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星見の会

作者: ナオユキ

 始業式の日。春の暖かさにはまだ程遠い四月。通学路は一ヶ月ぶりに活気をとりもどす。たくさんの学生が冬眠から覚めた春の生き物のようにいっせいにねぐらから起き出してくる。


「おはよう」

「ひさしぶりだね」

「冬休みはどうだった?」

「テストいやだね」

「また同じクラスだといいね」


 吐く息は白い。それでも、暁の太陽は高くなり始めている。積もった雪は道端に追いやられ、下水溝にとけゆくのを待つばかり。朝の風には心をうきうきとさせる自然の微妙な香気が混ざり、やさしく肌にふれていく。


 新山友子は高校二年生になった。彼女には仲の良い友達が三人いた。ミチ、スナヤン、ヨーダである。彼女自身はふつうにトモコと呼ばれていた。四人は一年生のときに知り合い、以来はずっと友達グループとして付き合ってきた。


 高校の校門で、友子はミチとヨーダに出会った。


「元気だった?」

「あたし達はね。ヨーダとは冬休み中あきるくらい会ってたし」

「いいな。家が近いと」

「ミチが勉強をしにうちにくるの」

「そうそう。でも、あたしは何もしないでゲームしてばっかだった」

「私も行きたかったな。勉強会」

「だめだめ。トモコまできたらもう遊んじゃうから」

「スナヤン、まだかな?」

「あいつはいつも遅いじゃん。あたしらの中じゃ一番家遠いし」

「はやく入ろう。寒い、寒い」


 友子たちの会いたがっていたスナヤンが登校して来たのは生徒のなかで最も遅い時刻だった。四人がそろったのは式を行なう体育館でだった。


「おはよう。みんな」

「おはよう。よかったね、遅刻しなくて」

「うん。あぶなかった」

「スナヤンはのんびりしすぎだよ」

「宿題、終わった?」

「うん。終わった」

「勉強の方はのんびりしていないからなぁ。ずるいよね」

 

 スナヤンという少女が入ってくると、三人の意識は自ずから彼女ひとりに集中した。彼女には自然と人をひきつける魅力が備わっていた。彼女を意識しているのは大の仲良しである友子たちだけでなく、その辺の生徒でも気軽にあいさつを交わしていた。


「おはよう。大倉さん」

「大倉さん。久しぶり」

「よぉ、大倉」


 スナヤンこと大倉砂弥おおくらさやは、たくさんの生徒達に好意をもたれていた。彼女は美人であったし、性格が朗らかで、誰にでも優しかった。友子はそんな友達のことを自慢に思っていた。


「あいかわらず人気だな」

「うらやましいよね」


 ミチとヨーダはその様子がまぶしそうだった。それでも、スナヤンを嫉妬してるとか、腹を立てているとかではなく、彼女らも自分と近しい心境なのだと友子には分っていた。


「そういえば、私たち、クラスどうなの? 廊下の掲示板見てなかった」

「四人ともまた同じだよ!」

「本当? やった!」

「あたしは新鮮味がなくてがっかり」

「これで安心だよね」


 学校が始まるのはいやだったが、友達と過ごせる時間を思えば友子にとってそんなのは物の数ではなかった。この四人ならまた楽しい一年が過ごせる。友子はそう確信していた。


 だが、実際はどうであったか。


 新学期早々、四人に事件がやって来た。


「えっ? ヨーダ、男子に告白されたの?」


 ヨーダこと陽田冴ようださえは真っ赤になってうなずいた。


「だれだれ?」

「あの……窓際の…三番目の……」

「ええっ! あいつって今度はじめて同じクラスになったばかりじゃん」

「でも……一年生のころからずっと…」

「ヨーダが好きだったの? うそみたい!」

「ねえ? このチビなヨーダにさぁ」

「みんな。それはひどいよ」

「いいよ、スナヤン。みんなの言う通りだよ。なんで私なんか……」

「たで食う虫も好き好きって言うしね。ま、頑張りなよ!」


 ミチがドーンと豪快に背中を叩いたのでヨーダはむせこんでしまった。いきなりの事に戸惑っていた仲間たちも話をしているうちに、友達の前に突如現われた桜並木をいっしょに歩いている気分になり浮かれ出してきていた。


