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フェニックス・クリズム (前編)

 「負けるヤツは、まず戦ってから勝ちを求めようとする」

 狼はつぶやきを隠した。 


 常緑樹よりも深いメタリック・グリーンのジャガーが、6階の窓から見えている。

 狼は、目の隅で見下ろしていた。


 大きく張り出した窓より、深い常緑樹に囲まれた広い駐車場と、初夏の真っ青な空が見えている。

 狼は、窓の外のジャガーを視界の隅で押さえていた。


 狼の目が押さえているジャガー・ディムラー。


 初期生産モデル1,000万円を越える高級車だが、狼の知る限りすでに20年も前のオールディーであり、エレクトリック・エンジンにモデル・チェンジしていくジャガーとしては、化石といいたくなる一台だろう。最近の暴力団が東南アジア・カルテルで資本力を増したおかげで、お洒落な車を鉄砲玉に貸し出しているようだ。深いメタリック・グリーンのボディを陽光で煌かせている。


 狼はやさしい。見守り、導くように、ゴールデンクロスを手に抱いて、お話を聞いている。

 細身の長身で、ソバージュ・カットのブラック・ハーフロングヘア、高等学校のライト・ネイビーブルーのブレザーにブルー・タイで正装している。

 聖典を手に、親族の切なる願いをかなえるためのお話を聞きながらも、視覚野の一部に冷静なまなざしを残していた。

 目の前でまもなく終末を迎えるだろう女性について、ドクターと牧師が語るお話に、もてる限りの親愛の情を表情に込めて、聞いていた。


 左目の隅だけが、別の意志をもって、地上の出来事を見守っている。


 狼の左目は6階のベッドルームから見えるジャガーに、ふたりの少女が歩み寄るのを見た。 

 ドライバーの前からジャガーに近寄っていくのが見えた。




 ひとりの少女は、ヒップホップのラップにのせたステップ。

 軽い調子のウォーキングでジャガーに近寄る。

 ジャガーのドライバーには、そう見えるだろう。

 ブラウンの肌に黒い髪を三つ編みに束ねて、大きな瞳の間に朱のビンディを飾り、ちょっと膨れた胸に白のロングTシャツ、形のよい小さなお尻ををパールピンクのショートパンツにつつみ、プーマのランニングシューズを鳴らしながら笑顔で近づいていく。左手には、紙袋。右手には桃のようなボールを持っている。中学生なったばかり、そのままの姿で歩いている。


 もうひとりの少女はスイングしながら近づいてくる。

 少し遅れて、淑女のごとき面持ちにふさわしい、きれいな少女だ。

 ジャガーのドライバーには、そう見えていた。

 ツバを広げた麻のワイドカラー帽を軽くかぶり、ブラウンの髪をなびかせている。高校生らしい年長さを漂わせて少女が歩いてくる。象牙色のフレア・スカートのワンピースに黒のローファー。慈愛、真面目、やわらかな物腰を映し出したようなファッショをモンローウォークになびかせて、グリーンのトートバックをショルディングして歩いてくる。


