月見人達
つきみるひとたち
ルナシーとは、どんなものかと理解することはルナシーへ近づくことだ。深淵を覗き込む時、深淵がこちらを見返してくるが如く、ルナとの縁が引き寄せられやすい。自らもルナシーへと成る事も多い。何故なら、ルナとは狂気でもあるからだ。
ルナシーとは文字通りルナを見る者のことだ。では、ルナとは一体何なのか。総括して言うのなら、ルナとは文字通り月である。勿論、概念的な意味でのだ。古来から人は月に色々な幻想や概念を与えてきた。
月へ行ったもの、月からやってきたもの、月からもたらされるもの。月とは一つの異界であり、精神に干渉してくるものである。月に狂気を見出す国は一つではない。月に魔力を見出す地域は一つではない。月に神性を見出す民族は一つではない。月とは夜のものであり、常世のものだ。
ルナもまた、どちらかといえば魔性のものである。妖怪とは、ルナの一種である事が多い、と言えばわかるだろうか。そして、ルナシーとは人間のみが成るものではない。意思持つものならば何者にも成りうるものである。何故なら、神は人のみをえこひいきしているわけではないからだ。
ルナとルナシーがそう呼ばれるよりも昔から、それらはあった。そうした人々は魔術師や神子、あるいはただの狂人として扱われた。特に力のあるものは神と呼ばれることもあった。多くの者に見入られたルナは力を強め、世界の理に爪痕を残した。それが今も残る魔術と呼ばれるものの正体である。ルナは世界法則、理をねじ曲げることのできる唯一のものである。
何故、ルナが理を曲げられるのか。それは。ルナが理よりも上位に位置する概念だから、ではない。ルナとは、理に対抗するためのものだからだ。それも、この世界を作り出した創造神によりもたらされたものえある。概念強度としては、理とルナは同等、ということになる。言うなれば、ルナは鍵である。特定の理に対してのみ、それを改変することができる。対応しないものに対しては大した効力を持たない。
ルナの形や能力はルナシーの望みと思想に依存する。或いはもっと単純に、その心に寄り添って存在すると言ってもいい。そのメカニズムや変換方式には色々と理屈をつけようと思えばつけられる。ルナシーの理想や抑圧してきたもの投影である、とか。内的世界の外部への侵食である、とか。そのルナシーの影(心理用語としての)が独自の形を得たものである、とか。まあ別にどんな理屈でもいいのだ。そこは肝ではない。
ルナは、ルナシーの思い込みによって制約を受ける。それは大抵、弱点や不可能な事として現れるものだが、時には利点として現れることもある。それが理屈に合わない、ということだ。ルナシーがルナの法である。ルナがルナシーの想像を越える事は出来ない。そしてルナの挙動にとってルナシーの思い込みは更に強化される事も多い。そうしてルナの性質はどんどん先鋭化されていく。
ルナはルナシーに観測されずして現世にその存在を保つ事は出来ない。だから、ルナシーを失えばルナも消えることになる。稀に、他者にそのルナを譲渡し、受け継ぐルナシーも存在しないではないが。そもそも、ルナとはルナシーの為にあるものなのだから、ルナシーが必要としなくなれば存在意義を失う事になる。ある意味で、共依存の関係にも成りやすい。
ルナにルナシーとは別の、固有の意思があるのかどうかは、よくわからない。ルナが独自の意思を以って動いているように見える事自体は良く観測されている。だが、それがルナシーが何かを投影した結果なのか、そもそもルナに意思があるのかはわからない。いわゆる、ロボットに心が宿るのか、という問題にも近い話かもしれない。
ルナに宿る意思がルナシーの心に存在するペルソナの一つだったり、イマジナリーフレンドに近いものだったりするケースは少なくない。つまり、ルナシーの内なる声の具現だ。或いは、その記憶の中の誰かの模倣である場合もある。どの人格の基となったものは、つけようと思えば幾らでも理屈が付けられるのだ。そもそも、元となったルナシーの意思だって、何かの規則によって動くプログラムではないと、誰に証明できるだろう。
この世界は虚構だ。基となる世界、ルナシーは居るにしても、彼女の綴った虚構である事に変わりはない。虚構でない世界があったとして、その世界の俺とは一体どのような存在か、わかったものではない。俺という人格は、この世界が物語だと知り地の文を読むようになったことに大きく影響を受けている。物語の世界でない俺がいるとすれば、それは地の文を読む事もないはずなのだから俺とは異なる人格をしているはずだ。それこそ、知る前の俺の様な。それは、俺とは別の人間だ。つまり、俺という人格は、物語の中にしか存在しえない。この世界が物語である事を知った時から、俺は物語の中にしか存在できなくなったのだ。