 この時は友子も青春の一ページくらいにしか考えていなかった。他の二人と同じく笑ってヨーダを応援していこうと心に決めていたのだ。


 そうならなかった事の次第を次に述べる。


 友達のすすめを受けて、ヨーダは告白相手の男子とお付き合いをすることに決めた。進級第一号のカップル誕生という報道はすぐに知れ渡り、名実ともにクラスの話題の中心点となった。


 恥ずかしがりやのヨーダはそのことを恐ろしいことのように尻込みしていたが、後方支援についた友子らの協力によって耐えられていた。こうして初々しい恋仲同士の二人は、休日にはデート、愛情弁当、並んで登下校など、それらしい行事を重ねていった。


 さて、凍てつく雪もいまは昔、獅子奮迅の活躍をしたストーブもお倉で休み、朝日に屈せぬ眠りが春を告げる、たんぽぽ達のこけら落としの折りであった。言うに言われぬ不満が友子の腹を転がっていた。


 ヨーダが鼻について仕方がないのだ。彼女は恋人ができて変った。誰もがそう明言した。おどおどした所がなくなり、自信がついた様子だった。一言でいえば態度が大きくなった。その変わり様が友子の気に入らないのだった。


 さらに気に入らないのは、最近、友達付き合いが悪くなってきたことだ。恋人ができれば当然、友達との時間を割いてそっちに行くだろう。それは自然なことで、理解できる。しかし、自分らの誘いを断りほかの女子達と遊びに行くのはどういうわけか。


 それまでヨーダはその性質から、友子ら気の合った一部の女子としか関わらず、その寵愛を受けていたのだ。だが、恋人を作ってから、クラスのほかの女子達から一目置かれ始めたのだ。


「あの大倉さんでさえ彼氏がいないのに」


 そういってヨーダをおだてるのだった。だからといってヨーダがスナヤンに対して自分を誇ったことはなかったが、悪い気がしていないのも事実だった。スナヤンは平然としていたけれど、友子は、そんな風潮がまるでたまらなかった。


 また、ヨーダの話振りにも変化はあった。前までは三人の話題についていくことしかしなかったのに、今では人の話しているのを横からかっさらい、率先して話すのである。話題はおおかた彼氏のことなのだが、最後には必ず、


「みんなも早く作りなよ」


 で締めるのだ。


「うん。いつかね」

「そーだなー。あたしも考えないといけないな」


 スナヤンとミチはこのように笑ってその場を流すのだが、友子はいつも何も言わなかった。


 あの腹の立つおせっかいを言った時のあの顔といったら! あれが本当に前年度までのヨーダと同じ人間だろうか? 幸せほくほく全開のバカ面に一発おみまいしてやりたい、と頭の中で暴れている友子だった。


やがて、ひた隠していた友子の内心の思いは行動に現われるようになった。


 まず、ヨーダとは全然会話をしなくなった。彼女の話はあからさまに聞かないふりをし、彼女の直接の呼びかけにも返事をしなかった。廊下ですれちがってもあいさつをせず、ミチやスナヤンとは遊んでもヨーダが来ると無理やりその輪から抜けた。


