鼻から悪魔
30歳独身、鈴木たかしの部屋には物が少ない。
アイドルのポスターでも貼ってあるほうがまだマシなほどに殺風景。家具といえるのもテレビくらい。そのテレビもテレビ台ではなく、ボロボロで焼け焦げた跡まである木の台に乗っている。部屋の隅には使っていない水槽。綺麗に片付けられてはいるが、インテリアのイの字もない。来客などまずないと一目でわかる部屋だ。
鈴木本人も部屋同様に冴えない風貌だ。
鈴木は鼻穴に右手の人差し指を突っ込んでいる。ハナクソをほじっている最中に見えるがそうではない。何やら鼻に異物が入っているような感じがして、かれこれ3分ほど指を突っ込んでグリグリしているのだ。
そしてついにその異物に指が触れた感触がした。
「なんだ……なんか動いてるような」
つい独り言が出てしまう30歳独身彼女無しの鈴木は、虫でも入っているのかと恐怖を覚える。なんとかその異物をつまみ出そうと、元から広い鼻穴をこれでもかと広げて親指まで動員しはじめる。
「いてっ、ばか触るなハゲが」
30歳独身彼女無しハゲかけの鈴木は、自分の頭と耳を疑った。指に触れた何かをつまんだと思った瞬間に、鼻から女の声が聞こえた気がしたのだ。恐怖はさらに募る。その何かを引きずり出すべく、人差し指と親指を全力投入する。そしてついに。
「いってえつってんだろがハゲ」
「いたああああああ」
痛みによる2つの叫び声が上がる。その異物は鈴木が思っていたよりも、はるかに大きなサイズだった。引きずり出した時に薄い粘膜がやられて、鈴木の鼻穴からは鼻血が吹き出している。
鈴木の鼻穴から出てきたのは、なんとも可愛らしい女の子。西洋風の顔立ちに金髪。小さくてわかりづらいが、出るところは出ている。そして背中には黒い羽。ハゲだのデブだの火星人だのと、鈴木に向かってギャアギャア悪態をついている。
「なん……だこれ」
「はなせオラァ、逆さにすんじゃねえ。パンツでも拝もうってのかロリコン野郎が!」
少しだけ身に覚えのある罵倒をくらいながら、鈴木は自分の鼻から女の子が出てきたことに呆然とする。
「鼻血出しながらこっち見んじゃねえっ、この素人童貞が!」
確実に身に覚えのある罵倒をくらいながら、この事態に対応すべく鈴木は迅速に動いた。彼の本能が告げていた、これを逃してはならないと。
離さないように潰さないように慎重に女の子を指で持ちながら、鈴木は以前飼っていたウーパールーパーが入っていた水槽を準備する。そして逃さないように慎重に女の子を水槽に入れた。
「あほかっ、こんなところに入れるな。魚臭いわ」
「ウ、ウーパールーパーは両生類だから……」
「どっちでもいいわっ」
観念したかのように女の子は急に大人しくなって座り込こみ、大きく溜め息をつく。
「捕まった時点で逃げやしねえよ。ったくドジ踏んだぜ」
「えっとその、どちら様か聞いてもいいかな。まさか天使とか妖精?」
口調からはとてもそう思えないが、見た目からはそうとしか思えないほどの愛らしさ。
「そんなもんと一緒にするな。悪魔だ悪魔。背中の羽が見えねえのか」
「悪魔……なんでそんなのが僕の鼻に」
「言っとくけどな、ほとんどの人間の鼻の中には悪魔が入ってんだぞ。人間は鼻穴がいつも片方詰ってんだろ。そりゃあたしたちが居るからだ。人間はアホだから気づいてないけどな」
言われてみて鈴木は気がつく。確かに鼻の穴は片方がいつも詰っていた。それも詰る穴は左右決まってはおらず、気づかないうちに替わっているのだ。
「そ、それってもしかして……ずっと居たの? 鼻の穴に?」
「ああ、テメエがガキん頃からな。悪魔ってのは鼻の中で人間の精気吸ってんだよ」
「ガキの頃からって……そんな馬鹿な。全然居るの気づかなかった」
「あったりめえだ、気づかれたら1からやり直しなんだよ。普段は絶対に気づかれんようにしか動かねえよ。はああぁぁ、マジでドジったわ。こんなアホに捕まるとは」
「1からやり直しってのは……ま、まさか体を乗っ取るとか」
「テメエの体を乗っ取るなんて死んでもお断りだ。悪魔ってのは成長するのに人間の精気が要るんだよ。ただ人間から吸い取れる量なんて高が知れてるからな、何年もかかんだ。しかも入った穴がテメエみたいな甲斐性無しだと余計に時間かかるってのに。クソ、まさか見つかるとはなあぁ」
心底悔しそうに悪魔は嘆く。
「えっと見つかると駄目なの?」
