『男性をうまく転がすのが淑女のたしなみ』と言われましたけど、ホントですか? 見下されているだけで、転がせてないですよ。
登場人物
リーネ・ヘーゼル:天才、けれど生まれた国が悪すぎた。
オクト・リヒテン:リーネの婚約者。ダマルト公国の「普通の男」。品がないし、浮気もしているけれど、それもこの国の「普通」。
ライアス・ブラント:公爵家の御曹司。家の仕事(外交)と研究の両方をこなすハイスペックな青年。気遣いもできる。
「お前がこんなもの作って、どうするつもりだ?
嫁入り道具にもならないだろ」
私――リーネ・ヘーゼルは笑いものにされていた。
誰に?
婚約者のオクト・リヒテンによって。
「女なんてどうせ子供を生むのだけが仕事なんだから、こっちが生ませたくなるようにもっと別のコトを勉強しろよな」
ここは王都の貴族学院。
魔導回路の実習室だ。
オクトの発言はあまりにも品がなかったけれど、男子たちはゲラゲラと笑っている。
女子は苦笑するだけ。
それがダマルト公国の当たり前だ。
昔から、好きじゃない。
婚約者のことも。
この国のことも。
「女が魔導回路なんか上手にできてどうすんだよ。意味わかんねえ」
婚約者は半笑いのまま、私が作った魔導回路を弄んでいた。
左手から右手、右手から左手。
投げて遊んでいる。
……やめてほしい。
せっかく集中して作ったのに。
現在、私たちの生活は魔道具というものによって支えられている。
暖炉から街灯、遠距離通信装置などなど。
そこに組み込まれているのが魔導回路だ。
回路には複数の魔石がセットされ、互いに共鳴して出力を高め合う。
けれど――
私が考えた回路なら1つの魔石だけで出力を20倍にできる。
突き詰めていけば100倍、200倍のエネルギーを生み出せるかも。
個人的には、世紀の大発明なんじゃないか、と思ってもいる。
ただ、この場にいる誰ひとりとしてその価値を理解してくれなかった。
教師も「なんだか複雑なものを作ってますから、少し成績に加点しておきますね」と当たり障りのないコメントをするだけ。
「おっと!」
ゴン!
オクトの手が滑って、私の作った魔導回路が床に落ちた。
衝撃で魔石が外れ、回路板が粉々に砕ける。
……壊れた。
私の自信作が、たった一瞬で。
「おいおい、脆すぎだろ! ウケるんだが! ははははっ!」
何が面白いのか、オクトはまるで猿のように手をパンパンと打ち鳴らして大笑いした。
「仕方ねえ、俺が捨てておいてやるよ。感謝しろよな、リーネ」
彼に悪気はない。
婚約者に代わってゴミを捨ててやったえらい俺、と本気で思っている。
オクトがおかしいわけじゃない。
これが私の国--ダマルト公国の「当たり前」だ。
◇◇◇
月に一度の、学園舞踏会。
広間にはシャンデリアの光が散っている。
磨かれた大理石の床。
楽団の音色と、令嬢たちの笑い声が、高い天井に吸い込まれていく。
オクトの隣に立っている。
隣、と言っても三歩は離れている。
彼は別の男子たちと談笑中で、こちらを見ない。
これが普通だった。
「まったく、うちのリーネには困ったもんだ」
不意に名前を呼ばれた。
オクトの顔は、まだ向こうを向いたままだ。
「嫁入り道具にもならない魔導回路になんかに夢中になっている。変な奴だよな」
周囲の男子たちも頷き、笑っている。
私が好きなことを頑張っても、この国では「女」「嫁」「妻」という軸でしか評価されない。
いたたまれなくなって、そっとオクトの傍を離れる。
そこに1学年上の先輩令嬢がそっと近づいてきた。
「ねえ、リーネさん」
声が低い。
内緒話の声だ。
「オクト様に思うところがあるみたいだけど、顔に出してはいけないわ。
笑って受け流して、男の人を上手に転がすの。常識よ」
本人は慰めているつもりなのだろう。
他の人にも同じようなことを何度も言われてきた。
けれど、納得できない。
うすっぺらい現実逃避にしか思えない。
見下されていることから目を逸らすために――
自分は相手をコントロールしている、なんて幻想に縋っているだけでは?