 その様子はあんまりにもわざとらしく、ヨーダ本人ならずとも異常な感じを受けた。それでも、平穏の崩壊を防ぐためしばらくは穏便に看過することにしていた。


 だが、ついに見過ごすわけにはいかない決定的な出来事がもちあがった。


 友子がヨーダとは遊んだり関わったりするなと触れ回りだしたのだ。それも、グループ内のみならず他の生徒にまで、


「あいつみたいなお気楽女と話すのは時間の無駄だよ」


 と言って、ヨーダを孤立させようとするのだった。


 さすがに腹にすえかねたヨーダは友子に一対一で問いつめた。


「どうしてこんなことをするのよ」

「何がよ?」

「それはこっちが言いたいよ! みんなにあんなこと言うのはどうして!」

「馬鹿じゃないんだから、代名詞じゃなくて名詞ではっきり聞きなさいよ」

「嫉妬? 私に彼氏ができて……何よ、その苦虫をかみつぶしたような顔は!」

「はっきり言うとね! 気持ち悪いのよ、あんたが!」

「気持ち悪いって! どうして?」

「さあね。とにかく、あんたが気持ち悪くてしかたないのよ!」


 話し合いは決裂した。そして、彼女らの関係もまた断絶したのだった。


 その後も、友子はヨーダに対する嫌がらせをやめなかった。そのために、多くの生徒から反感を買っていた。


 そんな様子を、ミチこと石田美智子は大いに心配していた。


「やめなよ、トモコ。みんながあんたをなんて言ってるかしってるの?」


 親友の親身な助言も、友子は聞く耳をもたずはねつけた。とりつく島もない友子にミチも距離を置くようになった。暴走する猛牛は群からはぐれ一人になりつつあることに気づいていなかった。


 そして、とうとう事態はヨーダとその彼氏の離別という展開を迎えた。実は近頃ふたりの間が不和になっていた。それが、親友による誹謗中傷が影響していなかったとは言い切れない。友子の呪いが成就した形になったのだ。


 この事実も、すぐに広まった。


「聞いた? 陽田さんたち、破局したって」

「新山のせいじゃない?」

「絶対そうだって。ゆるせない」


 ミチは友子を呼び出し、心意を聞きたいと思った。


「トモコ、これが狙いだったの? 全部こうなるように仕組んでいたの?」

「………………」

「ヨーダ、すごく落ち込んでた。しばらくは学校にも来れないって」

「………………」


 友子は一言も言い返せずに立ち尽くしていた。


 それからというもの、友子はまったく孤立してしまった。いや、自分の方から孤立しにいったのかもしれない。以前までの猛牛のような姿は一転、攻撃を受けたダンゴムシのように自分の殻に閉じこもってしまったのだ。


 そして、今度は反対に、友子は同級の生徒らから意地悪を受けていた。


「新山友子、追放ーッ!」

「追放ーッ!」


 これが一時期クラス内で大流行した言葉だ。彼女へのあいさつはすべて「追放」になったことがあった。


 四面楚歌。友子のとなりにはミチもヨーダもいなくなった。ただひとり、スナヤンだけは彼女を悪く思っていないようだったが、周りに流される形でおおっぴらな行動には出られなかった。


 こんな状況でも、友子は頑固にも休むことなく登校し続けた。精神を強く持ち、勉強にうちこんだ。それなのに、テストが過ぎるごとに成績は下降していた。


 転落一途の成績表に、親も沈黙を破った。


「友子。何か困っていることでもあるのか?」

「……………」

「ともちゃん、がんばってるよね」

「だったら、これはどうしたことなんだ」

「……………」

「もう少しチャンスをあげてあげたら」

「チャンスも何も、これよりも下がったら取り返すのはそうとう難しいぞ」

「ともちゃんの努力も認めてあげて」

「友子。三年の大学入試には二年生からの下ごしらえが大事なんだぞ」

「……………」

「友子。来月から塾に行きなさい」


 こうして友子は、学校のすぐ後には塾へ行く生活が始まった。しかも、その塾には友子のほかにも同じ学校の生徒も所属していて、例の話はすでに浸透していた。友子はここでも息の安らぐ場所を見出せなかった。

 

 さて、時は経った。あの破綻から状況は好転する気配すら見せず、夏休みに突入してしまった。あいかわらず友子は孤立していたし、塾で忙しかった。遊ぶ友達はもはやすっかり失ってしまって、勉強する時間はたっぷりとあった。