 ジャガーの中には、3人の若者たち。どの男も20歳代だろう。

 誰もが、静止していた。思いもしない出来事に動きがとれない。

 敵としてハメルはずのグループ4人のうち、ふたりが向かってくるのだ。

 少女ふたりの微笑みに、対処する行動が見つからない。ちょっとしたパニックになり、固まっている。


 逃げよう。逃げるんだ。

 ドライバーが、思い出したようにエンジンキーに手をかけた。

 目線をイグニッションに落とした時だった。

 フロントグラスを打撃する音を聞いた。

 ドライバーのサイドグラスにも打撃音が響く。


 「バン、シュ」

 見上げたフロントグラスには、ピンク色の液体が広がっていた。

 攻撃された。そう思うと、ジャガーの中の若い男たちの動きが完全に止められた。


 ドライバーの目前がピンク一色の壁になっている。ピンクの目隠しで覆われた。

 ドライバーの顔色が変わった。

 目がつぶされた。

 目がつぶされて、見えなくなったにも等しい事態。

 運転ができないのだ。

 たとえ走り出せたにしても、100メートルも走らないところでメタリック・ジャガーが事故をおこすことは目にも見えるようだった。

 ハンドルを持ったままで、ドライバーが呆然と、仲間を振り返った。

 どうしようか? 声を発する間もなかった。


 ドライバーズシートのドアに何かを叩きつける。

 叩きつける音がドライバーズシートのドアで鳴る。

 車体が揺れる。

 その後ろのドアで音がする。

 音が車体を揺らしている。

 音と振動が車の中の3人を恐怖に叩き込んだ。

 口の中の悲鳴に身動きさえできなかった。


 ビンディをつけたショートパンツの少女が、車に手をかけた音だった。

 紙袋から出したゲル状の粘土のようなものを、ドアとボディの間に叩きつけている。

 リアシートのドア。そしてナビゲーション側のドアにもつけている。


 そして、フロントグラスの右サイドにくると、黒いゴムの吸盤をフロントグラスに叩き込んだ。

 ジャガーの中の若い男たちが、パニックに押さえ込まれ、次のアクションをおこせずに固まっている。

 ただ頭を抱えて、目の中の何かが収縮するのを実感するしかなかった。


 「おにいさんたち。わたし、シヴァといいますです」

 フロントグラスをスピーカーに声が少女の声が響いてきた。

 「おにいさんたち、悪いね。ビョウーキ。わたし達の車にボム、つけた。ボム、返しにきた」

 つけられた吸盤には振動板が装備されている。フロントグラスをラウンド・スピーカーにしていた。

 ドライバーには、少女がマイクを後ろに手渡すのが見える。


 ワイドカラー帽にフレアスカートのワンピの少女がマイクを取った。

 「こんにちは。みなさん。ごきげんは、いかがでしょう?」

 ピンクの粘膜の向こうに、ワイドカラー帽が見え隠れしている。

 「ローズマリー・ブローカーの鞠と申します。いただいた爆弾をお返しいたします。ドアにスイッチをつけましたので、外に出ようとしたり、車を動かしますと、お考えになったことが皆様のジャガーでおきます。高級車ですから、もったいないでしょうから、リアガラスを蹴破って、お尻からお出になることをお勧めします。では、きょうは、こちらで失礼いたします」

 