さすがに口には出さない。
言えば、きっと大問題になるから。
帰り道、制服のポケットに手を入れた。
指先に、小さな硬いものが触れる。
翡翠色の魔石。
オクトに壊された円盤から、これだけ拾っておいた。
彼と結婚したら、次に壊されるのは円盤じゃなく私自身だ。
そんな確信があった。
◇◇◇
「男はそういうものだ。
女なのだからうまくやれ」
お父さまは書斎の机に向かったまま、顔を上げさえせずに言った。
私は意を決して相談したのだ。
オクトさまに毎日のように侮辱されている、辛い――と。
けれども、理解も共感もない『アドバイス』だけが返ってきた。
「リーネ、いつも言っているでしょう?
男の人を受け止めてあげるのが淑女のたしなみなの。
貴女は我慢が足りないわ」
書斎にいたお母様も、私の味方ではなかった。
「ところでリーネ、最近はずいぶん難しい学問に熱中しているみたいね。
そういうのはよくないと思うわ」
「その通りだ。小賢しい女は嫌われるものだ。
女は男を立ててこそ幸せになれる」
お父さまがようやくこちらを向いた。
ただ、その瞳は私を咎める色をしていた。
「最近は外国かぶれして、夫の浮気がどうのこうのという若い令嬢も増えているらしい。
それくらい受け止めるのが女の役割だ。おまえはそうなるな」
「本当ね、男の人はちょっと遊んでいるくらいでちょうどいいのに」
ダメだ。
前々から知っていたことだけど、話にならない。
そもそも浮気どうこうは私の話と無関係だ。
どこかで小耳に挟んだことを言いたかっただけだろう。
「……失礼しました」
言葉を呑み込んで書斎を出る。
自室に戻り、扉を閉めた。
拳に力が入った。
歯が噛み合って、奥歯が軋む。
世界中のすべてが敵に思えた。
誰も助けてくれないなら――
自分で戦うしかない。
◇◇◇
最初に始めたのは、私が考えたあの魔導回路をもう一度作ること。
名前は……『グルグル回路』としておこうか。
センスが微妙だけど、分かりやすくはあるはず。
魔石をぐるぐると取り囲むように回路を走らせると、出力が上がるのだ。
時間があればひたすら技術室を借りて取り組んだ。
1度登った山を2度上るのは簡単。
そんな言葉があるけど、確かに本当だ。
「……できた」
たった数日でグルグル回路は完成した。
しかも前回より精度が高い。
通常の50倍の出力、これひとつで学園中の空調魔道具を動かすこともできる。
私、やっぱり天才では……?
とはいえダマルト公国にいたままじゃ才能を確かめることもできない。
いちかばちかグルグル回路を片手に、アルヴェント王国の大使館に飛び込んだ。
あの国は魔道具分野でトップクラスの技術力を持っている。
今は研究者が何人か来ているそうだから、私の回路の価値を分かってくれるかもしれない。
「……これは面白い!」
衛兵に捕まりかけたりもしたけど、当初の目的は達成できた。
大使館には研究者はいなかった(冷静に考えればそれはそう)けれど、外交官の人は魔導技術にも詳しく、グルグル回路を見てくれたのだ。
「本来ならその才能は自分の国に生かすべきだろう。
けれど、女性だと難しいかもしれないね」
そう言ってくれたのは長身の、蜂蜜色の髪を持つ男性だった。
名前は、エルク・ブラント。
――後に私が『義兄さん』と呼ぶことになる人だ。
「君が望むならアルヴェント王国の研究機関に紹介状を書こう。
ただ、さすがに密入国はできないから出国の許可は取るようにね」
ちなみに私の行動というのは国際問題に発展しかねない暴挙だし、それは理解していた。
ダマルト公国の外交関係がズタズタになったとしても、別に構わない。
実家から勘当されて婚約も破棄されるだろう。むしろ望むところ。
そんなことを考えてしまうほど、当時の私は追い詰められていた。
◇◇◇
「結婚する前に、一度だけ試させてください」
エルクさんに紹介状を書いてもらったあと、私はすぐにお父さまのところへ向かった。
「アルヴェント王国の研究機関に、紹介をいただける方がいます。
自分の力が外で通用するのか、確かめたいのです。
これが終わったら、女らしくなりますから」
プライドを投げ捨てての、一生に一度の演技。
いかにも「ダマルト公国の男」が好きそうな、慈悲を乞う女性のフリをする。
「……まあ、いいだろう」
お父さまはフンと鼻を鳴らした。
あからさまに私のことを見下している目つきだった。
……親である以前に「男」なのだ。
この国の父親は、みんな。
「向こうで身の程を知れば、目が覚めるかもしれんな」
娘が現実にぶつかって、挫折して、帰ってくる。
そういう筋書きがきっと頭の中にあるのだろう。
お母さまへの説得は必要なかった。
父親が頷いたなら、それが家の決定になるから。
いちおう、どんな反応だったかだけ紹介しておく。
「女の子が外国に行くなんて……」
それだけ。
物事を考える基準が、男か女かしかない。
この国は、女性が男性を転がしてる?