「クソったれな悪魔の掟のせいでな。人間に見つかったら、吸い取った精気をそいつに返さないと処刑されちまうんだよ。だから精気返すまでは逃げやしねえから、こっから出せや乳首毛野郎!」
悪魔だというが見た目は可愛らしい女の子。冷たいガラスの水槽に入れるのは確かにかわいそうかと思って、鈴木はテーブルの上に出す。
「あーあ、確かに外は広くて気持ちいいけどよ。また精気集めなおしかよ」
「えっと、さっき言ってたその精気を返すってのは?」
「喜べ。コツコツ貯めたお前の精気を一気に魔力に変えて返すんだ。ほれ、願い事言ってみろ。悪魔といったら願い事だろうが」
急に鈴木は恐ろしくなる。その願い事を叶えてもらうには、代償が必要なところまでがお決まりのパターンだ。
「いや、なんかそう言われると不安なんだけど」
「これは悪魔の罰なんだよ。もらったもんを返すだけだ。別に代わりにお命頂戴とかはねえから、早く願い事を言え」
「きゅ、急に願い事とか言われると、思いつかないなあ」
「さっさとしろ、次の人間探さねえといつまでたっても成長できねえんだよ」
「じゃ、じゃあお金とか」
「よしっ金だな」
悪魔は金という言葉を聞いてすぐに、その可愛い姿でヒゲダンスを踊り始める。それは魔法の儀式なのか、悪魔の下に魔方陣のような模様が浮かび上がってくる。
「え、待って。金って言っただけでいくらとかも言ってないのに」
「んだよコラァ。テメエの精気から吸い取った分を返すんだから、金額はそれに見合った分に決まってんだろっ」
「ちなみにそれはいくら?」
「大体60万だな」
「日本円で?」
「ったりめーだろが」
なんとも微妙な金額だと鈴木は思った。60万円は決して少ない金ではない。薄給の彼にしてみれば、かなりの大金と言えるかもしれない。しかし悪魔に叶えてもらう願い事の金額と思うと、少ないような気がした。
「じゃ、じゃあお金は止めとこう」
「クソがっ。精気返すまでは他に行けねえんだ。さっさとしろや」
「じゃ、じゃあ髪の毛を……」
「無理に決まってんだろうが! 世界の富豪ですらハゲてんのに、テメエの精気吸い取ったくらいでハゲが治せるわけねえだろ。素直に60万で植毛でもしろや」
さすがに鈴木も傷つくが、せっかく願い事が叶うというのに落ち込んでいる場合ではない。なんとか良い願いはないかと頭をひねる。
「じゃあちょっと出たお腹を引っ込めるとか……」
「無理。テメエさっきからハゲ治せとかデブ治せとかアホだろ。そこをなんとかすりゃあ女にモテるとでも思ってんのか。そんな性格だからモテねえに決まってんだろが」
ぐうの音も出ないアドバイスをもらって鈴木は落ち込むが、なんとか立て直す。
「えっと、じゃあ彼女が欲しいとかいう願いは……」
「風俗行ってろ」
「ですよね」
60万という金額に代わる良い願い事というのは思いつかないので、鈴木は悪魔に聞いてみるとこにした。
「その、君はずっと僕の鼻に居たんだよね。いつから?」
「テメエが保健体育の教科書の絵で、人生初のオ」
「わああああ、待ったあああ、わかった。ごめんなさい」
小学6年生くらいの思い出をほじくり返されて、鈴木は冷や汗をかく。
「えっと、そんなことまで知ってるってことは他にも色々知ってるんだよね。僕の精気分で叶えられる願い事で、良いのってないかな。ちょっと思いつかなくて」
「悪魔にンなこと聞いてどうすんだ。やっぱバカだろテメエ。大体な、テメエは昔っから気が弱すぎ、欲が無さすぎなんだよ。大学2年の時に、なんでヨシコちゃんに告んなかったんだ」
「いやだってあれは、友達のサトウが脈ないから止めとけって……」
「はあぁぁ、だからバカだって言ってんだろ。あれはサトウがヨシコちゃん狙ってたに決まってんだろが。まんまと騙されやがって。あとな、お前最近同期のヤマダに仕事押し付けられすぎだボケ」
「え、だってヤマダは最近奥さんが体調悪いからって。俺も前に会ったことあって、元気そうな人だったのに心配で……」
「だーかーらぁ、なんでそんな騙されんだ。3日前にヤマダの奥さん、会社近くのイタリアンで元気にメシ食ってたぞ。テメエは気づいてなかったが、相変わらずの厚化粧でどう見ても病気じゃねえよ。ヤマダな、多分テメエがちょっと良いなって思ってる経理のハナコちゃんと不倫してっから」
「そ、そんな」
鼻の穴に居た悪魔に、本人も気づいていない衝撃の事実を次々知らされる鈴木。
