こちら転生検疫所
「次」
書類を受け取る。先ほどまで延々と処理してきた定型フォーマットの束とは、親指の腹に伝わる厚みが明らかに異なる。一般的なコピー用紙の滑らかさはなく、どこか無骨で繊維が粗い。印字されたインクの乗り方も、均一なレーザープリントというよりは、古い出力機を通したような微かな滲みがあった。
享年四十三、心疾患。A4サイズの定型フォーマット、その右上には黒枠で囲まれた『通常転生』の文字が明朝体で印字されていた。記憶消去済み、加護なし、祝福なし。視線を上から下へ瞬時にスキャンし、緑のAPPROVEDスタンプを押す。
「はい、次」
享年八、交通事故。通常転生、確認事項なし。視線は氏名や生前の来歴には向かわない。私にとって必要なのは、紙面の下部に並ぶ七つのチェックボックスすべてに印が入っているかどうか、ただそれだけだ。一瞥して右へ流す。
「次」
享年九十一、老衰。
「はい、次」
享年六十七、病死。
手元のトレイには、緑の印が押された書類が重なっていく。
だが、視界の端に積まれた未処理の山はまだ減らない。それどころか、背後を行き来する補助員が台車から新しい束を定期的に補充していくため、少しずつ高さを増している気さえする。通常転生の書類までこの窓口に回ってくる時点で、平時ではない何よりの証明だった。本来なら別フロアの自動処理ラインに乗るはずの膨大な案件が、こちらのデスクを完全に埋め尽くしている。紙の粉っぽさとインクの匂いが混ざった空気の中、ただ腕だけを動かし続ける。こういう日はろくなことがないが、規程は感想を求めない。
後ろでドサリと分厚い束が置かれる音がした。私は視線を上げないまま、左手だけを伸ばして一番上の用紙を引き寄せる。
「はい、次」
享年三十八、病死。通常転生。視線を下へ走らせ、ピタリと止める。記憶消去——未処理。担当部署のチェック漏れである。スタンプを持つ右手を止め、その書類を左側の差し戻し棚へ放り投げる。色を持たないクリアファイルに挟み、担当部署に戻して後処理をさせるだけの、ごく軽微なエラーにすぎない。
「次」
享年二十二、事故死。
ふと、デスクの隅にある処理件数のカウンターを一瞥する。液晶表示は『二九七』を示していた。始業から一時間でこの数字だ。通常なら百件前後、多くても百五十を越えないペースである。周囲のデスクからも、絶え間なく紙の擦れる音と、重いスタンプが机を叩く単調な振動が伝わってくる。
「はい、次」
享年五十一、病死。
「次」
手にした用紙は、少しだけ分厚かった。バーコードを読み取るまでもなく、上部のヘッダーが赤い。担当神、G級908-1140-6627号。定型とは異なる、異世界転生申請のフォーマットだ。転生先は第四層Cランク世界と記載されている。申請スキル欄には《槍士》の文字。裏面をめくって補助加護の項目を確認するが、世界水準に対して微小なものだった。チート判定の閾値には遠く及ばない。問題なし。規定内、通過。
緑の印を捺し、右へ流す。
私は主任検査官で、普段は後方にいる。業務内容は照合、差し戻し、規程改訂といった管理作業が主だ。こうして最前列の窓口に座るのは、人手が圧倒的に足りない時だけである。それが今日は、朝礼の時点から全七十席のブースが完全に埋まっていた。見習いの補助員まで前に出ているところを見ると、全数検査措置はまだ解除されていない。前回の一件以降、見込みは立っていない。
例外だけを捌いていられた頃の話は、もう長い。
「はい、次」
疫病か、戦争か。あるいは大規模な列車事故でも、客船の沈没でも、建物の崩落でもいい。下界で何が起きているのか、原因を考えたところで目の前の書類は減らない。魂は絶え間なく流れてくる。こちらは欄を確認し、印を分けるだけだ。
「次」
享年七十九、老衰。通常転生。通過。右へ。
背後でまた新しい束が置かれる。補充のペースが先ほどよりも早い。デスクの上の無機質な蛍光灯が、際限なく増殖する白い紙の山を照らしている。空調の低い唸りが、耳鳴りのように鼓膜を撫でる。
私は機械的な動作で、次の書類へ手を伸ばす。
指先に触れた感触が、今までと違っていた。ざらついた、まだ見慣れない紙質だった。
書類を受け取る。紙が少し厚い。