違う。
みんな、性別に転がされてる。
次はオクトの説得。
まだ結婚してもないのに『未来の夫』の許可が必要なのだろうか。
「留学? 別にいいが、そのあいだに俺が何をしてても文句を言うなよ」
そういえば、彼は2学年下の令嬢とコソコソ逢引していた。
浮気の免罪符を手にしたような気分なのだろう。
口元がニマニマと緩んでいる。
「まあ、考えてみれば悪くないな。
婚約者がアルヴェント公国の研究機関で学んでいると言えば、俺にも箔が付く」
そういうものだろうか。
彼にしてみれば、ペットの犬がどこそこの大会で表彰された、くらいの気持ちかもしれない。
「お前は知らんだろうが、俺は国外にも顔が利くんだ。
ヘルゼン公爵家の三男とは親しいからな。アルヴェント王立研究院のシュバルツ卿にも面識がある」
自分の人脈を、指を折りながら並べた。
得意そうに。
最後の最後まで、彼はずっと自分の話ばかりだった。
◇◇◇
船に乗ること10日。
アルヴェント王国に辿り着いた。
私が紹介されたのは『ウィンザー王立研究院』という機関だ。
先代国王のウィンザー・アルヴェントが設立したらしい。
廊下は天井が高い。
白い壁に、窓からの光がまっすぐ差し込んでいる。
足音がよく響く。
「リーネ・ヘーゼル」
面談室で名前を呼ばれた。
机の向こうに座っていたのは、白髪交じりの髭を蓄えた大柄な男だった。
フランツ・クライス教授。
アルヴェント王国における魔導回路分野の第一人者だ。
「きみが、エルクの紹介状の子か。
先進的な魔導回路を作ったそうだな。設計図はあるか」
「実物も用意しています。どうぞ」
「ほう……」
回路と設計図を見比べながら、フランツ教授がため息を吐く。
「これを、独学で?」
「はい」
「紹介状にわざわざ天才と5回も書くのも納得がいった。
通常なら魔石を20個並べてどうにか成立させる出力を、回路の設計だけで維持している。いいものを見せてもらった、感謝する」
教授は礼を述べると、丁寧に落とさないように気を付けながら回路と設計図を返してくれた。
……オクトが壊してしまった時とは大違いだ。
「きみは、自分の才能というものを理解しているか」
「分かりません。――だから、ここに来ました」
「なるほど」
教授は苦笑した。
「君にとって最初の課題は己を知ることだろうな。
優秀な人間がそれを自覚していないのは、あまりにももったいない」
そのあと、教授の研究室に場所を移した。
同僚となる研究員たちを紹介してもらうためだ。
皆、私が女性だからといって見下したりはしなかった。
「すごい人が来るって聞いたよ。よろしく」
「困ったことがあったら何でも言ってちょうだいね」
「今日は歓迎会だ! あ、苦手な食べ物があったら言ってくれよ」
歓迎されている。
そんな実感があった。
「君が兄さんの言っていた子だね」
にこやかに声を掛けてきたのは、蜂蜜色の髪を持った青年だった。
澄んだ青灰色の目を優しげに細め、穏やかな笑みを浮かべている。
「ライアス・ブラントです。よろしく、リーネさん」
ブラント。
エルクさんと同じ姓だ。
手を差し出された。
「リーネ・ヘーゼルです。よろしくお願いします」
握手。
手が大きくて、温かい。
「きみを紹介したエルクの弟で、ブラント公爵家の人間だ。
外交を取り仕切る家の御曹司がどうして研究室にいるのかは、本人に聞いてくれ」
教授が淡々と付け加えると、ライアスは肩をすくめた。
「うちの国は魔道具分野の世界的リーダーですからね。
最新技術を把握しておくのは当然でしょう。外交の場でも話題になりますし。
――ところでリーネさん、君が作ったっていう回路、見せてもらっていい?」
私は頷くと、魔導回路をライアスに手渡した。
彼だけでなく、他の研究員たちも横から興味深そうにのぞき込む。
「ここで回路を折り畳んでるのか」
「よく暴走しないな」
「そもそも回路を直線じゃなく曲線で引くなんて……」
感嘆のため息が漏れ聞こえてくる。
なんだか照れくさくなってきた。
「リーネさん。これってどうやって思いついたの?」
ライアスが訊ねてくる。
まっすぐな、好奇心でいっぱいの瞳だ。
「分岐の設計を繰り返しているうちに、たまたま」
「すごいなあ!」
大きな声だった。
