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“もも”の短い物語

作者: ブイ太郎

読んでいただいて感謝いたします。

文章を書くときに熱を持つって大切ですよね。

「うつ病ですね」


 初老のメンタルクリニックの医師からそう告げられたとき、俺は初めて会った人の前であるにもかかわらず泣いた。

 悲しい訳じゃない。ただ話をしていただけ。十数年近くの自分の生活の事を話しただけなのに。

 涙が目から溢れて止まらなかった。






 専門学校を卒業し、とある県にあるとある事業所に入社した。

 同期入社は俺を入れて三人。

 一週間で一人が辞め、二ヶ月で二人目が辞めた。

 始業は朝は九時からで、終わりは日付をまたいで二時、三時。それが月曜から金曜日まで。

 徹夜なんて事もあった。体重は一ヶ月とちょいで十キロも減った。

 先輩達からは「何で入社してきたん?」「辞めた方がええで」「自分、死相が出てんで」等々言われたが、自分なりに歯を食いしばって頑張った。

 そこそこに仕事も出来るようになり、褒められるようなこともあった。しかし自分より下の人間が入ってこない。入ってきてもすぐ辞める。

 単純なことだ。給料で見れば、常時募集しているバイトをしたほうが手に入れれるお金は多いから。

 五年目か六年目の頃だろうか。自分の給料をタイムカード片手に時給換算してみた。

 三百円とすこし。

 勿論、手取りではなく総支給額からの計算だった。

 驚いた。世の中、そんな仕事を探す方が難しいだろう。

 だけど俺は働き続けた。辞めれなかった。辞める勇気がなかった、と言った方が正しいのかもしれない。

 思えばこの頃から正常な判断が出来なくなってきていた気がする。






 会社は業績を伸ばし、郊外の大きな社屋に移転した。

 俺の仕事場所は諸処の事情で、みんなの大部屋とは別の小さめの部屋を仕事場として与えられた。

 この頃、俺の仕事の生産量は下降を続けていた。それはもう後続の仕事を圧迫するほどに。

 俺の知らないところで上司への突き上げがかなりあったらしい。(根も葉もない密告めいたものもあったと後で聞いた)

 上司の注意、改善されない俺の仕事量、上司の注意、改善されない俺の仕事量、上司が激怒、改善されない俺の仕事量……。

 コントのような無限ループの果てで、俺は会社で“使えない人間”の判を押された。

上司がそんな判断を下したのだから、その他の平社員達の俺への対応も変わるのも当たり前だった。

 挨拶したり日常会話はするものの、俺の事を陰でボロクソ糞味噌に言うようになっているのを俺は知っていた。

 それでも俺は仕事を辞めなかった。

 忍耐強いのではない。もうすでに俺は壊れていたのだ。






 もう数ヶ月で俺が働き始めて十年になろうかというとき、内部の仕事を取り仕切っていた専務が社長より一方的に解任された。

 詳しい内容は記すものではないのだが、派閥争いみたいなものだ。

 技術に優れ知識もある現場を統括する専務が、営業畑の社長とそりが合わなくなった。もしくは現場に影響力の有りすぎる専務に社長が嫉妬した。

 どちらにしろ、余りに一方的すぎてくだらない理由には違いなかった。

 一方的な解任に専務はブチ切れて、車で30分ほどの場所に自分を社長とする新しい事業所を立ち上げた。解任されてから僅か二ヶ月半という電光石火で早業で。

 元専務は技術畑の人間ながら営業もそれなりに社長に同行することもあったようで、元専務の腕を知る得意先の幾つかはそちらに発注先を移した。

 何も知らない第三者からしたら、顧客を奪ったと見られただろう。

 実際、社長は声高に周辺の人間にそう言って回ったらしい。

 そして奪われた言って回ったのは得意先だけではなかった。


 社員も何人かが元専務の会社に移った。


 実際のところは引き抜きなどではなく、技術に秀でる専務に付いていきたいと社長に辞表を叩きつけ元専務の元に駆けつけた者が殆どだ。

 その中には俺の姿もあった。キラキラした目をして元専務の元に集った社員達の中で、技術云々よりも場所が変われば今までの怠惰な自分も変わるはずとの甘い考えをもっていた俺が居た。