 友子は机にむかって勉強に集中している。開いた窓からはじゃぎじゃぎいう騒々しい虫の声と、生暖かい風がゆるゆると入ってきて汗ばむ衣服を乾かしていく。机の上には夏休みの宿題と塾の課題が重く乗っていた。


 友子もまたすっかり変ってしまった。性格は陰気になり、表情も消え、とりつかれたように勉強ばかりしていた。そのおかげで成績はもちなおしたが、親の命令で塾通いは続けていた。休み中はどこにも出掛けず、課題の消化に努めていた。


 ちょうど彼女は、ページ最後の証明問題を解き終わった。ひとまずペンを置き、肩をほぐすことにした。疲れた目を外の夜空に泳がす。すると何かがピンときて、カレンダーの日付を確認した。そこの数字を眺めていると「あー」とかすかに思い当たった。

 

 学校で配布された夏休みの予定表で確認してみると、予想通り、今晩は「星見の会」が高校の校庭で催されるとのことだった。科学教師の松村先生が指導にあたり生徒および市民の希望参加者は天体観測をするのだそうだ。


 もとより友子の趣味ではなかった。しかし、この時はなぜか、友子の注意を強く引いた。少しの間だけ、紙とペンのにおいから離れたいと思った。


 電気を消し、何も持たずに、夏の夜へ出かけていった。


 高校の校庭にはすでに参加者が集まっていた。ふたをあけてみれば学校の生徒よりも地域から参加したと思しき親子連れや物好き連中の方が多いくらいだった。


 少し待っていると、マイクをもった男性が出てきた。


「みなさん、こんばんは。本日はお日柄もよく…極上の月夜です。教師の松村公太郎です。これから短い時間ですがどうぞよろしくお願いします」


 ぱちぱちぱち……と拍手。


「これだけの人数が参加して頂いて感謝感謝でございます。うちの学校の生徒も予想より多く参加してくれてうれしい限りです」


 小さな笑いが起こり、消えた。


「みなさんにはこちらに用意した星座早見表を配布したいと思います。星見に便利でありますので、各自、取りに来てください」


 うす暗い中を棒立ちになっていた影たちはしずしずと列を作り出した。友子も影の一つとして列にならんだ。


 それは、青い板に砂粒のような星が無数に散りばめられたものだった。大小さまざまな星が線でつながれて星座の見取り図にもなっていた。星界の地図、宇宙の案内図であった。


「きれい………」


 しらずしらず友子は小さくつぶやいていた。


「それでは、これより天体望遠鏡が設置された場所に移動したいと思います。私が案内しますから、みなさんついてきて下さい」


 影たちに混じって歩いていた時だった。友子は突然、「待って」と後ろから腕をつかまれた。


「トモコちゃん。ひさしぶり」


 ふりかえると彼女の腕をつかんでいたのはスナヤンであった。


 スナヤンの顔を認めると、友子は条件反射のすばやさで力いっぱい彼女の手をふりほどき、間髪いれず言葉もかわさずその場から駆け出した。星見の会などすっかり忘れて高校から出て行ってしまった。


 町中を流れる川まで一気に走り抜けていた。あまりにも全力であったため肺が破裂しそうであった。息が整うのを待つつもりで堤防の斜面にバタリと座り込んだ。むんむんとする夏の草いきれが熱気にのって昇ってきた。


 川の水面にはさっき松村先生が極上だと言っていた満月がゆらやらと映っていた。それを眺めながらしばし黙想にはいると、今自分をとりまく全てがとても担いきれない重荷に思えてきた。友子は弱い自分が情けなくて頭が冷たくなってきた。