本当にそう思ってくれてるのだと、伝わってきた。
「やっぱり本物っているんだな。感動したよ、うん」
――これが、ライアスとの最初のやりとりだった。
研究室は居心地がよかった。
誰も「女子にはここまでで十分」と言わない。
初めて制限なく回路設計に取り組んだ日。
気がつけば窓の外が暗くなっていた。
ライアスは毎日いるわけではない。
公爵家の仕事で席を空ける日も多い。
この日は、いた。
「リーネさん」
顔を上げた。
ライアスが立っている。
水の入ったコップを持って。
「何時間没頭してるか、自分で分かってる?」
「え」
「六時間」
笑っている。
呆れたような、でもどこか楽しそうな顔。
「その設計が完成する前にリーネさんが倒れたら、俺が教授に怒られるんだけど」
コップを差し出された。
「すみません」
「謝らなくていいよ。ただ、水は飲んで」
「ありがとうございます。おいしかったです」
「でしょ? ま、なにせ俺が入れたからね。世界一の味だよ」
冗談めかしてそんなことを言うと、にっと笑った。
変わった人だ。
数日後。
フランツ教授が他の研究者を数名集めて、私の回路を正式に紹介した。
「グルグル型魔導回路が実用化されれば、魔石を大量に並べていた装置が一つの石で動くようになる」
フランツ教授の言葉に、研究者たちは耳を疑っていた。
そりゃそうだよね。
ちょっと格好をつけて名前を変えたけど、グルグルというフレーズは残ったままだ。
「教授、いま何と仰いましたか」
「グルグル型魔導回路だ。分かりやすい名前だろう」
「それはそうですが……」
「性能については実際に見てもらった方がいいだろう。
リーネくん、始めたまえ」
私は頷くと手元の回路を起動させた。
室内に置かれていた20個もの魔導扇風機が高速回転を始め、教授たちの髪の毛を吹き飛ばしそうなほどの暴風を巻き起こした。
出力過剰。
けど、分かりやすくていいだろう。
「これを魔石ひとつで実現できる。歴史を変える発明だ」
眼鏡を風に飛ばされないように押さえながらフランツ教授が言った。
「素晴らしいと思わんかね」
「……おっひゃるほほりへふ」
風で喋りにくそうだ。
そろそろ回路を止めよう。
「ダマルト公国は、こんな才能を眠らせていたのか」
別の研究者が呟いた。
こちらを見て、言う。
「君がこの国に来てくれて本当によかった。心からそう思うよ」
◇◇◇
留学して半年が過ぎた。
「いやいや、そこ飛ばさないでよ」
新しい設計案の説明をしていて、サラッと流したところにライアスのストップがかかった。
「まだ未定の部分が多いので、固まってから話そうかなと」
「いやいや、ふわふわのところを決めていくのが面白いんだって。
とりあえず頭の中にあることを教えてよ」
目が、まっすぐこちらを向いている。
オクトは、私が何を言っても途中で遮った。
「お前の話は長い」と笑って、自分の話を始めた。
この人は、逆だ。
聞いてくれる。
「……仮説の段階ですけど」
「うん」
「この分岐を二段階にする代わりに、共鳴角度を少しずらすと——」
「あ、それ。そこ、俺もずっと引っかかってた」
目が輝いた。
「既存の理論だと最適値がずれてる気がするんだよね。
文献の数値と実際の挙動に差がないか?」
「……あります」
「だよね!」
声が弾んでいる。
この人と話していると、自分の考えが加速する。
呼吸が、楽だった。
別の日。
回路設計でライアスと意見がぶつかった。
「冗長性は削った方がいい。効率が三割上がる」
「削ると安定性が落ちますよ」
「でも、三割ならメリットが上回らないかな」
「安定性を犠牲にした三割は、実用に耐えません」
声は上がらない。
二人とも冷静に根拠を並べる。
ただ、ライアスの口角が上がっている。
楽しんでいる。
三十分後。
ものは試しで冗長性を削った回路を起動したら――爆発した。
「いやあ、やっちゃったなあ」
損害は机ひとつ、丸コゲ。
「修理費はうちから出しておくから心配しなくていいよ」
「それは申し訳ないような……」
「俺の案を試してダメだったんだから、俺が責任を持つよ。
っていうか、うん、やっぱり安全第一だね。
現場でこんな事故が起こったら危険すぎる」
うんうん、と納得したようにライアスが頷く。