 吸盤がはがされると、ピンク色の粘液にドーナッツ型の穴があいた。

 ドライバーから、ふたりの少女が、手を振っているのが見えた。


 少女ふたりがジャガーを離れた。

 ビンディの少女、シヴァが右隣を見上げる。

 肩先に鞠を見上げた。

 にっこりと笑うと、右手を高く掲げた。


 鞠が小首を廻しながら、シヴァに微笑を返した。

 鞠が左手を微笑む目元まで持ち上げた。

 シヴァがステッピン・ジャンプで差し出された手を叩く。


 ハイタッチ。軽やかに手が鳴る。


 「シヴァちゃん、お疲れ様でした。ありがとう」

 「うん。マリさん。楽しかったよ」


 ハイタッチをしながら、鞠が目の前の建物を見上げた。


 新自由学園医学・薬学部の契約医療法人、特樹会養老養護施設紫苑会ホーム。

 医者のいる老人養護施設として上級を目指す、比較的リーズナブルな施設である。

 その6階の窓には、狼がいる。鞠が上げた、左手をひらひらと払った。 

 狼の姿が見えるように手を振っている。


 やがて後ろ手に胸をそらすと、ふたりとも大空に伸びをした。


 狼は、左目の意識を解いた。


 ドクターが出て行く、牧師もお祈りを終えて立ち上がっている。

 老婆。白髪の老婆が終末治療に、狼は立ち会っていた。

 老婆と狼に間には、老婆の娘が立っていた。

 「これが、お話ししていた香りです。それと、お客様のためにちょっとしたサプライズをお届けにまいりました」

 ポケットからガラスの小瓶とレコーダーを取り出した。



 狼は、何千ものオレンジのパピヨンが飛ぶビニル・カーテンで隔たれた向こう側に語りかける。

 オレンジのパピヨンの垣間に見える、白髪の老婆に届くように話しかけている。

 老婆が目線を狼に向けて頷いていた。


 老婆の口には、酸素マスク。音のない装置が、規則正しく心音を波形にして示している。

 蝶が舞う枕の上に白髪のロングヘアが広がっている。

 年齢を感じさせない肌とはいえないが、シミなどのない素顔で狼を見上げている。


 「ありがとうございます。この前のお薬……いえ香りでもとても楽になって……、母も喜んでいます」

 老婆の娘が両手を重ねて、頭を下げた。

 「お礼は当学園側が申し上げるべきこと。当学園としても、優れた技術をお試しいただけて心から感謝しています。学園を代表して、お礼を申し上げます」

 狼が、うやうやしく腰から上半身を倒した。ソバージュの髪が、頬にかかるほどに、恭しい礼だった。

 老婆が、首を左右に振り、狼の礼に礼を重ねて返しているようだった。


 狼の隣には、少女が立っていた。狼のお辞儀にあわせて、胸元に手を合わせて、異国の礼を返していた。

 持ち上げた眼差しには、すこやかな光が瞬いていた。

 ブラウンの肌に黒い髪を三つ編みに束ねて、大きな瞳の間に朱のビンディを飾り、白のロングTシャツにパールピンクのショートパンツ、深いガンジスの色をたたえた太腿から豊かな曲線に伸びていく膝先にはかわいらしいレースの彩のソックスとプーマのランニングシューズが添えられていた。


 「かわいらしいお嬢さん。インドの方、かしら?」

 「はい。インディア生まれの東間崎ヴィシュンヌ・アターともうしたりします。ジュニア、ノー……高校生です」

 「あら、日本語、おじょうずですね」

 「ありがと、ございまあす。ちょっと上手になってました」

 「ヴィシュンヌは化学の知識が深く、すでに一緒のクラスで学んでいるんですよ」

 「まあ、おいくつ?」

 「13歳です」

 「すごいわねぇ。とっても、えらいわぁ。ねえ、お母様?」

 老婆に話しをかける声に、僅かな赤みを増したようで、微笑んでいるようにも見える。

 ビンディの少女、ヴィシュンヌも赤くなって笑いを整った顔にたたえながら、もじもじと手を組んでお辞儀していた。


 「今野橋様の若奥様。さあ、この香りをお使いになってください」

 狼が呼びかけている娘さまも、すでに50歳以上になっているのだろう。

 白髪のお母様が持つ面持ちの似た顔、ブラウンに染めた髪をアップにまとめてカチュウシャで飾りながら、老婆を看護している

 

 「聖様、ありがとうございます。さあ、お母様。酸素吸入ポッドに入れます」

 ポッドの中から蒸気が立ち上がり、吸入器の中を満たしていった。


 5分ほどで、老婆の顔が豊かな色合いに変わっていく。

 額の緊張がほどけ、安らぎが漂い、血行がよくなってくるのが見える。

 

 「今野橋様、香りが満ちるまで、今日はちょっと嬉しいお話を手にしたので、お持ちしました」

 「何でしょう。母に関係することですか?」

 「はい。本日、朝のNMKラジオで読まれた手紙が、今野橋様のことと思われる内容でした。録音されていたものを放送局からもらえましたので、ここで流してみましょう」

  

