under heaven
「必ず、会いに行くね」
そう呟いた彼女の声は、ジェット機の騒音にかき消された。
田舎から東京へ出て行った彼女とは、最後に電話してからもう二年連絡がなかった。
何度、連絡しても、メールを送っても、手紙を送っても、会いに行っても彼女はそこにはいなかった。
煙のように、消えていた。
自然消滅。
そんな言葉が去年同じ空港の同じ展望台で空を見上げていて、ふいに浮かんできた。
悲しくはなかった。
もうその時になったら、彼女抜きの生活は徐々にだけど確立していったから。それほど悲しくはなかった。
洗濯をするのも一人だった。
料理を作る分は一人でよかった。
掃除をする部屋は一つ少なくて済み、残った彼女の部屋はもう物置部屋と化してしまっている。
洗濯物は、今日も少なかった。
ふと物干し竿に洗濯物を干しながら、晴れ渡った朝の空を見上げる。
仕事があるので、そう長い時間は見られないが、朝が昇るこの時間、この瞬間が私にとって毎日の日課だった。
空をよぎっていく飛行機雲。
毎日、絶えず、細長い雲は茜色に染まりきった空を横切っていく。
それは青空のキャンバスに真っ白な絵の具を無邪気に飛び散らせるよう。
そしてまっすぐに、他の何にも目もくれず、朝焼けの空の向こうへ飛んでいく、それは長い飛行機雲だった。
彼女も、あの飛行機に乗って空の向こうへ行ったのだろう。
夢を追いかけ、駆けまわって、どこかでようやくその夢をつかんだのだろう。
羨ましい。
私は未だにサラリーマンだ。
しがない、地面をただただ這って汗を流して、60の定年になるまでただただ無心で働き続けるサラリーマンだ。
君にとって、私はただの石ころなのだろう。
すまない。
私が情熱的で、君に少しでも夢を与えられたら、もう少しだけでも一緒にいられたのだろうか。
もう少しだけでも、同じ空を見ていてくれたのだろうか。
――目覚まし時計のベルが聞こえる。
もうすぐ六時。
出発の準備を済ませるため、私はマンションのベランダから踵を返してリビングに戻った。
洗濯物を干し、風呂を洗い、料理を作り、無心に食べて、そしてスーツをいそいそと体に着込みネクタイを締める。
いつもと変わらない、ルーチンワーク。
これを後何十年と続ける必要がある。
君は未だ空にいるのだろうか。
君のいる空の下は、まるで地獄だ。
同じことを延々と繰り返し、同じ日を延々と続けていかなければならない。
そして、時が来たら死ななければならない。
ここは地獄だ。
私はそんな世界で生きていかなければならない。
君が天に昇って僕は地に這って、それでも生きていかなければならない。
それでも、生きていこうと思う。
例え場所は違えど、きっと同じ空は見えていると思うだろうから。
今日の朝焼けは、とてもきれいだった。
君にそう伝えたかった。
「……行ってきます」
そう言って私は玄関の扉のノブに手を掛ける――
――トントントン……
こんな朝から、珍しい客がいたものだ。
時間は惜しいものの、私はノブを回して、玄関の扉を開ける。
「……た……」
同じマフラー。
大学時代、彼女が必死で編んで作ってくれたマフラー。
おそろいのマフラー。
今私がつけている、ピンク色の少し穴あきになったマフラーを、目の前の女性はつけていた。
ぎこちなく、微笑んでいた。
「――た……た……ただいまっ、了君」
彼女が、そこに立っていた。
「その、元気にしてた?私元気にしてたよ……二年もそのほっぽらかしにして……ごめんね」
「ようやく向こうで一区切りついたの。でっかい絵を描いたの」
「それでね……その……見てほしいなって思って」
「ごめん、ほんとにっ――その了君に甘えたくなるから……絵の勉強できなくなるから……」
「恋人やめてないよっ。ずっと私了君の恋人だよ、やめてなんてないからっ絶対っ」
今日は綺麗な朝焼けの空だった。
今にも天使が下りてきそうなくらい、青く澄んだ――
「ねぇ、ついてきてっ、了君見せたいのっ。一番最初にあなたに見せたいのっ」
「私が頑張ったこと、あなたに伝えたいっ」
また彼女は、私の手を握ってくれた。
それだけで、この地獄のような世界が、赤く色づいていく気がした。
ルーチンワークにバグが入る。
それは同じことの繰り返しだった世界をゆっくりと崩壊させ、新しく世界を塗り直し、作り変えていく。
君と共に、生きていく――
「ねぇ了君。今日も朝焼け綺麗だね」
「ずっと見てたよ、毎日見てた。了君が同じ空見上げてると思って、毎日……」
「――好きだよっ、了君」
私は口を開いた。
多分、彼女と同じ答えだった。
今日はとても、朝焼けが綺麗だった。
その茜は、ゆっくりと灰色の世界を真っ赤に染めて色づけていく、創造の光だった。、
太陽万歳っ。
一日一ショートで頑張ろうかな(*´ω`*)