「……怒らないんですね」
思わず聞いた。
オクトだったら、激怒していた。
どうして俺の思い通りにならないんだ、と。
次に、私のせいにしてくる。
横にいたせいで気が散ったんだ、と。
「怒る? なんで? 間違ってるってことが分かったんだから、一歩前進でしょ」
首を傾げている。
本当に分からない、という顔だった。
フランツ教授に連れられて、アルヴェント王国内の学会にも連れて行ってもらった。
グルグル回路について発表すると、他の研究者や貴族たちからたくさんの反応が返ってきた。
「彼女の設計をこちらでも研究させてほしい」
「リーネ嬢が我が国に来てくれたのは奇跡だ。神に感謝するしかない」
ダマルト公国にいたころはバカにされてばかりだったけれど、ここは違う。
私のことを認め、褒めてくれる人がいる。
そのうちの1人にヘルゼン公爵家の三男がいた。
オクトが親しいと言っていた相手。
彼の名前を出して訊ねてみると――
「申し訳ありません、記憶にございませんね……」
と返ってきた。
やっぱり。
オクトは「アルヴェント王立研究院のシュバルツ卿」とも面識があると話していたけれど、そもそもそんな人はいなかった。
きっと適当なことを言っていたのだろう。
自分を大きく見せるために、ありもしないことを口にするタイプだから。
そんなこんなで留学の日々は順調だったけれど、研究が行き詰まることもあった。
「……うう」
アイデアがまとまらない。
やろうとしていることが高度だから?
違う。
悩みのタネは、現実だ。
アルヴェント王国に来て1年が過ぎたけれど、私のところには帰国を催促する手紙が届いている。
実家のお父さま、お母さま。
そしてオクト。
彼は「戻ってきたら覚悟しておけ」なんて脅し文句まで記していた。
そんなことを書かれたら余計に帰りたくない。
元から帰るつもりはなかったし、そのための策も用意してある。
けれど、実行となると二の足を踏んでしまう。
気が散って、集中できない。
「リーネさん」
顔を上げた。
ライアスが立っている。
「散歩しない? 外、いい天気だよ」
「……今は、少し」
「集中できてないだろ」
穏やかに、笑っている。
「ちょっと外の空気吸おう。俺も休憩したかったし」
「……じゃあ、少しだけ」
外に出た。
空が広かった。
ライアスは研究の話をしてくれた。
他愛ない、軽い話。
負担にならない話題を選んでいるのが分かった。
だからこそ――
相談しようと思った。
「最近、帰ってこいって手紙が来るんです。
実家や婚約者から」
「……大変だね」
私が婚約者と呟いた時、ライアスの表情が一瞬だけ曇った。
いや、気のせいだろうか。
たぶんそうに違いない。
「リーネさんは帰りたいの?」
「絶対にイヤです」
即答した。
ライアスが噴き出した。
「そこまで嫌なんだ。
……まあ、気持ちは分かるよ」
言葉にこそ出さなかったが、彼もダマルト公国のことは把握しているはずだ。
なにせライアスの実家――ブラント公爵家は外交を取り仕切っているのだから。
「もし国に帰りたくないなら、方法があるんだけど」
「それは知ってます。ただ、実行するかどうか迷ってて」
「気持ちは分かるよ。1人じゃできないことだろうし。
――俺にできることなら、手伝うよ」
ライアスが優しげに微笑む。
彼の顔を見て、決意が固まった。
「分かりました。それじゃあちょっとお願いします」
私の考えた方法。
閉鎖的なダマルト公国だけど、国際社会に出ればいつまでもそのやり方を突き通せはしない。
他国と条約を結ぶなかで、男女ともに次のような権利が平民にも貴族にも与えられていた。
――成人に達したものは、家長の同意なく、己の意思にて籍の離脱を行える。
もちろんそのための届は必要だけど、国外からも提出できる。
ライアスの実家は外交に携わっているわけだし、手を貸してもらおう。
実家と縁を切ってしまえば、そのまま婚約も破棄になるし。
「……なるほどね」
私の話を聞いたあと、ライアスはなぜか複雑な表情を浮かべていた。
安心しているような、残念がっているような。
「予想とは違ったけど、確かに君のやり方でもアルヴェント王国に残れるね」
「ライアスはどんな手段を考えてたんですか?」