 狼がデジタル・レコーダーの再生ボタンを押した。

 『……岩手のあっちゃんの娘さんからのおたよりです。こんにちは。お世話になったお姉さんにお礼がいいたくて、お手紙しました。ありがとうございましたを伝えたい。この手紙のお礼の気持ちが届くかどうか判りませんが、ぜひ一言ありがとうを伝えたくて、書きました。わたしの母さんが病気になって入院した時のこと。兄弟がいなかったわたしは、父さんとふたりで暮らすようになりました。私は小学生になったばかりで、父さんが遅くなれば、私ひとりでごはんを食べ、お風呂に入り、片付けて寝ていました。さびしくて、母さんと呼びながら、泣いて過ごしていました。ある日、夕方の公園、ひとりでブランコに乗っていました。一人の部屋に帰るにも帰りたくなくて、暗くなる公園にひとりでブランコに乗っていたのです。多分、ひとり、泣いていたでしょう。そこに通りかかったお姉さんが声をかけてくれたのです。私は、ひとりで家に帰り、ひとりで暮らすのがツライし、母さんのことを思い出しては泣いているんですとお話しました。一生懸命に働いてくれている父さんに、ひとりではさみしいと我がままを言うこともできずに、泣いているのだと話しました。すると、お姉さんが一緒に家に来てくれて、夕ごはんを一緒に食べて、一緒にお風呂に入ってくれたのです。わたしの名前を呼んでくれた。それからお姉さんは毎日来てくれました。雨の日も風の強い日も、お姉さんが一緒にいてくれたのです。時に、眠れない私の枕元でお話をしてくれた。あのお話、不死鳥の聖油のお話しは、まだ覚えています。お姉さんがやさしく添い寝してくれた。名前をよんでくれた。ひとりでも優しい気持ちにつつまれた。うれしかった。お姉さん、ありがとうございました。それから間もなく母さんが亡くなり、私と父さんは岩手に引っ越してしまいました。お姉さんとも、それっきりになってしまいました。それから、もう40年が過ぎました。長い時間が過ぎています。今野橋のお姉さんがどうされているのか、わかりません。お姉さんのおかげで、私も4人の子供の母となり、1人の孫に恵まれました。ただ一言、お礼が言いたくて、いいたくて。今野橋のお姉さんに聞いていただけるかどうか判りませんが、心からお礼を言いたかった。ありがとうございました。……40年後の御礼のお手紙、でした。岩手のあっちゃんの娘さんからのお便りでした。きっと今野橋さんに伝わったと思います……』

 

 狼がスイッチを切った。

 ヴァシュンヌが見守る前で、白髪の老婆が、両手で顔を覆っている。


 やがて自ら腕を動かして、ベッドのモーターを操作して、上半身を起こした

 「……ありがたいこと……。ああ、……うれしいこと。時が戻るようだよ……」

 老婆が涙で枯れた頬ぬらしながら、狼の顔を見上げていた。

 「そう……これは私のこと……、ああ、なつかしい。……元気だった……ありがたいことだ」

 老婆が手を合わせて、お祈りしていた。

 

 「お母様、お母様」若奥様が手を叩いて喜んでいる。

 「もう、起き上がれないと思っていましたの。まさか……まさか、おお」


 「聖家の……さすが……日本の薬の王家……見事です……心が潤う……」

 「今野崎様、やはり、そうでしたか。よいことは、時を越えて、胸を打ちます」

 「この香りに……、魂が入って……、感謝するよ」

 「少々かっこつけすぎました。いつもお婆様には高い試薬を買っていただいている、ほんの感謝の気持ちです」


 「ロウといったね……。聖家は千年をつなぐ薬司……の……家系だ。さぞかし良い薬をつくり……」

 「今野橋様。残念ながら、私は薬をつくっていないのですよ。お届けしているだけです。この香りの精製は学園の実験室、医学生と薬学部の精鋭によって作られているんですよ」

 「もったな……い……聖家なら……平城京の頃よりの……薬司……」

 「今野橋様、ありがとうございます。先代が聞いたら手をとって喜ぶでしょう。日本の薬司と言われた聖家の力も先代で最後。私は、単なる販売人。薬屋の運び屋です。ただただ、世界中の人の痛みを和らげる運び屋になろうと勉強しています」

 聖家の狼は、やさしい笑顔の中に、意志を込めて老婆に話しかけた。

 

 「聖家の、名を……ロウ、といった……ね。世界……ね。ここから……祈っているよ」

 白髪の老婆が、胸の前で手を組むと、福音の感謝を祈りに込めて狼とヴィシュンヌに謡っていた。


 祈りを受け取った狼は、いとまを告げた。


 若奥様に請求書の説明を行ない、お礼をいい、通路に出た。


 狼とヴィシュンヌに、鞠とシヴァのふたりが待っていた。

 鞠の両手には、柔らかな象牙のような風合いで麻のワイドカラー帽が下げられている。

 ピンクの雛菊とリボンを見て、狼は、すこしだけ表情を崩した。


 「やあ、鞠。シヴァ。ありがとう」

 狼は笑い、片手を上げて、よろこびの声でふたりとあいさつを交わす。

 シヴァとヴァシュンヌが、抱き合って、キスで挨拶している。

 「おかげさま。今野橋のお婆様には十分満足いただいた……」


 廊下に出た狼が、鞠に話しかけたところに、今野橋家の若奥様が追いかけて出てきた。

 狼に、白い封筒を差し出す。

 「本日は、ありがとうございました。母が、狼さんと3人の娘さんにと。お支払いも1.5倍にしておきます。母がこんなに元気になるとは……カンナビノイド治療をもっと早くから始めていれば……80歳になったばかりの若々しい母が、ガン治療の痛みと副作用でまるで100歳の老婆のようになって……」