 新しい事業所は順調に進んだ。…俺以外は。

 相変わらず滞る仕事、頻発するミス、俺の下に居る間だけ育たない社員。

 場所が変わったところで“使えない人間”の印は消えるわけがなかった。

 そんな中で新社長の叫んだ「いっそ病院でみてもらえ!」との言葉を受けて、診察してもらったメンタルクリニックで言われた冒頭の一言であった。


 次の診療には妻と産まれて半年の娘が付き添ってくれた。

 妻は先生の話を聞いて泣き出した。うつ病くらいで泣くか?と思う方も居るだろうが、先生に言われた一言が衝撃的だった。


「うつ病は死の危険を伴う病です」


 自殺念慮という物らしい。

 自分に価値を見いだせなくなったり自分の必要性を感じなくなったり居なくなった方がよいと思ったりして自分の命を断つ。

 勿論泣き出したのはそれだけでなく、帰りの遅い俺を寝ないで待っていてくれた妻に大きな負担を強いていたということもある。

 俺は今更ながら反省した。

 先生からの提案で最低でも二ヶ月の休職を進められた。

 会社宛に診断書を書いてもらい、社長に提出したが認めてくれなかった。

 仕事が出来ずとも後輩を育てられなくとも同僚との関係が悪かろうとも、一人が欠けると途端に他の人への負担が増える。

 午前二時、三時の帰宅が十年も続くような仕事である。毎日が猫の手でも借りたい状況で怠け者の手も借りたい。それが本音だろう。

 薬を服用しながら会社に来てくれないか、負担は出来る限り減らす。と言ってもらえた。

 俺は嬉しかった。


 必要とされている。


 それが嬉しくてうつ病の薬を服用しながら仕事を続けた。

 だけど“その日”は突然やって来た。

 ある朝、俺は布団から起きあがれなくなった。体が動かないのだ。

 脳の疾患を疑うほどに体が動かない。しかし、手足の痺れもなければ言葉もハッキリ喋れるし、視野が変なこともない。

 結果は心と体のストライキだった。

 勿論出社できるわけもなく、ほぼ寝たきりの毎日が何ヶ月も続いた。

 俺は布団の中であらゆる言葉で自分を罵った。




 会社との交渉を妻が行ってくれて、結局、会社を辞めて俺の実家に家族三人が居候しながら休養することになった。

 実家は兼業農家で、黒毛和牛の飼育もやっている。

 有名ブランド和牛ではないものの、個人で少ない頭数を飼うことで手を掛けることが出来るため、質の良い子牛を有名ブランド地域の肥育者(牧場主)が買い付けに来ることで有名な地域だった。

 俺は倦怠感や頭痛や目眩なんかと折り合いを付けながら妻と共に家業を手伝った。

 環境が大きく変わっても俺の症状の改善は無かった。

 大きく振れる感情。些細なことで落ち込み。子供や物に当たり散らし、そして激しく後悔して寝込む。

 病院で処方された頭痛薬や精神安定剤を過剰に服用したりもした。

 家の壁に頭突きで大穴を空けた。

 首を吊り自殺未遂までもやらかした。

 日頃もの静かな父は、改善しない俺の症状に苛立ち深酒をする度に「頑張らなあかんのちゃうんか!」と俺に言い聞かせた。

 その言葉を聞く度に俺は寝込んでは自分を罵り続けた。

 泥沼は続いていた。






 そして三年の月日が過ぎた。

 その間、病状は回復はしなかったが、悪い事だけでもなかった。

 いろんな人や物に心癒されたりもしたのだ。

 ゆったりと流れる故郷の田舎時間。

 日に日に大きくなる娘には勿論のこと、黒毛和牛の世話の手伝いで触れ合う子牛達や、親類の酪農家からの乳牛と黒毛和牛の混血(F1という)子牛の競り市までの世話を請け負わせてもらったりすることで俺は少しは自分に自信を持てた。(勿論、妻や両親にも感謝しているが今回の話では別枠とさせていただく)