視線を少しだけ上げると、カウンターの窓口の前に立っているのは、制服姿の少年だった。生地の質感からして、指定の学生服だろうか。肩から提げたナイロン製の鞄を両手でしっかりと抱え込んでいる。よく見れば、農業高校のものらしく、袖口の生地がわずかに擦り切れている。カウンターに控えめに置かれた手は日差しで黒く焼け、短く切り揃えられた爪の間に微かな土の跡が残っていた。
「次」
少年が小さく返事をする。喉の奥で鳴ったような、かすかな声である。
私は手元の紙面に視線を落とし、いつも通り機械的に欄を追う。
享年十七、事故死。右上のヘッダーは鮮やかな赤枠で囲まれており、特例処理の区分に分類されていることを示している。中段のチェックボックスへ視線を滑らせる。異世界転生申請、第六層Cランク世界。記憶消去——未処理。
担当神の欄に印字された数列を確認する。G級401-2885-6614号。
申請スキル、《農夫》。
印字された文字の上を、ペン先でなぞるように視線を動かす。記載されている項目が多い。異世界転生に、特殊スキルのチート付与、さらに前世の記憶保持。これらが単独で現れることは珍しい組み合わせでもないが、全てが揃っているとなれば、全数検査措置下でなくとも審査対象となる。とはいえ、申請されたクラスが《農夫》ならば、緑のAPPROVEDを押して終わる書式である。
周囲からは、絶え間なく紙の擦れる音と他の検査官が書類を捌く単調な音が響いている。右手を動かし、所定の位置にあるスタンプの持ち手へ指をかけた。
出力値。
手が止まる。
スタンプの柄を握り込んだまま、数秒だけ呼吸を置いた。見間違いの類ではない。数値を見直し、確認のために、もう一度、書類の欄を一番上から追い直す。
担当神番号、G級401-2885-6614号。
申請スキル、《農夫》。
そして、出力値。
桁が一つ多い。
枠線内に収まるべき数字の列が、上限欄ぎりぎりまで隙間なく並んでいる。古いプリンターの印字の癖でもなく、手書きによる記載ミスでもない。デジタルで正確に出力された、明確な異常値である。目を凝らして裏面の補助加護欄を確認するが、そちらは完全に空白だった。持込祝福もなし。余分な付与項目が、別紙や見えない裏側に隠れているわけでもない。
何だ。
私は書類を伏せず、そのままゆっくりと視線を上げて少年を見る。少年はカウンターの前に立ったまま、鞄の持ち手を両手で強く握っている。
「あの……何か……」
「少々、確認します」
「はい」
少年の短い返事を聞き流し、私はもう一度、手元の出力値を見る。何度見ても、印字された数字の羅列が減ることはない。
《農夫》で、これはない。
スタンプはまだ机の上にある。緑のまま、押されていない。
私はスタンプから静かに手を離し、保留棚へ手を伸ばした。
書類を保留棚に差し込み、次の束ごと、隣のデスクの補助員へ向けて寄せた。
「こちら、少し外します」
補助員は手元の作業を止めることなく一度だけ頷き、すぐ次の死者から定型フォーマットの申請書を受け取る。窓口は止まらない。そのための人数配置だ。
私はパイプ椅子から立ち上がる。
「こちらへ」
少年が鞄の持ち手を握り直し、小さく「はい」と返ってきた。
順番を待つ死者たちの列の横を抜け、検疫所フロアの奥へと向かって歩き出す。緑の印が絶え間なく押され続ける机の群れから離れるにつれ、紙の擦過音やスタンプの重い振動が少しずつ遠くなる。窓口の裏手へ続くのは短い廊下である。無機質な白い壁もリノリウムの床も表の空間と何も変わらないが、ざわめくような人の声だけが急速に減っていく。振り返ることはしない。少年は私の斜め後ろを黙ってついてくる。靴音がひとつ分、遅れる。
短い距離を歩き終え、何のプレートも掲げられていない突き当たりの金属扉を押し開ける。
精査室。
部屋の中央に置かれた無機質な机、壁際に並ぶ計器、記録棚、確認待ちの書類。窓口のざわつきは、ここまで来ない。空調の微かな稼働音だけが室内を満たしている。
私は中へ入り、手にしていた少年の申請書を机の上の定位置に置いた。
「そこに立ってください」
私は壁際の計器の前を示す。少年は鞄を両手で抱えたまま、指定された黒いマットの立ち位置へと一歩だけ前に出た。