 狼は手を振って断る。

 「若奥様。わたしたち一人ひとりへのお礼は不要です。お気持ちだけで結構です。1.5倍のお支払いはありがたくいただきます。これまでの1000万円をこえる治療と薬代。これだけで十分です。しかし……」


 狼は、握手をもとめ、今野橋の娘と別れの握手を交わす。

 「若奥様。新薬、……香りの話しをどなたにも話さないこと。これだけは必ず守ってください。そして、カンナビノイドの名前も出さないこと。今日、お届けした薬は、カンナビノイドとはまったく異なる生成方法と化学構造をもっている香りです。カンナビノイドの名前を軽々と口に出さないように……ご注意ください。麻薬取締官が皆様を逮捕しなくてはならなくなります。カンナビノイドの亜流種や乾燥されたものでも、日本では許されてなかった。大麻取締法にかかってしまう」


 言葉を切り、真顔で握る手にチカラをこめて若奥様に理を話しだした。

 若奥様の顔がみるみるこわばっていく。


 「ごめんなさいね。あまりに嬉しかったので。あんなに元気になった母を……お礼のつもりでした」

 

 「ええ、若奥様。分かっております。そのカンナビノイドに変わるのが今回お届けした、新しい香です。この新しい香は、痛みに悩む人々には、まさに希望であり、奇跡なのです。奥様のように、ガン治療には大変な苦痛が伴う。ガンだけじゃない。さまざまな痛みに苦しむ人は多いのです。痛みゆえに死さえも受け入れてしまう。最近は、機械を装具する例も多い。その機械装具にも大変な苦痛が伴うのです。痛みとの戦いは、この香で大きく変わっていくのです」


 「それだけに、狙われているのですね」

 「ええ、狙われています。患者なら嬉しいのですが……、暴力団、麻薬カルテル、常用者など。耳にした噂に追いかけてくる。まるで小瓶に世界中のハエがたかるように向かってきます」

 狼は、眉をひそめ、怖いという顔になった。


 「この場所にも、バカなやつらが飛び込んでくるかもしれない」

 「……嫌ですわ」

 若奥様の目の中に、真面目に怖がっている姿を確認して、手を離した。

 空の小瓶を出して、若奥様に見せた。


 「この香、多くの麻薬と違い、常用性がなく、鎮痛効果が変化することもない、幸福感や、向上感に満たされることも実証された。やがて、塗り、貼るだけで効果があるようにして、多くの痛みを抱える人のために製造したいと、研究者たちは情熱を注いでいます」


 「ぜひ、他言しないでください。新しい香は麻薬ではない。また、麻薬にはしたくない。カンナビノイドが治療に最善でも、麻薬にされたために多くの人々に利用されないようになった歴史をこの香では繰り返したくない。これは我が新自由学園が定めた理なのです。守っていただけないのなら……」