しかし自分でも驚くことに、ショックどころか何故か嬉しいような気分ですらあった。
「……テメエ、なんでニヤついてんだ。まさかロリコンに続いてマゾッ気まで出てきやがったか、この根暗ボッチ野郎が!」
可愛い女の子に罵られるのはご褒美です、とは鈴木は思わない。親も兄弟も恋人もなく、数少ない友人だと思っていたサトウとヤマダにも利用されてるだけと知った孤独な鈴木。
ところが孤独だと思っていたら、自分のことをずっと見ていてくれた存在がいた。人間とは誰かに知ってもらって初めて人間らしい心が持てる。たとえその誰かが、人ではなく悪魔だったとしても、自分のことを知ってくれていた存在がいる。そう思うと鈴木の心は温かくなった。
「ごめん、君が……色々僕のことを知っててくれて嬉しくなってしまって。それだけで充分だ、ありがとう」
「待てコラ。なにが充分だ。さっさと願いを言えっつーの」
「精気は別に返してもらわなくてもいいよ。君にそのままあげたいんだけど、できるかな」
悪魔は呆れたように溜め息をつく。
「心の底からバカ野郎だなテメエ。返さねえとあたしが処刑されんだよ。大体そんな欲の無えこと言ってるから、吸い取れた精気も60万程度なんだよ。女にモテたいならまず欲を出せっ。豆になれっ」
「い、いや。そういうの苦手だし……」
「まずこの部屋はなんだ。隠居したジジイでも、もうちょっとマシだぞコラ。ハゲだの腹だの気にする前に、せめて女を連れ込める部屋にしろってんだ。まずカーテン。なんで男のくせに花柄なんだ。安くて実用性がとか言ってんじゃねえぞ。あとテレビ台。なんで困らないからってあんなボロい木の台なんだ。テレビ台1つ買えない給料じゃねえだろがっ」
テレビ台、という言葉に鈴木は反応した。もしかしたらという思いが浮かぶ。
「あ、あのテレビ台。何度も捨てようと思ってたけど捨てられなかったもので、その……元はタンスなんだけど」
「知っとるわボケが、知りたくもないがな。何年テメエの鼻で暮らしてると思ってんだ。テメエが中学の卒アルでクミコちゃんの写真見ながらシコ」
「うわあああ、待ったあああ。わかった。ごめんなさい」
高校1年生くらいの思い出をほじくり返されて、鈴木は冷や汗をかく。
「で、あの元タンスがなんだってんだ」
「君は知ってると思うけど、あれ、死んだ母さんの嫁入り道具で、大事にしてたものなんだ。母さんが死んですぐ火事で燃えちゃって、あれしか残ってないんだけど……あれを直すってのは無理かな。高いタンスだと思うけど、多分60万くらいだと思うんだ」
「確かにありゃ60万くらいだな。んで、あれを直してなんだってんだ、このマザコン野郎が!」
「いや、特に何がってわけじゃないけど。火事で母さんの写真とか形見とかも残ってないから、焼け残っただけのあの木の台も捨てられなく。それが直ったらいいかなと思ったんだ」
「はあぁぁ、もっと有意義に使えねえのかよ。60万ありゃインテリアくらい揃うだろが。まあいい、それでいいんだな?」
「う、うん。本当に直るの?」
「テメエの精気分はな。新品には戻せねえよ。せいぜい火事で燃える直前くらいだぞ」
「全然……全然問題ないよっ。あの、ありがとう」
「おらっ、さっさとテレビどかさんかい」
「うん、すぐにどかすから」
鈴木がテレビをどかすと、悪魔は再びヒゲダンスを始めた。テーブルの上に魔方陣のようなものが浮かび上がる。魔方陣が強く光ったと思うと、そこにはもう悪魔の姿はなかった。
跡形もなく悪魔が消えて、鈴木は夢だったかのと思った。しかし振り返るとそこには、確かに母親が大事にしていたタンスがあった。鈴木は涙ぐみながらタンスに手を置く。傷が多少ついているが、鈴木はそんなことは気にならなかった。悪魔は新品には戻せないと言っていたが、懐かしい母親のタンスがよみがえってくれただけで満足だった。
引き出しを開けようとしたら、少し重たいことに鈴木は気づく。不思議に思って開けてみると、確かに悪魔の言っていた通りだと鈴木は気づいた。
鈴木の母親は大事なタンスに衣類ではなく、大事な写真などを収めていた。
母親が死んで火事で燃える直前にも、タンスの中に写真などを収めていた。
鈴木は今は少しだけ泣いて、もう少しだけ頑張って生きてみようと思った。
生前の母親の写真を握り締めて、鈴木の涙は少しだけでは止まらなかった。