 心身の調子がおちついてきた時、ハッと気がつくと後ろが誰かが立っていた。


「トモコちゃん」


 その声から誰かわかった。それでも友子は理由のない不意の恐怖に打たれた。お化けとでも対峙するように恐る恐る後ろを見た。


 スナヤンは前と変らない姿でそこにいた。


「逃げないでよ。いっしょにいてもいいでしょ?」

「……うん」


 友子の声はいつのまにか蚊が鳴くほどに弱々しい声になっていた。


「私、星が好きなの。だから、今晩参加したんだけど、やっぱり帰ることにする。トモコちゃんもいっしょに行こうよ」


 どうして? とは聞かなかった。スナヤンの申し出を素直に受けたい気持ちだった。


 ふたりは草のぼうぼうと生える河原を並んで歩いていった。どちらも自分から喋ろうとしなかった。いや、友子の方ではいろいろ聞きたいことがあり、何度も質問したい衝動がおこったが、勇気が持てず沈黙している状態だったのだ。


「ほら、あの階段をのぼるの」


 スナヤンの指さした先には、たしかに階段らしき物がみえた。だが、川のそばにあり、しかも金色にひかり輝いているというずいぶん奇妙な階段であった。


 近くにくると友子は目を丸くした。奇妙どころのさわぎではなく、その金色の階段は半透明で、はるか天高くまでそそり立っているのだった。


「これ……のぼりきれるの?」

「大丈夫だよ。全然疲れないから」


 そういってスナヤンは先に階段をのぼりだした。


 友子も彼女に続き、第一段目に足をのせた。すると、カツゥーンと鉄琴のような小気味のよい音がし、クツの下がピカッと光り、金平糖の形をした白い粒の火花がはね上がった。


 二段、三段とのぼるうちに友子はその階段がまったく苦にならないことを知った。体から重さがとれたように軽かった。友子は先を行くスナヤンに追いつこうと階段を駆け上がった。


「ね? 言ったとおりでしょ?」


 スナヤンも足を速め、ふたりで階段を駆け上り、もう雲の真下まで来ていた。ふりかえるとずっと下に友子たちの町が小さくなっていた。耳のとなりで風がごぉごぉと鳴いていた。


 さらに先へ進み、雲を突き抜けても、まだ階段は尽きることなく上へ築かれていた。


「どこまで行くの?」

「もうすぐだよ」


 それは本当だった。やがて階段が終わると、光景は一変した。ふたりはごく小さな無人駅に立っていた。あらためて階段を見ると、それがこの駅に来るための地下道であることがわかった。


 それにしてもなんという場所だろう! 


 駅の外は地平線まで広がるおだやかな野原だった。また空もふしぎで、日没の群青色と夜明けの淡いライトブルーに南洋の海の色と北極の氷の青をかきまぜた底のしれない目のさめる青色だった。


 友子はプラットホームの端まで行ってみた。そこには線路があり、彼方から彼方へ一直線であった。耳をすましても電車の来る気配はしなかった。


「こっちだよ」


 スナヤンは駅の出口に向かっていた。駅の外の野原には人が通るために草をかりとって道が作られていた。ふたりはそこを歩いていった。


「どこにいくの?」

「しばらくすれば川につくの。ひとまでそこまで行こう」

「ああ、それにしても、ここはいいにおい!」

「トモコちゃんはどんな風に感じるの?」

「なんていうか……さわやかな…硬質な…だけどヒヤッとする…」

「凍ったみかんをいっきに砕いた時のにおい?」

「そう! まさにそれっ! あとね、あとね…えっと……」

「ルビーを水に溶かしたジュースのにおい?」

「そうそう! 本当にそんな感じ!」


 友子はひさびさに純粋な楽しい気分になっていた。ふたりがそうやって笑いながら語り合うのは実に何ヶ月ぶりだったろう。


 この野原を行くのはひどく体が軽かった。その気なれば何十メートルもジャンプすることや、息切れせずに何キロも疾走することも可能だと思った。体が軽いと、自然と心も軽やかにうきうきと楽しい気持ちになるのだった。