私はデスクにある金属製のコントロールパネルに向き直り、読み取り用のスロットへ少年の申請書を差し込む。微かな機械音とともに用紙が吸い込まれ、光学スキャナの赤いレーザーが走り、照準を印字された識別欄に合わせる。《農夫》。通常であれば、測定器のアナログ針はほとんど動かない。このシステムで測定されるのは、せいぜい下層エリアにおける土壌適性や、気候変動に対する軽微な収量補正、その程度の微細なエネルギーの波動だけである。
起動。
機械の奥から、重い歯車が噛み合うような低い駆動音が響き始める。パネルを覆うガラスカバーの向こう側で、ゼロの目盛りを指していた白い針が一度勢いよく右へ振れ、そのまま止まらない。
振り切る。
メーターの限界値に叩きつけられた針が細かく震え続け、チカチカと警告灯が点灯する。同時に、液晶盤面の出力数値が九桁の上限欄で激しく明滅を始めた。ピー、ピーという電子音が無機質な精査室に鳴り響いている。少年はその計器の前で立ったまま、何も言わない。
私は手元の端末のキーボードを操作して明滅する表示をサーバーのログへ記録し、スロットから吐き出された申請書を開き直す。印字された文字列を上から下へと再度なぞっていく。担当神、G級401-2885-6614号。申請スキル、《農夫》。
発動範囲欄。
空欄。
普通は書く。自分の畑のみ、あるいは所有地限定、家畜が放牧されている範囲まで。空間や対象を厳密に制限するそういう線引きが必ず記されている。それがない。
視線を下へ滑らせると、下段の備考欄にだけ、定型フォーマットの黒い印字にはない、丸みを帯びたブルーブラックのインクの手書きがあった。
※真面目な子なので、特別に
横に、担当神の署名。
私はキャスター付きの椅子を後ろへ滑らせ、背後の記録棚から特例の分類名簿を引き抜く。ハードカバーを開き、薄い紙のページをパラパラと繰って索引の項目を探す。《農夫》の基本定義から、特殊条件、補助加護、そして派生項目へと、規則的に並ぶ文字列の上を指先でなぞっていく。
指が止まる。
《大地母神の加護》
神話級。輸入規制品目A類。
なるほど。
私は名簿を開いたまま立ち上がり、壁の通信装置のボタンを押す。
「G級401-2885-6614号。至急こちらへ」
短い沈黙。
計器の前に立ち尽くしていた少年が、ようやく口を開く。
「あの……僕、何か……」
「確認事項です。少し待ってください」
「はい」
数分もしないうちに、静かな廊下の向こうで、パタパタという軽い足音が跳ねた。規則的に床を打つ検査官たちの硬い靴音とは異なる、軽快なリズムである。
扉が開く。
「はぁ〜い、呼ばれて来ましたぁ〜。あれ? この子、何かあったんですかぁ〜?」
ふわりとした甘い声が先に入ってくる。プラスチックの番号札を胸に下げた女神が、軽い調子で首を傾げた。その表情に、業務上の呼び出しに対する緊張感はない。
私は申請書をそのまま差し出す。
「G級401-2885-6614号。申請スキル《農夫》の実態は《大地母神の加護》。神話級、輸入規制品目A類です」
「えぇ〜?」
女神は手渡された書類の文字をのぞき込み、すぐに笑った。
「そんなぁ〜。可哀想だと思って、ちょっと盛っちゃってぇ〜。えへへ」
少年の指が、鞄の持ち手を強く握る。
「ちょっと、ではありません」
私は分類名簿を開いたまま机の端に置く。
「このスキルは、害獣認定の範囲に制限がありません」
「……え?」
少年の声だった。女神はまだ笑っている。
「え〜、でもでも、畑を荒らす猪さんとか、そういうの退治しやすい方が便利じゃないですかぁ」
「対象者が害と認識したものは、すべて駆除対象になります」
「えへへ、真面目な子ですから、そんな使い方しないですよぉ〜」
「魔王でも、です」
女神の笑顔が一拍だけ止まる。
「……えぇ〜?」
「害と認識すれば、です。範囲制限がありません」
少年が小さく息を飲み、何か言いかけてやめた。視線だけが書類と女神の間を往復する。
女神は頬に指を当てたまま、少しだけ声を落とす。
「でもぉ……悪いことに使う子じゃないですしぃ」
「規程は性善説を採用していません」
机の端、赤いスタンプが視界に入る。
私は申請書を閉じた。
机の端から、赤いスタンプを手に取る。私は一度閉じた申請書を再び開き、机の中央へ置き直した。印字された文字列に、確認のため最後の一瞥をくれる。担当神番号、G級401-2885-6614号。申請スキル、《農夫》。
迷う欄はない。
私は印を捺す。
赤いDENIED。