 言葉を切り、若奥様の目の中を確認するように覗きこんでいる。

 狼の目を避けるように、若奥様が下を向いた。

 「理解しています。ごめんなさいね。新薬としての完成と理の永続をお祈りしています」

 「ありがとうございます」

 狼が笑顔を取り戻した。


 狼とお客様が話し合っている間、シヴァとヴァシュンヌが抱き合って、今日の出来事をお互いの記憶と感情を重ねて報告しあっていた。


 鞠は、狼の背中で会話の成り行きを見守っていた。

 鞠は、あたたかな眼差し、微笑み。狼の後ろから、すべてを慈しむようだった。


 「香のご利用には、安全上、当学園の警備をつけます。あとでガーディアンから連絡させますので、よろしくお願いします」

 狼は、若奥様がホッと顔を緩ますのを確認して手を離した。

 もういちど、いとまを告げて、きびすを返した。


 「狼、よかったね。シヴァ、今野橋のお婆様、よろこんでいたよ」

 「本当の、ありがとう、をもらったんだね。ヴァシュンヌ、すごいね。よかったね」

 ヴァシュンヌが笑いながら声をかけると、シヴァも鞠も笑顔を返した。


 「よかったわ、狼兄様」

 「今日は、鞠とシヴァのおかげだ。安心して取引できた。あのジャガーの、何人いた?」

 「3人よ」

 「3人……か? 爆弾を仕掛けたヤツはいないな、多分。吐かせにいくか」

 「はい」

 狼が運び屋としての営業笑顔をしまい、いつもの冷淡な学生無頼の表情に戻り、突き放すように言葉を発する。さながら司令官のように。鞠は、ただ、ただ、やわらかいイントネーションと微笑を重ねて返事を返していく。さながら人に従うニンフのように。


「鞠、シヴァ、ヴァシュンヌ、行こう。仕上げだ」


 4人が階段を駆け下りていく。

 シヴァとヴァシュンヌが手を取り合って。

 軽く飛ぶようにステップからステップへと我先にと降りていく。

 狼は、シヴァとヴァシュンヌのふたりを追うように、駆け下りていく。

 鞠は、その後ろから落ちていく小鳥のように、追いかけていく。


 1階のフロアには、老人とその家族が初夏のデイタイムを楽しんでいた。シエスタのごとき、やすらぎの時間が広がっている。100インチ越えのプロジェクタにはヨーロッパ地中海の風景が広がり、ボサノバの調べがフロアを満たしている。


 ツインのラップ・ステップで切り裂いて、シヴァとヴァシュンヌが通り抜ける。

 狼は表情を消している。

 鞠は、出会う人に笑顔をかわして、通り過ぎていく。

 4人が通り過ぎた波紋も、すぐに元の戻されていく。

 なにごとも静に、変わりなく、元に戻されていく。


 駐車場に出ると、初夏の陽射しが白い海のようだった。

 メタリック・グリーンのジャガーは相変わらず、ピンクのインクをかぶって停まっていた。

 フロントグラスには、ドーナッツのマークがついている。


 「♪バラのドロップ、♪子ネコのヒゲ、♪ピカピカのケトル、♪あたたかな子羊のミトン、♪すべて私たちのお気に入り~」少女たちの声がハミングする。


 狼がたんたんと歩く。鞠が帽子をかぶると、小走りについていく。

 ふたりの耳に、静寂が飛び込んできた。

 5メートルほど先で、シヴァとヴァシュンヌが立ち止まった。

 握り合っている手をほどいて、立ち止まった。歌わない小鳥たちの姿に、狼と鞠は危険を感じた。


 三つ編みのブラックヘアに、白のロングTシャツにパールピンクのショートパンツが、狼の前で絵画のように佇む。振り返ると、狼と鞠に向かってきびすを返した。


 狼が、ふたりの間に声をかけた。

 「シヴァ、ヴァシュンヌ、何か、感じたのか?」

 「うん、ロウォ。おかしい」とふたりの声が重なりかえってきた。

 シヴァが答える。「わたし、貼り付けた。さっきのマーキングが、ちょっとだけ、違う」

 ヴァシュンヌがつづく。「わたしならトラッピング。そんなフィーリングが見える」

 「そうか……、かけあいだな」

 「近くで見ているでしょうね、敵のボンバーは。兄様、ガーディアンのポーターを呼びますか?」

 「鞠。頼む」

 鞠がアイフォンを取り出す。

 タッチング。緊急を伝える。


 突然、ジャガーのエンジンが息を吹き返した。

 轟々とリッタークラスにはないような、静かな重厚なエンジン音を響かせている。


 狼がまぶしさに目を細め、遠く、ジャガーに視点を移した。


 狼の背後、施設の出入口から、影が飛び出してきた。

 後ろから、鞠の悲鳴が聞こえた。


 「ロウさん……!」「マリさん! デンジャ……」

 シヴァとバシュンヌが駆け戻る。


 狼が振り返ると、鞠に組み付いている影が見えた。

 そして、目の前に迫る影が見えた。


 「鞠!」

 狼の精神に、スイッチが入る。


 背中の毛を逆立て、唇を両サイドに引き上げ、牙をむき出す。

 指先には金掻刃のような爪を立てて、腹部を中心に筋肉をやわらく引き締め、攻撃に移る。


 狼は、全身の動きをイメージした。

 飛びつく野獣の姿を思い浮かべて、精神を変化させた。

 

