌いだった。


 霧の中を泳ぐ影は、湧き出るように不規則に揺らめく。時折灯台の光が届く場所では、怪物のような影が霧に映った。

 正規のルートから外れた、どこが道かも知れぬ道を准尉は進んでいく。木々の間に満ちて這う霧の湿気が全身にまとわりつき、黒田はいつもの何倍も汗をかいた気がした。


 霧に溶けて消えていきそうな先導者の後姿。正規のコースより分岐し、山を真っ直ぐに上るこのルートは、恐らくこの島の人間の誰も知らない。それでも迷い無く准尉は進んでいく。

 知っているかのような——いや、熟知しているかのような足取り。


どこへ行くのか。


 なぜかそれを聞くことすら億劫で、黒田は黙ってぼんやりと霧の海を泳ぐ。

 振り向いた准尉の顔が、塗りつぶしたように真っ黒だったら。上の空で、そんな事を考えた。自分の集中力が異常なほどに低下しているのも、他人事のように感じる。酩酊したように、頭の中に靄がかかっている。霧が頭の中にまで侵入したのだろうか。

 無口な木々の間をすり抜け、自分の息の音を聞きながら枯れた沢を遡る。


美貴。

 取り留めの無い思考の中で、何故かその名前は強く浮かんだ。

  美貴。ミキ。みき。

        会いたい。

 美貴。それは懐かしいなまえ。その一文字一文字がいとしくて堪らない。

 この小さな世界にはいない宝石。お揃いで買ったプラチナのリング。一緒に歩いた札幌の町。温かい特製ドリアの味。

みき。やさしいこいびとのなまえ。

美貴。みき。ミキ。みきミキ美貴みき美貴ミキミき美キ


亜麻色のよく手入れされた髪。明るい茶色の瞳。

細くて、磨かれた爪。気の強い眼差し。

でも気が利いて優しくて、わらうとかわいいんだ

頭の中を美貴が埋め尽くしていく。みきがぞうしょくしていく。電撃のように酷い頭痛がした。


背負った銃の冷たい感触が、首筋に触れる。


——美貴って誰だ。

 黒田は一瞬、全身の血液が抜けたような寒気に襲われた。不意に目の前の霧が晴れたような感覚。ざーっという耳鳴りの音。

——おれには、瀬戸美貴なんて女はいない。そもそももう2年も、女がいない。


 おれのなまえはくろだつるぎ?それとも、きせはるき?


 自分の荒い息が、どこか遠くから耳に響いた。


 きせはるき。黄瀬春樹。工兵小隊所属、軍曹黄瀬春樹。それは半年前、事故で亡くなった隊員の名前だった。


「そんなに耳元で叫ばれていたら、頭も痛くなるでしょう」

 振り向いて黒田に手を差し伸べた准尉の顔は、青白い仮面のようだった。黄瀬軍曹は、雪庇を踏み抜き、10メートル下の岩場に転落し殉職した。それは結婚間近の悲劇だった。

「もうすぐだから。もうすぐ、あなたの未練を解いてあげられるから」

 この先の岩場に、黄瀬軍曹は激突した。山という圧倒的な存在の前に、人はたやすく命を落とす。

「ここで待っていなさい」


 ぐるぐると天地が回るような感覚がした。准尉に言われるまでも無く、黒田には今動く力は無い。黒く狭まっていく視界の中で、どうにか手を付いて身体を支えるのが見えた。岩に凭れて、ゆっくりと黒田は目を閉じる。


——オイ。

 霧の奥から、そっと誰かが耳打ちした。乾いてささくれた唇から、苦い塩の味が入り込んでくる。生温い液体が、下瞼から溢れて落ちていた。

 舌の奥がきゅっと詰まってせり上がるような苦しさを感じた。それが黄瀬の感情なのか、黒田の感情なのか、分からない。

 みきにあいたい。

 

 人ならざるものの、ひととしてのこえ。強い感情が、「それ」を捜し求めるあまり、黒田の中に根を張っていた。


「黒田軍曹、声が、聴こえるんでしょう」


 戻ってきた准尉の冷たい素手が、黒田の手をそっと握る。霞んだ視界の中で、わずかにその白木色の顔を捉えた。黒田の手中に、冷たい何かを准尉は握らせる。手袋越しに、その感触を確かめた。懐かしい感触。捜し求めていたもの、という確信。

「・・・美貴」

 それは、彼女と交換したリングだった。事故の衝撃で、懐中から落としてしまったそれ。なけなしのボーナスをはたいて買ってくれた大事なリング。

——ようやく帰れる。美貴の許へ。

「あなた、本当は、聴こえるのに聴こえないふりをしていた」

 認めたくない、いや、認めてはならぬ事実を准尉はいともたやすく暴いてしまう。その口調には、責める意図など微塵も無い。山から下る冷気がふとその流れを強めた。

 低く、風の音が混じったような声が、黒田の唇から漏れる。


「ようやく、帰れる」


 それは、黒田でも、准尉のでもない声。

 指輪を握り締めながら、黒田は思い切り霧を吸い込んだ。頭痛はしない。執着は、もうどこにもない。涙だけが、まだ少し汗に混じって滴った。

「よく、今まで耐えたね。お疲れ様でした」

 闇夜のように優しい准尉の声が、黒田の芯に染み入る。意地やプライドの奥へ。北の最果て、山の霧は晴れない。死者と生者の狭間に、二人の人間が佇んでいる。


 黒田軍曹は、現実主義者だ。この世は物理で出来ている。

そう断言していた。今までも、これからもずっと。

 だから、白神准尉が嫌いだ。気味が悪くて得体が知れなくて、非科学的だからだ。オカルトなんて所詮人の心の迷いに過ぎない。

 それでも、黒田は封筒を投函する。あの指輪と手紙を入れた封筒。宛先は、瀬戸美貴様。


黄瀬軍曹との、約束を果たさなければいけない。


7年くらい前の作品ですがまるで成長していない

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