「どうしてここの草や花はこんなにも光っているの?」

「それはね、ここにはつまらない物が一つもないからだよ。この下の世界のものは石も草も虫も獣も人も、みんな自らつまらない物と思い込んで本当に自分をつまらなくしている。だけどここでは、一個の石ころでも自分をつまらない物とは思っていないのよ」


 スナヤンは道端のひとかけらの石を手にとってみせてくれた。ただの石なのにとてもすばらしく照り映えていた。ダイヤモンドと比べてもどうしてこの石が負けることなんてあるもんかと自信をもっていえた。


 また、友子は一本の草をジッと見ているように示された。すると、一陣の風がふいてその草をゆらした。その風におよぐ草の姿に友子は感激した。ああ、その姿の愛らしさ、奥ゆかしさをなぜこれまで知らなかったのだろうと笑みがこぼれた。


「スナヤンの言うとおり、ここにはつまらない物なんて一つもないんだね」

「そう。ここでは全てが平等になっている。平等にみんな美しいの」


 やがてふたりの行く手には広大な野原を横断する長大な川が現われた。


「この川の名前はミルキィ・サンディというのよ」

「なるほど。たしかに、ミルクのような、砂のような川だね」


 友子は川の水をすくってみようと手を入れてみたが、彼女の手には何もふれず、引き出しても濡れてさえいなかった。


「当然よ。この川は真空海に注ぐ素粒子の流れなのだもの。白く見えるのは中の惑星や恒星のせいなの。ちょうど血液が、透明な血しょうに、赤血球が色を染め、白血球や栄養分が流れることで用をなすのと同様のことよ」

「さっきこの川が目的地みたいなことを言ってたよね。それじゃ、これで引き返すの?」

「いいえ。私が行くのはもっと先。この川を沿ってずっと行けば真空の海に出るの。そこにはトモコちゃんもよく知ってるあの月が浮かんでいるわ。私はそこに行くつもりなのよ」

「私も行っていいんでしょう?」

「ええ、どうぞ」


 ふたりは川に沿って流れのむかう方角へと歩いていった。


 やがてふたりは野原にとってかわるほど広がる土地いっぱいの田園にやってきた。収穫をいまかいまかと待ち受けるまばゆい金色の色相をなす稲穂を垂れ下げていた。   

 先に進むと、次はちんまりした林があった。その立ち並ぶ針葉樹は、幹から枝がオパール、葉がエメラルドであった。根元に咲き返るチューリップはベルのようにコロンカランと鳴り、テッポウユリはトランペットの音色を出した。


 その林もすぎ、友子とスナヤンは先を急いでいった。


 ある所でスナヤンは立ち止まり、友子に彼方を指さした。


「あれが見える?」


 友子はなんのことかわからなかった。しかし、なおも相手の指の先を見つめていると、その空中にキラキラと銀色に照り返す木の葉のようなのが舞っているのがわかった。


「あれはオーツー鳥というのよ」      

「鳥なんていないじゃん」

「それがいるのよ。オーツー鳥は体が気体でなりたっているから目には見えないんだけど、羽根は鈴だからそれを目印にするんだよ」


 スナヤンがピィッと指笛を鳴らすと、宙を舞っていた銀色たちは急に旋回して地上すれすれまで下り立ち、友子たちのところに飛んできた。友子は驚き、目を閉じると、強烈な突風がシャランシャランというけたたましい鈴の音を残してふき去っていった。


「びっくりした! もうやめてよ!」

「トモコちゃんをびっくりさせてやりたかったんだよ」


 ふたりしてあはは、あははと笑い合った。


 その他、道中ではいろいろなものを見た。とてつもなく巨大なさそりが泉のそばを歩いていたり、こいぬとこぐまが仲良くたわむれているのをおおぐまが見守っていたり、地上のへびが空からおそいくるワシに対して威嚇しているのを見た。