 さて前置きが長くなったが、これから記すのは俺の心の重石を少し退けてくれた小さな命の話だ。






 黒毛和牛やF1は厳しく管理されている。

 黒毛和牛は特に血統が重要でF1は一代限りの物で子孫を残すことが許されないから。

 黒毛和牛の雄とF1は、将来必ず食肉となる。

 宮崎県の口蹄疫被害のときに話題になったスーパー種牛などは、それぞれの地域にある畜産試験場か種牛を創ろうとする情熱を持つ畜産家でしか生み出せない代物だ。

 ではF1とは何なのかというと、乳牛がミルクを出し続けるためには妊娠出産をし続ける必要があるための副産物だ。

 乳牛は毎年種付けをして出産をさせるのだが、乳牛は黒毛和牛に較べて体重が重くて巨大だ。

 それは産まれてくる子牛にも言えることで、新しく乳牛が欲しいとき以外には母牛の負担を減らすために乳牛に黒毛和牛の種を付ける。

 因みに乳牛の種を付けて雄が産まれた場合も食肉となる。

 俺が手伝った間に出荷された牛は黒毛の雄が五頭、雌が六頭、F1で雄二頭、雌が一頭。

 ペットとは違う完全商用動物。名前を付けて可愛がりはするし、出荷した牛の名前は全て覚えているが、そこには一線を引いた関係があった。

 飼っている猫や犬とはまた違う関係性だ。

 牛の妊娠期間は長い。人とほぼ同じと言っていい。

 勿論、生物なわけだから全てが無事に産まれてくるわけではない。


 死産。


 生まれ落ちた子牛に対して一番最初に行う行為は呼吸の確認だ。

 口に張り付く羊膜を取り除き、舌を引っ張り出す。

 呼吸が無い場合は口の中に異物がないか確認し、体をタオルで擦って刺激し人工呼吸を行う。

 人間のように病院があり医師が居る場所での出産などない。牛舎の一角に作った産室で行われる。

 獣医さんを呼ぶ場合もあるのだろうがが、我が家の牛舎では自らの手で行われている。

 幾度かの出産を手助けし、たくさんの喜びと少しの悲しさを体験した。

 うつ病の症状として感情が大きく振れる場合がよくある。

 前記した人の言葉や自分の失敗、そして死産などを体験すると俺の心の振り子は大きくマイナスに傾いだ。

 その度に妻や娘や両親に迷惑をかけてきた。

 三年の月日の中で馴れない田舎暮らしは妻を疲弊させた。

少々更年期障害の気があり情緒が不安定な母、田舎独特の近所付き合い、子育てのストレス、良くならない俺の状態。

 それらの歪みが妻に蓄積されていっていたのを、鈍感な俺は気付いてやれなかった。




 最終的に妻が働きに出て俺が家を守る形で妻の出身の都会に新しくマンションを借り暮らすことにした。

 そんな準備をしているときのある二月の日、二頭の母牛がそれぞれ一頭の子牛を産み落とした。



 一頭は“豆郎”。若い母親が産み落とした二十キロの小さな雄。

 一頭は“もも”。うちの牛舎の最古参の母牛が産み落とした二十キロにも満たない小さな小さな雌。


 産まれた子牛は毛が乾くか乾かないかのうちに立ち上がり母牛の乳房にしゃぶりつくものだ。

 しかしこの二頭は少々未熟で産まれたためか立ち上がることができなかった。

 そういうときは母牛の乳を人間が絞り、ほ乳瓶で子牛に飲ませる。

 アセることはない、いつものことだ。

 母牛から絞られる乳はピンク色だ。血が混じっている。それが大事な子牛の免疫物質をふくんだ初乳なのだ。

 その暖かな初乳を湯煎で暖めながら子牛に飲ませる。

 藁と血と臓物と牛糞と乳の匂いの中で子牛の口にほ乳瓶をあてがう。

 豆郎は…、飲まない。ももは…、こいつも飲まない。

 慌てずに針が付いていない注射器を用意する。ピンクのミルクを吸い上げ、子牛の喉に流し込む。

 豆郎は…、飲んだ!ももは…、飲まない…。

 少し慌てて細目のビニールチューブと注射器でもものお腹の中に少しでも多くの初乳を押し込んだ。少々無理矢理な方法だが仕方がない。

 結局、二日目に豆郎が、三日目にももが立ち上がって母牛達の乳房をくわえてつつき上げていた。

 一山を超え、新ためて二頭を観察する。

 豆郎はクリクリした目の何時も通りの子牛。

 ももは「ア~メマ!!」のギャグで有名な芸人さんのような奥目で下顎が少し出た受け口。同じような子牛が産まれてくる中で、少々個性的な顔立ちだった。自然と頬が緩む。