「ま、秘密ってことで。その国の人間になる方法は他にもあるし」
数日後、私は成人を迎えた。
ライアスに案内してもらい、王都の外務局へ。
書面を書いた。
ひとつはダマルト公国の外務局。
籍の離脱を行う旨。
公式にはこれだけで十分。
けれど、さすがに何も言わずに縁を切るのもどうかと思ったので、事前に書いておいた手紙も送ってもらった。
3通。
お父さま、お母さま、そしてオクトへ。
内容は最低限。
成人となったので籍を離脱したこと。
帰国の意思がないこと。
婚約は成立しないこと。
弁解も、謝罪も、訴えも書かなかった。
丁寧に。
過不足のない文面。
これで、全てが終わった。
◇◇◇
帰りはそのまま王立研究院に向かった。
もちろんライアスも一緒だ。
ただ、私は何も手が付かなかった。
大きなことをやりとげたせいか、全身から力が抜けていた。
頭も働かない。
ライアスもぼんやりしている。
いつもなら雑談を振ってくるタイミングで、一瞬だけ口を開いて、閉じる。
彼が言葉を呑み込むのは、珍しい。
その日は結局、研究の進捗はなかった。
私はライアスを別れ、自宅に戻った。
数日後の夕方。
実験の片付けをしていたら、声をかけられた。
「リーネさん、ちょっといいかな」
いつもの明るさ。
でも声の底に、かすかな力みがあった。
裏庭に出た。
ライアスが壁にもたれている。
夕日が蜂蜜色の髪をオレンジに染めている。
「いい天気だね」
「はい」
沈黙。
この人が、こんなに長く黙っているのを初めて見た。
「あのさ」
「はい」
「俺、言葉には困らない方だと思ってたんだけど」
壁にもたれたまま、空を見ている。
「これだけは、どうしてもうまく言えなくて」
笑った。
いつもの笑顔。
でも、少し歪んでいる。
「きみと初めて会った日から、なんだか、ちょっと気になってた」
声のトーンが、下がった。
「六時間ぶっ通しで没頭してるきみを見たとき、放っておけないと思った」
ライアスが壁から背を離した。
まっすぐ、こちらを見ている。
いつもの余裕が、ない。
「君が自分の国に戻らないと聞いて、実は、嬉しかった。
わざわざ外務局まで案内してさ。我ながら浮かれてたよ」
笑った。
余裕のない笑い。
「もしかしたら気付いているかもしれないけど、俺は、君のことが好きだ。
……よければ、恋人になってくれないか」
夕暮れの光が、ライアスの横顔を染めている。
彼がどんな人なのか、私はよく分かっている。
優しいことも。
対等に扱ってくれることも。
オクトとは、なんて比べる必要すらないことも。
答えはもう決まっていた。
「はい。こちらこそ」
手を伸ばした。
ライアスの手に、触れた。
温かかった。
ライアスの指が、ゆっくりと私の手を包んだ。
「――よかった」
安堵したように、彼がため息を吐く。
「こんなに嬉しいのは、人生で初めてだよ」
ライアスと過ごす時間が、前よりも増えた。
帰り道が一緒になった。
食堂で向かい合うことが増えた。
ある日、ライアスが珍しく口ごもった。
「リーネさん。一つお願いがあるんだけど」
「はい」
「来週、父が研究院に来るんだ。
よかったら、会ってもらえないかな」
「ブラント公爵に?」
「うん。リーネさんの研究の話をしたら、ぜひ会いたいって」
研究の話。
それだけではないだろう。
「……緊張しますね」
「大丈夫。怖い人じゃないよ。俺に似てるし」
「それは安心材料ですか?」
「ひどい」
笑った。
翌週。
研究院の応接室。
私から公爵邸を訊ねていくつもりだったけれど、向こうから来てくれた。
曰く「自分のために研究時間を削らせるのは申し訳ないから」とのこと。
ブラント公爵は、白髪交じりの穏やかな紳士だった。
背が高い。
ライアスの面影がある。
「きみのことはライアスや他の貴族たちからよく聞いている。
素晴らしい才能を持っているようだね」
「……ありがとうございます」
「エルクからも手紙が来た。
大使館に飛び込んできたお嬢さんがいる、と。
やはり天才というのはどこか人と違うものだね」
公爵が微笑んだ。
ライアスの笑顔と同じ形だった。
「息子のことを、よろしく頼む」
一言だった。
それ以上は何も言わなかった。
短い面談が終わり、応接室を出た。