 また地平線はるか遠くに望見した巨人オリオン、まぶたを閉ざしたゴルゴーン、アンドロメダは静かににまどろみ、全天を覆い隠すほどの大白鳥が飛びすぎた事もあった。


 スナヤンによれば海はもうすぐだという地点まできた時、空を無数の光の筋が走り出した。


「流星群のトンネルだ。ということはちょうど太陽系の行進の時間だったんだね」


 無数の青白い流れ星が渦を巻いていた。その向こうから惑星の一団がやってきた。火星、金星、水星、木星、土星、天王星、海王星であり、その中心を飛行するのは大鷹と、その背中ですらりと立ち上がった黒い正装の老年男性であった。


「彼はホルスト先生という音楽家よ。太陽系の惑星は彼が指揮しているの」


 たしかに、大鷹の男性が手袋をした手をふると惑星たちはその動きに呼応して自在に位置を変えていた。


「太陽はどこにいるの?」

「ほら。ずっと上を見てみてよ」


 惑星大行進のもっと上方に太陽がいた。彼はマントをはおり、剣と盾をかまえ、甲冑をかぶった怪しい相手と武器をぶつかり合わせていた。


「太陽はだれと戦っているの?」

「魔王よ。あいつは世の中のおさな子を奪い取ろうとするの。だから、ああやって太陽が戦って、私たちを守ってくれているの」


 星界の闘争は、攻防の末、太陽の剣が魔王の大剣をはじき、魔王の身体を切り裂くことで太陽の勝利におわった。魔王の身体は四散し、緑と青の宇宙風へとかえった。


 その時、勝利を祝福する壮烈な音楽が天地に奏でられた。火星以下太陽系の惑星たちによるオーケストラであった。野原の上では小さな池に集まった数多くの蛙がおのが歓喜を吐露する歌を高らかに合唱していた。


 やがて太陽も魔王も惑星も、すべてが消え去り、もとの静寂がもどってきた。彼女らは先へ進んだ。


 友子たちは深い松林に分け入っていた。そこを抜けると日本風の荒れた城が現われ、また海岸にも到着した。海の沖合いには離れ小島のように月が浮かんでいた。スナヤンによれば、その城は月を眺めるのにうってつけの場所なのだという。


「あの月へはどうやって行くの?」

「泳ぐにきまってるじゃない」


 そういうなり、スナヤンは海に飛び込んでいた。友子も彼女を後を追い海に入り込んだが、異様な感じに驚いた。


「スナヤン! なんか変な水だよ!」

「ここは真空の海だって言ったでしょ。溺れないようにしっかりついてきてね」


 友子は前を行くスナヤンに従い、苦労しながらもなんとか月まで到達することができた。


 月の丸々とした丘をのぼるのは難しく、スナヤンが友子の手をしっかり握り引っぱってあげなければ危なくずり落ちそうであった。ふたりはついに月の丘の上に立った。


「ここがスナヤンの来たかった所なの?」

「そう。私が来たかった所」


 スナヤンはごろんと地面に仰向けになった。友子もまねをしてとなりに並んだ。疲れているわけではなかったけれど、心地良い和やかさが全身を包んでいた。


「ほら見て。この月からは地球が見られるんだよ」


 起き上がって見るとたしかに月の島からほど遠からぬ位置に地球が眺められた。ふたりともしばらくは言葉もなくそうやって地球に見入っていた。


「ねえ、スナヤン。私、おねがいがあるんだ」

「なに?」

「私と親友になってほしい」

「もとからそうじゃない」

「ううん、ちがう。本当の、本物の親友になってほしいんだ。私今までスナヤンのこと何も知らなかった。でも、今、いろんなことを知った気がする。ここまでいっしょに冒険したんだもん」

「ミチやヨーダは?」

「あいつらは……変っちゃった! どうでもいいよ!」

「……………」

「ねえ、なんで人は変っちゃうんだろう。どうしていつまでも良いままでいらないんだろう」

「人に限らず、物事は変化するんだよ」

「でも、変化しないのもある。スナヤンはずっと変らなかった。それに、ここにあるものもきっとそう。私、思うんだけど、この世界はきっと一万年がすぎても変化することはないんだよ。ここでいつまでも二人で遊んでいたいよ」

