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聖女をやめた夜

掲載日:2026/10/30

聖女をやめた夜


王宮の大聖堂は、冷え切った硝子の棺のようだった。


冬の月光が大理石の床に差し込み、乳香の煙が祭壇の上を漂っている。


「――セリア。貴様との婚約は、今この場で破棄する」


第一王子レナートの声が、聖堂に響き渡った。


祈りを終えたばかりのセリアは、ゆっくりと顔を上げた。


「……婚約破棄、でございますか」


「そうだ。祈ってばかりの陰気な女など、王妃にはふさわしくない」


王子の隣には、薄紅色のドレスをまとった公爵令嬢マリアンヌがいた。


彼女が掌をかざすと、薔薇の香りを伴う桃色の光が広がった。


「ご覧なさい。マリアンヌは傷を癒やす奇跡を起こせる。貴様はこの一年、何をした?」


「王国全土の結界を維持しておりました」


「また結界か! 見えもしないものに何の価値がある!」


セリアは荒れた両手を握りしめた。


十歳で聖女に選ばれてから十年間、彼女は毎夜祈り続けてきた。


北の山脈から押し寄せる瘴気を鎮め、魔物の侵入を防ぎ、大地の実りを守るために。


結界は眠っている間も働くが、毎夜補わなければ崩れてしまう。そのたびに、セリアの魂は少しずつ削られた。


「殿下。私の祈りが途絶えれば、王国は――」


「黙れ! 脅迫するつもりか!」


レナートは衛兵を呼んだ。


「この偽物から聖女の証を奪い、城外へ追放しろ!」


衛兵がセリアの胸元に手を伸ばした。


十歳のときに授かった銀のロザリオが、力任せに引き千切られる。


首筋に痛みが走り、赤い血が一筋流れた。


「まあ、お気の毒」


マリアンヌが扇の陰で笑う。


「でも、灰色の髪のあなたには、王宮より路地裏がお似合いですわ」


セリアは周囲を見渡した。


神官も貴族も、誰一人として彼女を庇わなかった。


十年間、彼女の祈りによって守られてきた人々だった。


「……承知いたしました」


セリアは静かに頭を下げた。


それ以上、何も言わなかった。


---


城門が閉ざされたとき、夜はすっかり更けていた。


薄い修道服一枚で放り出されたセリアは、凍てつく風に身を震わせた。


王宮の窓には、温かな灯がともっている。


今頃、新しい聖女の誕生を祝う宴が開かれているのだろう。


「……十年、だったわ」


幼い頃から、美味しいものも、綺麗な服も、朝まで眠ることさえ望まなかった。


自分が祈れば、誰かが平穏に暮らせる。


それだけを信じてきた。


セリアは胸に手を当てた。


魂の奥には、王国全土へ張り巡らせた無数の光の糸がある。


その一本一本が、彼女の命とつながっていた。


「……もう、いいのよね」


声が震えた。


「私も、自分のために生きていいのよね」


彼女は目を閉じ、光の糸を一本ずつ手放し始めた。


――プツン。


――プツン。


十年間背負い続けた重圧が、少しずつ消えていく。


だが、最後の糸に触れたとき、指が止まった。


王都には、何も知らない子どもたちがいる。


貧しい家で暮らす老人も、明日の仕事を心配して眠る人々もいる。


彼らには罪がない。


セリアは唇を噛んだ。


「……ごめんなさい」


それでも、もう自分の命を捧げ続けることはできなかった。


彼女は残された力を細く編み直し、民家と避難路にだけ、夜明けまで保つ小さな加護を残した。


それが、最後の祈りだった。


そして、王国を支える大きな楔を解いた。


――グォォォォン!


夜空に巨大な光の網が浮かび上がった。


十年間、誰にも見えなかった結界が、崩壊の瞬間だけ姿を現したのだ。


幾万もの光の糸が、硝子のような音を立てて砕け散る。


北の山脈から紫色の瘴気が押し寄せ、王都の警鐘が鳴り始めた。


セリアは振り返った。


悲鳴が聞こえる。


胸が痛んだ。


それでも、もう一度結界を張ろうとはしなかった。


「さようなら、レナート殿下」


彼女は涙を拭い、夜の街道へ歩き出した。


---


「――セリア様!」


馬の蹄が響き、黒塗りの馬車が急停止した。


降りてきたのは、北方を守る辺境伯アレン・ハインラインだった。


「王宮から追放されたと聞き、急いで参りました!」


アレンはセリアの首筋の傷を見て、顔を強張らせた。


「……あの王子は、なんということを」


彼は自らの毛皮の外套を脱ぎ、セリアの肩に掛けた。


温かさが、凍えた身体に染み込んでいく。


「アレン閣下……私はもう聖女ではありません。結界も解いてしまいました」


「存じています」


「北方の砦にも、危険が迫るでしょう」


「砦には兵も防壁もあります。貴女が守ってくださった十年間に、私たちは備えることができました」


アレンは静かに膝をついた。


「前線の兵士は皆、知っています。魔物の群れを退けていたのが、貴女の祈りだったことを」


セリアの瞳が揺れた。


「……知って、いたのですか」


「はい。そして私は、貴女が王宮で苦しんでいると知りながら、何もできませんでした」


アレンは悔しそうに目を伏せた。


「もっと早く、お迎えに来るべきでした」


「そんな……閣下は悪くありません」


「それでも、後悔しています」


彼は顔を上げた。


「セリア様。どうか、我が領地へ来ていただけませんか」


「でも、私にはもう、何も……」


「何もしていただかなくて結構です」


アレンは優しく微笑んだ。


「暖炉の前で温かなスープを飲み、好きなだけ眠ってください。貴女が笑って暮らせる場所を、用意したいのです」


「……私が、何もしなくても?」


「はい」


「祈らなくても?」


「はい」


「それでも、ここにいていいのですか」


「もちろんです」


セリアの目から、涙があふれた。


十年間、誰も言ってくれなかった言葉だった。


「……私、朝まで眠ってみたいんです」


「ええ」


「それから、蜂蜜の焼き菓子を食べてみたい。子どもの頃、母が作ってくれたような……」


アレンは笑った。


「では、明日の朝に用意しましょう」


セリアも、泣きながら笑った。


彼が差し出した手を、今度は自分の意志で取った。


---


馬車が北へ走り出した。


遠くの王都では、まだ警鐘が鳴っていた。


レナートは今頃、マリアンヌに結界を張れと命じているかもしれない。


けれど、もうセリアの知ることではなかった。


「お休みください、セリア様」


アレンが言った。


セリアは外套にくるまり、目を閉じた。


胸の奥には、もう結界の痛みがない。


誰かのために祈らずに眠ることが、少しだけ怖かった。


けれど、馬車の揺れは優しかった。


「……おやすみなさい」


そう呟いて、セリアは十年ぶりに深く眠った。


翌朝、宿場町の小さな部屋で目を覚ますと、窓の外には雪が降っていた。


卓上には、湯気の立つミルクと、蜂蜜を塗った焼き菓子が置かれていた。


ひと口かじる。


甘かった。


母の味とは少し違ったけれど、胸がいっぱいになるほど美味しかった。


誰も祈りを命じない。


誰も奇跡を求めない。


ただ、静かな朝がある。


セリアは窓を開けた。


雪の向こうで、東の空が淡く輝き始めている。


十年間、誰かの明日を守るために生きてきた。


けれど、今日という日は、自分のものだった。


「……今日は、何をしようかしら」


セリアは微笑んだ。


その問いに、答えを命じる者はもういなかった。





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