インクが紙の繊維に深く沈み込み、申請書の中央に、はっきりとした拒否の文字が残る。
少年の指先がわずかに動いた。女神は書類の赤い文字をのぞき込み、口を小さく開ける。
「えぇ〜……ほんとにダメですかぁ〜?」
私はデスクの引き出しから、厚みのあるバインダーに綴じられた規程集を取り出し、目当てのページを開く。
「転生魂付与規則、第47条第3項。輸入規制品目A類の付与には、事前申請および安全検査を必須とする」
頁をめくる。
「同条第5項。未申請の付与は無効。発見時は差し戻し、担当神立会いのもと再審査」
女神が落ち着きなく視線を泳がせる。
「でもぉ、悪いことに使う感じじゃないですしぃ……」
「規程は使用感ではなく分類で判断します」
短い沈黙。
計器の前に立ち尽くしていた少年がようやく声を出す。
「あの……僕は……」
「担当神にお聞きください」
私は規程集を閉じる。バインダーの金具が軽く鳴った。
「GOD級——ではなく、G級401-2885-6614号。本申請、差し戻します」
女神の肩が少し下がる。
「そんなぁ〜……」
「担当神と共にお戻りください。再申請の手続きは担当神が行います」
「はぁい……」
ふわふわした返事だけが、少し低い。
女神は少年のほうを向く。
「じゃあ、いったん戻りましょ〜。だいじょうぶですからねぇ」
少年は鞄の持ち手を握り直し、女神の言葉に小さく頷く。
机の上には、赤いDENIEDが残っていた。
女神が軽い足取りで先に扉へ向かう。
「こっちですよぉ〜。再申請、ちゃんとやりましょ〜」
少年は書類のない手を見てから、鞄を持ち直した。小さく一歩、女神の後へと続く。
扉が開き、廊下の空気が少しだけ流れ込む。
敷居をまたぐ前で、少年が振り返る。
何か言いかけるように、唇がわずかに動く。声にはならない。
私は彼らの動作を見送ることなく手元のバインダーを引き寄せ、業務用の記録簿を開く。精査番号、担当神番号、差し戻し理由。所定の欄へ黒いインクで文字を書き込んだ。
視線を上げる。
一瞬だけ合う。
それだけで終わる。
少年はそのまま無言で外へ出て、廊下を歩く女神の足音が次第に遠ざかる。
扉が閉まる。
空気の微かな流れが断たれると同時に、警告を発していた計器の駆動音も止まり、部屋は静かになる。
私は机の中央に置かれたままの、DENIEDの書類を定位置の処理済み箱へ入れた。透明なファイルの中に、拒否を示す赤い印だけが残る。
次の束を取りに、立ち上がる。
精査室の重い金属扉を閉め、廊下へ出る。
無音の空間に満ちていた静けさは数歩で終わる。検疫所フロアの熱気と、ざわついた窓口の声が戻ってくる。紙が擦れ合う音、機械的な呼び出し、補助員たちの硬い足音。短い廊下を抜けて、先ほどまで座っていた最前列の席へ戻る。
「代わります」
声をかけると、代理で処理を進めていた隣の補助員が一つ頷き、無言のまま横へずれた。私は自分のデスクのパイプ椅子に座り直し、左側にうず高く積まれた次の束を受け取る。
「次」
A4サイズの定型フォーマットを、左手で引き寄せる。享年五十九、病死。通常転生。視線を上から下へと瞬時にスキャンし、下段の特記事項が空白であることを確認する。右手でスタンプの柄を握り、押す。
緑の印。
「はい、次」
享年三十三、事故死。通常転生、記憶消去済み。右のトレイへ流す。
「次」
指先に触れた用紙の、少しだけ分厚い感触。上部の赤いヘッダーに目を走らせる。担当神、G級774-2051-3908号。異世界転生申請、第二層Dランク世界。申請スキル《漁師》、水適性、平均。規定内。
通過。
「はい、次」
享年八十二、老衰。スタンプを握る手首の角度も、紙を右へ流すリズムも、朝から何一つ変わらない。
緑の印が並ぶ。
ふと、デスクの隅に置かれた処理件数のカウンターを一瞥する。三四二。私が席を外して別の処理を行っていた間にも液晶の数字は回り続けていたというのに、視界の端にある未処理の山は減るどころか増えている。背後を振り返るまでもなく、台車に乗せられた補充の束はまだ後ろにある。
今日は長い。
だが、規程に終業希望欄はない。
私は周囲のデスクから絶え間なく響く重いスタンプの振動を感じながら、次の書類へ手を伸ばす。
「はい、次」
手元のトレイには、緑の印が並ぶ。
魂は絶え間なく流れてくる。こちらは、書類を捌くだけだ。
「次」