「ねえ、トモコちゃん。あそこに北極星があるの、わかる」

「それがどうしたのさ?」

「他の星がどんなに動いても北極星はいつも変らず動かないの。十年でも、百年でも。……でも、一万年もすると北極星は他の星に代ゆずりをしてしまう。どうしてだと思う?」

「さあ」

「地球の地軸が傾くからよ。それに、他の星にしたって、動いているように見えるのは全部、地球自身が動いているからそう見えるだけ」

「何が言いたいの?」

「ミチやヨーダだけでなく、トモコちゃんも変ったということ」

「そんなこと……わかってるよ……」

「それに……私だって変化するんだよ」


 そう言ったきり、スナヤンは消えてしまった。あわてた友子が右も左も見、後ろを探しても彼女の姿はどこにもなかった。


 海がとどろき、島がゆれた。大波が、高々と盛り上がった。真空の海ではあったが、その波立つのは確実にわかった。真空の流れが友子の体を押し流した。


 波にさらわれた友子は海の底に沈んでいった。友子の体からは真紅の炎があがり、肉体を焼き尽くし、汚れを浄化していった。最後の肉片が完全に燃え尽き、真空の流れに溶け去った後、そこにはだいだい色に輝く球形の魂だけが残った。


 魂は強く光を放ち出し、やがて他の恒星と大差のない立派な星になった。


 友子はその時になってわかった。この宇宙にあるものすべてを抱擁する大きな掌を。いっさいの法則を統率し、秩序を与え、永遠の循環を可能ならしむる大意思を。莫大な質量の恒星から、ほとんど重さをもたぬ微生物にまで及ぶやさしき恵みの手を。


 この宇宙ではいや果てからいや果てに至るいっさいの所属物が相互に関連しあい、ある一つの大能の下に一体の組織として統率されていた。数兆光年もの距離が隔たるも間近にいるのも変わりないことであった。


 友子は母の両腕に帰ってきた赤ん坊のごとくかたく抱きすくめられた。限りなき安寧に満たされ、夜空に照り出でる第一等の星燈になったのだった。


 そして………友子は地上に投げ捨てられた。


 意識がもどると彼女は堤防の草わらに呆然と寝転がっていた。近くにはやはりスナヤンが立っていて、上から友子の表情をうかがっていた。


 突如、耐え難い苦痛がおそってきて、友子は激しく咳き込んだ。胸が痛い。関節も痛い。頭も痛い。全身が痛みのために熱をもっていた。魂の安息のあとには、再び肉体を持つことがとてつもない苦痛だった。


 友子は涙を流した。それはただ痛みのためだけではなかった。彼女はかたわらのスナヤンに訴えかけた。


「私は……星になってたの……」

「うん」

「今頃、あそこに…あの夜空にいたのに……なんで、またここに…」

「あなたには、まだ時期でないのよ」


 教え諭すようなスナヤンの口調。


「トモコちゃんにはね、この地上でやり残したことがまだまだ山のようにあるの。それを全部済ませなくてはあそこには行けないのよ」

「そんな……」

「今自分で存分に体験しているでしょう。生きるのはつらい事。それは誰にとっても同じ。だから、戦いのために備えをするのよ。生きる事は苦痛なのこと。生きる事は戦うことなのだから」


 友子には自分のやるべき事、戦うべき事がよくわかっていた。謝らなくてはならない人たちがたくさんいた。ゆるしをこわなくてはならない人たちがいた。もうゆるされないだろう自分の行ないのつぐないをしなくてはならなかった。


 だけど、今はそれは置いておくことにした。とにかく悲しくて、悲しくてしかたがなかった。涙が次から次へとあふれ出ていた。


「人間て……さびしいね」


 答える者はだれもいなかった。




終  


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