 ほっとして二頭の 小さな頭を撫でる。


「豆郎、もも」


 死産の子牛には名前が与えられない。そのまま埋葬布がわりの毛布に包まれて我が家の裏山の林の中に埋葬する。

 名前が付いたのは無事に産まれた証拠。

 おぼつかない足取りでそれぞれの産室をウロウロする二頭を暖かな気持ちで見守った。


 安心した二日後、異変に気付いた。いや、気付いたというより見逃せなくなったと言うべきか。

 ももの様子がおかしいのだ。

 ももの奥目と受け口が表すもの。頭の発達不全、そして片目もしくは両目の失明の可能性があった。

 片目失明の牛というのはよく見る。六ヶ月から九ヶ月で体重が二百から三百キロ前後の子牛の競り市で必ず一頭は出品されているのを見ていたからだ。

 値段としてはガクンと落ちるが、血統重視のこの業界で母牛にするのには問題ないのか食肉にするのかは解らないが、値段がつくというのは需要があるということ。

 だが両目失明の場合は?

 …我が家で誰も知らなかった。

 不安顔の母は急いで獣医を呼んだ。




 結果は両目失明。この後の選択は二つあるとのことだった。


 殺処分か検体にだすか。

 どちらにしろ殺すということ。


 情を入れては利益を得れない商用動物。

 百歩譲った三つ目の選択肢として、手間がかかっても飼うということ。その場合の問題点として目が見えないため育てるのが困難で、市に出しても買い手が付く可能性は低いこと。もし我が家の牛舎に置いて出産させた場合、子牛を踏んだり体の下敷きにしたりする可能性が非常に高いこと。

 その選択は茨の道であると獣医は言った。


 獣医は無表情で一週間の間に決めて下さい、と告げるとそそくさと帰って行った。

 俺には選択権はない。もうここを出ていく身だ。

 母は一人で悩んでいた。

その間に二頭の子牛はスクスク成長を続けた。ヨタヨタと産室を歩き回り、母牛の乳房をつついていた。

 同じ生を受け、同じように生きているはずなのに残酷までに違う結果。

 俺は無責任にも両親が情に流されることを祈った。

 日曜農家で会社勤めの父は、当初ももを飼いたいと言ってはいたものの結局は検体に出すよりも我が家での安楽死を選んだ。

 あとは実質的に牛舎を切り盛りしている母の判断待ちだ。

 母は情に流されやすい。

 飼っている牛に毎日話しかけながら世話をし、手放すときには涙を流す。

 四年間妊娠しない牛を何時かは妊娠するに違いないと飼い続けている。我が家の牛舎はほぼ満杯である。

 次に産まれてくる雌牛を売らずに取り置いて、妊娠しにくい牛を売る。

 牛の“稼働率”を上げるためにも、無駄な餌代をはらわないためにも、なにより利益を上げるために牛を回転させねばならない。

 それが出来ない母なのだ。今回も情に流されるに違いない。父も文句を言いながらそれを認めるに違いない。

 敷き詰めた藁の上にペッタリ寝そべったももを見つめながら俺はそう考えた。




 何日か後、その日は倦怠感が酷く、朝からコタツに寝そべってウトウトしていた。

 妻と娘は買い物に出かけ留守だった。

 普段、俺達三人が居候させてもらっている部屋に来ることのない母が来て、変に抑揚のない声でこう告げた。


「裏山に穴を掘る。手伝って欲しい」


 ももを安楽死させるのだ。

 突然、鼻の奥がツーンとした。




 裏山にはウバメ樫や椿や椎の木などが生えている。

 穴を掘る場所は決まっている。一番奥の少し開けた場所。

 俺はツルハシ、母はスコップ。

 静かな雑木林に土を掘り石をひっくり返し根を切る音が響く。

 小さな小さな穴。

 もう一時間で獣医がやってくる。

 ももはまだ生きている。なのに彼女を葬る穴を掘った。

 やりきれない。 

 一瞬、俺が面倒をみたらももは死なずに済むのかと考えた。

 だが引っ越しは決定事項で、何より妻と俺のストレスは限界を迎えようとしている。

 それは言えなかったし言うべきではないと思った。

 ツルハシを引きづりながら家に向かう。

 牛舎の前を通るとき産室の柵越しに子牛の小さな頭が見えた。

 豆郎かももか?