 「狼、にいさま~」

 

 狼は、見た。

 やわらかな鞠のワンピースに食い込む影の腕。

 まきつきながら、鞠の胸を抱えている。指先が鞠の胸のあたりを握り締めている。

 右手に、何かを持ち、鞠の頬に向けようとしている。


 狼の前にも影、1体。


 突き進んでくる影。

 両手で狼の両肩をつかみかかってきた。

 

 狼は引かない。一歩、踏み出す。

 影が駆け寄る。その動きに停まる気配がない。

 しかし、影が驚き、躊躇の色が顔に浮ぶのが見える。

 コンマ何秒の遅れがおこり、筋肉に迷いの遅れを引き出した。


 狼は、踏み出した脚力で、左手を腰から振り上げる。

 軽く握った掌の付け根、手首の根元部分を影の顎に向けて突き上げた。

 

 迷いに減速する影に、全力で加速する狼。

 コンマ秒の中に勝負が決した。


 影の顎に狼の左の掌底が食い込んだ。

 そして手首、肘、肩、そして体全体、そして、怒りの順でエネルギーを放出した。

 影の顔が跳ね上がり、暴漢の浅ましさを太陽の下にさらした。


 影の両手が狼の肩に触れた。

 しかし、その指先がつかんだのは、空気だった。


 狼の左手が引き戻される。

 後ろ向きに跳ね飛ぶ暴漢の横をすり抜けると、狼は大声を発した。


 「殺すな!」

 

 鞠は、突然背後からの羽交い絞めに驚きに、悲鳴を上げていた。

 目を閉じ、両腕を硬く閉じて、影の左腕から逃げようとしていた。


 反射的に体を丸め、逃げるために、体をよじる。

 鞠が、つかむ影の左腕を振り解きたいと抗っている。


 鞠は、ローファのヒールを影のつま先に乗せて、踏み込んでいた。


 影の右手に握られたスタンガンが持ち上げられて、

 鞠に向かって下ろされようとしていた。

 