廊下で、ライアスが壁にもたれて待っていた。
「どうだった?」
「お父上、穏やかな方ですね」
「それは俺に似てるから」
「さっきも同じこと言いましたよ」
「大事なことだから」
笑った。
けど、少しだけほっとした顔をしていた。
◇◇◇
ダマルト公国から最初の使者が来たのは、それからしばらく経った頃だった。
研究院の応接室。
最近、よく使わせてもらっている。
ソファがふかふかだから別にいいけれど。
「あなたの研究は、母国の誇りです。
どうか帰国して、母国に貢献していただけませんか」
正装の使者は、深々と頭を下げた。
丁重だった。
「ありがとうございます。ですが、帰る意志はありません」
穏やかに答えた。
使者は困惑した顔で帰っていった。
それから、噂が広がり始めた。
国際的な学会や社交の場で。
「ダマルト公国が、自国の研究者を取り戻そうとしているらしい」
「気持ちは分かるが、なぜリーネ嬢は国を出たんだ?」
「あの国は、五十年前で時間が止まっている。
女性だからと虐げられていたのだろうさ」
オクトが国際的な場で弁明を試みたと、人づてに聞いた。
「文化の違いによる誤解がある」
まだ論理的な弁解ができている段階だった。
けれど説得力はなかったようだ。
二度目の使者は、最初より切迫していた。
「名誉ある処遇をご用意いたしました。
研究予算も、最大限に整備いたします」
「お気持ちは理解します。ですが、お断りします」
表情は変えなかった。
使者の額に汗が浮いていた。
二度目の拒否の後、風向きが変わった。
「ダマルト公国は哀れだな」
「自分たちがなぜ小国のままなのか、まるで理解していない」
「あの国に学術的な価値はない。笑い話としては上々だがな」
他国の貴族たちが、公然と語り始めた。
私を押し潰した「当たり前」が、国際社会で笑われている。
オクトの弁解が変質したと聞いた。
論理的な説明をやめて、感情に切り替わった。
「我が国の文化が、他国の低能どもに理解できるはずがない」
弁解ではなく、開き直り。
それもまた「笑い話」として消費された。
三度目の使者が来ると聞いたとき、ライアスが言った。
「俺も同席していい?」
いつもの口調。
でも、目が笑っていなかった。
「いいんですか」
「うちの家は外交を預かってる。
他国の使者がこの国の研究者にしつこく接触してくるなら、放っておく方がまずい」
言葉は穏やかだった。
けれど眼は真剣そのものだった。
研究院の応接室。
使者は2人。
私の隣に、ライアスが座っている。
使者の視線が、ライアスに向いた。
一瞬の硬直。
「ライアス・ブラントです。
本日はブラント公爵家の名代として同席しております」
にこやかに。
社交の声。
使者の表情が強張った。
ブラント公爵家の名代。
この国の外交を担う家が、正式にこの席についている。
「……リーネ・ヘーゼル殿」
使者は、私に向き直った。
「三度目のお願いです。
母国はあなたを必要としています」
一拍。
「あなたを育てたのはダマルト公国です。
ご家族のことを、国の名誉を、お考えいただきたい」
丁重ではなかった。
圧だった。
口を開こうとした。
「失礼」
ライアスが先に声を出した。
「一つ確認させてください」
笑顔のまま。
「リーネ嬢は成人し、貴国の籍から離脱されています。
婚約も解消済みです。
現在、リーネ嬢と貴国の間に関係はありません。
正しいですか?」
「……それは、そうですが」
「では、この面談の根拠は何でしょう」
にこにこしている。
使者が口を開いた。
閉じた。
「道義的な——」
「道義ですか」
ライアスの声のトーンが、ほんの少し下がった。
笑顔は変わらない。
「ブラント公爵家は、この国の外交を国王陛下より一任されております。
その立場から申し上げます」
一拍。
「根拠のない帰国要請を、三度にわたって当国の研究者に行うことは、外交上、看過できません」
丁寧な言葉。
完璧な笑顔。
使者の額に、汗が浮いた。
「これ以上の接触については、外務局を通していただきたい。
もちろん許可するつもりはありませんが」
沈黙が、長かった。
使者が立ち上がった。
「……失礼いたしました」
二人が出ていった。
扉が閉まった。
静寂。