 頭では判断がつかないが、また俺の鼻の奥がツーンとした。

 俺はそれまでより足早で逃げるように家に向かった。






 俺には立ち会う勇気は無かった。

 母が言うには注射一本で静かに逝ったそうだ。

 母は赤い目で俺にそう言った。

 俺は重い気分で手押し車を倉庫から引っ張り出した。

 ももの体は薄い水色の毛布に包まれて牛舎の入り口に置いてあった。

 俺は怖くて毛布をめくれない。

 ももの最後の姿も見てやれないのか。俺はさらに重い気分で押し車に毛布でくるまれたももを乗せた。

 持ち上げたももは手にずしりと重く、産まれて一ヶ月もたっていない命の成長を俺に伝えた。

 昔の偉い人は言った。


「命の重さは常に等しく、貴賎はない」


 この言葉を述べた人物は何人で何の宗教を信仰していたのか。

 裏山までの道でそんなことを考えながら押し車を押した。

 我々はなんと都合のよい生き物なのか。

押し車の荷台カタカタ揺れる水色の毛布に俺は何度も申し訳ない、すまないとなんども謝罪の言葉を頭の中で巡らせる。

 俺は自分の命の価値がもものそれより下なんだと思った。

 俺は死にたい、死んで償いたいと唇を噛んだ。




 水色の毛布は悲しいくらいにすっぽりと穴に納まった。

 土を掛けて早く見えなくしたいとショベルを手に持った俺を余所に、不意に母が毛布をめくりももの頭を二、三度撫でた。

 突然現れたももの遺体に俺はたじろいだ。

 だがひょっこり現れたももは、あの敷き藁の上で寝ているいつものももだった。

 ちょいとつつけば子牛独特の“も~”と“め~”の間の発音の鳴き声を立てなながら瞑らな奥目でこちらを見るのではと思ったぐらいだ。


 だけど彼女はもう鳴かない。

 牛舎から母牛がももを呼ぶ声が聞こえた。




 ももに毛布を掛け直し土を被せた。

 埋葬を済ませ大きめの石をぽんと乗せる。いつものように。

 ふと回りを見ると同じような不自然な大きな石が幾つもある。

 何頭もの名前の無い子牛たちがここで眠っている。寂しくないよなと小さく呟いた。






 案の定、俺はそれから数日精神安定剤と頭痛薬を服用しながら寝込んだ。

 名前を付けた子牛を葬ったという事実は何時も以上に俺を蝕んだ。薬に頼るしかない情けない男だった。

 子牛を溺愛していた娘には適当なことを言ってごまかした。

 俺は薬でボンヤリした頭で寝床から妻に買い物に出かけたら花を買ってきて欲しいと頼んだ。

 俺の心中を察してくれたのか、妻は静かに頷いて次の日に赤とピンクのカーネーションを買ってきてくれた。

 俺はその次の日の昼過ぎに体を無理矢理起こして裏山に向かった。

 確認できるだけの石の前に赤のカーネーションを置き、残った一輪の赤のカーネーションとピンクのカーネーションの花束をももの石の前に置き手を合わせた。

 合掌が終わるか終わらないかの突然の時に、ももが受け口でピンクのカーネーションの花の部分をかじり、モクモクと食べる映像が頭に流れた。

 顔を上げると木々の間から二月の乾いた青空が見えた。

 俺は何だか気持ちが軽くなった気がして家に向かって歩いていった。

 牛舎の裏手にある梅の木の枝に白い一輪の早咲きの梅の花が光っていた。

 俺は少しだけ自分が好きになれた気がした。


いろいろと脚色しましたが「うつ病の男」「豆郎」「もも」「カーネーション」「梅の花」は必ず存在します。

日々の恵とこの物語を読んでくれた皆さんに感謝。

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