第20話 始動
「やっと体の訛りが取れたな」
シヴァは崖際に腰を下ろして風を感じていた。包帯も傷もない身体を大きく伸ばしたかと思えば、背後で聳える石壁に背中を預け、ゆっくりと息を吸う。
鼻に抜ける木々と川の匂いが、彼の頬を緩ませる。
「やっぱり、こっちの方が落ち着くな……。でも」
シヴァがその視線を少し落とすと、銀色の大河と緑の丘陵地帯が広がっている。
水は陽光に輝いて、草木は風に揺れている。
そんな美しい景色を汚すように、一際大きな丘には無数の人間が蠢いていて、その傍を流れる大河には3隻の大型帆船が停泊している。
その船が持ち込む土と石によって、爽やかな丘が無骨な何かに変わろうとしていた。
「いや……いいんだ」
そう呟いたかと思えば、彼は立ち上がって振り返る。大きく息を吸って、吐く。そして、目前の石壁から垂れるロープを伝って軽々と数mの絶壁を登りきった。
「リハビリは終わりですか?」
すると、すぐにそんな男の声がシヴァの耳に届いた。
「ああ、お陰様で本調子だよ」
そんな言葉と共に彼は視線を動かすと、すぐにシューシをその目に捉える。
薄い金色の髪を風で揺らしながら、腰壁の凹部分に座っていた。
「良い顔になりましたね。森で出会った時とは別人です」
その鉄仮面が少しだけ柔らかくなると、シヴァの頬も自然と緩む。
「あれは俺じゃないよ。エルフの嘘にも気づけないほど、我を失ってた」
シューシはその言葉を聞いて立ち上がると、組んでいた腕を解いて乱れた髪を整える。
「たぶん、シヴァさんは気づいてましたよ。僕達には、あの森から出たそうに見えましたし、案の定、貴方は大した抵抗もせずに着いて来てくれた」
そんな彼の言葉がシヴァの耳を小さく揺らした。聞こえる彼の鼓動は静かで緩やか。鉄仮面のような表情と同じように、普遍の動きを続けている。
それにより、自然とシヴァの口からは乾いた笑いが溢れていた。
「自覚は……ないな。情けねぇ……」
「本当に情けないのは、立ち止まり続けることですよ」
そう言って、シューシは彼に背中を向けて歩き出す。
「そうそう、アイミーさんが呼んでますよ。早速の仕事みたいです」
そんな言葉を残して離れていく背中に、シヴァは言葉をそっと投げる。
「エルフは、ずっと心音が穏やかだな」
すると、小さな笑い声が耳を掠める。
「……それが美徳とされる文化なので」
次第にシューシの姿が城壁塔に消えていく。そこまで見届けて、シヴァも背を向けて歩き出した。
アイミーのいる砦主の館を瞳に捉えている。
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7日後
体を揺する小刻みな振動でシヴァは目を覚ました。その上半身を起こすと視界は回り、胃液が腹の底から込み上げてくる。
咄嗟に彼は両手で口を押さえ込むと、若い男の声がその耳を引いた。
「本なんて読むから酔うんだぜ〜。シヴァちゃんよ〜」
その声の主は長めの坊主頭をした兵士であった。ニヤニヤと口元を緩ませた彼は、うずくまるシヴァの側でしゃがみ込むと、その毛を撫でるように背中をさする。
「……ネルは?」
口元を抑えながらシヴァは尋ねると、その瞳を少しだけ兵士に向ける。
床板と、木骨に布を張った壁に囲われた空間。木箱や布袋が置いてあるだけの茶色ばかりの景色の中で、彼の橙色の髪が振動と共に揺れている。
「俺がここにいるんだぜ? ネルは馬車の操縦だよ」
「馬車を停めて……ネルを……。俺を眠らせて……くれ」
すると、その橙髪の兵士は自身の肩に、シヴァの腕を回して立ち上がる。
そして、ワーウルフの腰に手を添えると歩き出した。
「いちいち停めねぇよ、めんどくせぇ。吐くなら外な〜」
項垂れたシヴァの鼻は、荷台を抜ける風を吸い込む。
馬とエルフと人間の匂い。
草木と土と晴天の香り。
彼が顔を上げると見えるのは、ネルの薄い金色の髪で、更に前方には数頭の馬が激しく頭を揺らしている。
その奥の景色は、流れるように移り変わっていた。
「シヴァ。もう少し我慢してね」
そう言ったのはネルだった。彼に視線を向けることはなく、穏やかな声で語りかける。
「もう少し……? もう少しで休憩……?」
「違うよ。もう少しで到着するの」
ネルは遥か前方を指さしていた。
それを真似て、ワーウルフの体を支える兵士も指を指す。
シヴァはゆっくりと顔を上げた。閉じかけた瞳を前方に向ける。
その瞬間、彼は目を見開いて背筋を伸ばす。
「あれがテイラー家の……?」
青々とした草原の先で、巨大な石壁が聳えていた。
一瞬、山と見違えるように広範囲に展開し、近づくほどに空を遮り見下ろしてくる。
「ええ、その屋敷がある城郭都市よ」
喉元まで込み上げた胃酸がゆっくりと戻っていくのをシヴァは感じていた。
近づくに連れて、更にその威圧感が増していく。
シヴァの脳裏に、不定形の何かが浮かんだ。膨れ上がって、溢れ出す。
それほどまでに、あの壁の中からは無数の音が鳴り響いている。