 バジュ、バリリ、バリバリ。


 スイッチの入った電磁ブラスターの電極で火花が散る。

 影が電磁ブラスターを鞠に下ろそうとした時、

 脊髄神経を伝って、痛みの衝撃が駆け登ってきた。


 脳が痛いと思う前に、

 つま先の痛みに、影の肩と腕の筋肉がまたたきの間、硬直した。

 影の戦意が防衛にまわる。


 鞠は、影の左手が僅かに緩むのを感じた。

 踏みしめた左足、バックステップを開始する右足。

 回転を始めた両足の上で、腰を中心に上半身が回転を始める。

 鞠が胸に抱えた両手の握り拳を、

 自分の背後に向けて直線的に振り上げた。


 曲がっていた背筋を一気に縮める。

 鞠が握り締めた両手が、影の右肩を跳ね飛ばす。


 大腿筋と大臀筋、背筋の全力を乗せて、

 両手のこぶしが影の右頬に向かって振り出された。


 両手の拳が、影の頬に食い込む。

 影の右頬がつぶれ、顎が左に向かって歪む。

 脊椎を中心に鼻腔が空に向かって跳ね上がった。

 影の目だけが、鞠の帽子の色を追いかけ、陽射しの中に暴漢としての意識を飛ばした。


 「いやあ~あぁ」

 鞠が悲鳴を上げた。

 「動く……な……」

 暴漢が声を発した先には、青空があった。初夏の雲が浮んでいた。

 スイッチの切れた電磁ブラスターが、3メートル後ろに飛んでいくのが見えた。


 シヴァとヴァシュンヌのふたりが暴漢に駆け寄った。


 ふたりともショートパンツのポケットから、小さなスタンガンを取り出す。

 倒れた暴漢の首に飛びつく。

 馬乗りになって首に電極を当てた。

 そして、首に点けられた、首輪の機械に電圧をぶつけた。


 ガッ、ガガ、シュー


 暴漢の首輪に一瞬50万Vを越える電圧がかかった。

 シヴァとヴァシュンヌの手には、首輪の中で機械が壊れる手ごたえがあった。


 「ロウ、ダメだった。けど、まだ息がある」シヴァが顔を上げて、狼に報告した。

 「ロウ、こっちはダメ。ポイズンが入った」ヴァシュンヌが、狼に振り返り応えた。


 どこかで見ているボンバーが、起動させた。

 死人に口なし。ふたりの暴漢の首に毒の針が差し込まれ、そして機械が自爆する。

 最悪の執行機械だ。


 シヴァとヴァシュンヌの機敏な対処だった。

 だが、ボンバーの判断は、それ以上に早かった。


 ジャガーが走り去る。駐車場から消えていった。



 狼は鞠に向かって駆けた。

 「鞠! 鞠! 大丈夫か」

 (アジア系の売人……、なんでこいつらが……、強制されたにしても……)

 狼は、倒れた二人を見ていてクールに考えをまとめていた。


 「ロウ……大丈夫……」

 駆け寄る狼を感じて、鞠が崩れる。

 スライディングで右手を差し出す。

 狼は、地面に崩れ落ちる鞠の頭を受け止めた。


 「大丈夫か、おい、鞠、鞠」

 外傷はない。

 狼は、判断した。鞠が意識を失ったのは、急激な緊張と弛緩に、意識が切れただけだと。

 ため息をひとつで、思考を切り替えた。


 「オレに襲い掛かってきたヤツは、まだ生きているんだな」

 妹の鞠を、そっと下ろすと、ジャケットを脱いで、枕を作り、鞠の頭の下に置いた。

 そして、太陽に目を傷めないように、彼女の帽子で影をつくった。

 鞠の体を横にすると、鞠の気道を確保した。

 狼は、振り返る。

 

 「はい、狼」とシヴァが応える。

 「火傷ができたけど……、バット……」


 「鞠の敵は、ダメか……」

 バシュンヌが男の体から降りた。

 暴漢は体を痙攣させながら、のたうっている。

 毒が回っていくのが手に取るように判る。


 鞠が動いた。

 「狼、ありがとう。もう……、大丈夫……です」と鞠が起き上がろうとする。

 「いや、休んで……、車が来た。鞠、乗って待っていて。バシュンヌ、鞠を頼む」

 「はい」

 

 フォルクスワーゲンのシャラン・アンチテロリスト・スペックが急停車した。

 サイドドアが開いた。 

 ドライバーズ・シートから、サングラスの男が飛び降りてくる。

 「狼さん、鞠さん」「オレは大丈夫、鞠を頼みます。それと救急車、警察も……」


 痙攣してのたうつ暴漢を振り返らずに、

 自分を襲ってきた男に駆け寄った。


 シヴァが狼の目を見た。

 狼がうなずいた。

 シヴァが、鞠の元に駆け寄っていった。


 首輪の金属部分が焼けて、肉に張り付いている。

 顔を覗きこんだ。激痛に意識を失っては、また起き上がる。


 (多分、もうショックで……多分、もう時間がない)


 浅黒い肌、彫が深い、高く飛び出した鼻……、典型的なアラブ系アジアンの顔があった。

 昏倒させられ、首輪から焦熱を喰らい、周囲には肉の焼ける臭いが上がる。


 吐き気がした。

 これで4度、7人目。慣れてはきたが……、狼は別の意味で気分が悪かった。

 「おい、お前はなんていう名前だ。何しにきた?」

 うめき声を上げる男。やはり、助かりそうもない。 


 男は、うっすら目を開けた。

 「フェ……ニックス……、クリ……ズム。おぉ、ゴッド…………」


 暴漢の言葉が、母国の言葉に変わった。

 何を言っているのか判らない。狼の知らない言葉だった。


 狼は立ち上がった。


 

 

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