ライアスの表情が、ふっと崩れた。
「ごめん。やりすぎたかな」
「いいえ」
「でも三回目は、さすがに無理だった」
椅子の背にもたれた。
天井を見ている。
長い息を吐いた。
「リーネさん」
「はい」
「一つ、聞いていい?」
声が変わった。
社交の声ではない。
告白のときと同じ、不器用な声。
「俺と、結婚してくれませんか」
心臓が、跳ねた。
「……待って。このタイミングで言ったら政治の話にしか聞こえないよな。最悪だ」
ライアスが両手で顔を覆った。
「大丈夫です。言わずにいられなかったんですよね」
私は苦笑しつつ、ライアスの顔から手を剥がす。
「教えてください。聞きますから」
「……君は優しいね」
ライアスは照れたように頬を掻くと、言葉を続ける。
「きみが俺と結婚すれば、ブラント公爵家の一員になる。
ダマルト公国は絶対に手出しできない。父上の同意も得ている。
……ああ、いや、公国からの干渉は外務局でカットするから別にいいのか。
だから、その。
――きみの隣にずっといたい。いてほしい。だから、結婚してくれませんか」
告白のときよりも、不器用だった。
あの流暢なライアスが、言葉を探して迷子になっている。
なんだか、可愛らしい。
「ライアス」
「うん」
「確かに最悪のタイミングですね」
「うっ」
「話もめちゃくちゃです」
「……ああ」
「でも、安心してください」
手を伸ばした。
ライアスの頬に、触れた。
「答えは『はい』ですよ」
ライアスの目が、見開かれた。
「……本当に?」
「本当に」
「もうちょっと考えなくていいの?」
「ずっと前から決めてました」
私がそう答えると、ライアスがゆっくりと笑った。
目が潤んでいた。
「——よかった」
声が、かすれていた。
「こんなに嬉しいのは、人生で初めてだよ」
「告白してくれた日も同じことを言ってましたね」
「それじゃあ記録更新だ」
笑った。
私もつられて、笑った。
◇◇◇
ブラント公爵家が正式に介入した形での拒絶。
そして、婚約の公表。
これも話題になった。
「あの国は人材を自ら潰しておいて、成功したら返せとはな」
「ブラント公爵家に外交案件として扱うと言われたらしいぞ」
「我が国にあの水準の研究者がいれば、二度と手放さない」
「ダマルトからまた令嬢が一人出たそうだ。何人目だ?」
声が、重なっていく。
オクトの名前は、もう国際的な場に出てこなかった。
国内でも「あの男のせいで国の恥になった」と囁かれているそうだ。
処刑の声まで上がっているらしい。
法律上、そこまではできないだろうけど。
少なくとも貴族としての立場は完全に失われた。
ある日、束になった手紙が届いた。
全部、ダマルトから出た令嬢たちからのものだった。
そのうちの一通。
『あなたに勇気をもらいました。
私も、自分の力が使える場所を探します。
リーネ・ヘーゼルさんがいなければ、ダマルト公国という牢獄に繋がれていたでしょう。
ありがとうございます』
手紙を、膝の上に置いた。
私はあの国を見限った。
それが、誰かの道を開いた。
胸の奥が、じんと熱い。
手紙を丁寧に折って、引き出しにしまった。
◇◇◇
朝の光が、テーブルの上に落ちている。
パンが焼けた匂いと、温かい飲み物の湯気。
窓が大きくて、空が広い。
ライアスが向かいに座っている。
「今日の実験、午後からでいいかな」
「ええ。午前中は論文を直したいので」
「了解。じゃあ午前中は俺がお茶係だな」
笑っている。
左手の薬指に、細い銀の環がある。
私の指にも、同じものがある。
パンをちぎった。
外は香ばしくて、中はふわりと温かい。
テーブルの隅に、封書が一通ある。
母国からだった。
手に取った。
読んだ。
表情は変えなかった。
テーブルに、置いた。
「来月、こちらの研究機関に一人来るそうですよ。
ダマルトから出た令嬢が」
「教授から聞いたよ。
きみの論文を読んで志望したらしいよ」
「そう」
口の端が、ほんの少し上がった。
私のやったことが、あの国にいる誰かの希望になった。
それはとても嬉しいことだ。
ライアスが手を伸ばし、私の指に触れた。
温かかった。
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