第8話
侯爵邸の朝は、今日も静かに始まった。
晶子は執事長・ヘルマンと共に、屋敷内の巡回点検に勤しんでいた。光の差す豪奢な回廊を進みながら、彫刻の柱や天井の装飾を見上げると、あちこちに技巧を凝らした細工が施されているのがわかる。
「ここは……よく手入れされてるわね」
「ええ。来客の目に触れる場所ですからな。侯爵様の威厳を保つためでもあります」
だがその一方で、使用人の通路や備品置き場、倉庫の扉などは、目立たぬところにこそほころびがあった。戸の軋み、錆びた蝶番、破れかけのカーテン。
「これは……補修が必要ね」
晶子は手にしたメモ帳にさらさらと書き込み、ポーチにしまった……が、次の瞬間、そこから微かな光が漏れた。
(……あ)
ポーチの中で、あの手鏡──Ducereが光っている。
執事長に気づかれぬよう背を向け、そっと鏡を覗くと、彼女の手書きのメモが、そのまま美しく整った文字で鏡面に表示されていた。
「おお、すご……っ」
思わず漏らした声に、ヘルマンがぴたりと足を止め、振り返る。
「奥様、何か……?」
「いえ、ううん、ごめんなさい。ちょっと感心しちゃって」
軽く笑って誤魔化し、晶子は手鏡を静かにポーチへ戻した。心の中でDucereに感謝を伝える。小さな鏡だが、今や最高の“秘書”だった。
屋敷内を巡っていると、自然と使用人たちともすれ違う。黙々と丁寧に床を磨く者。談笑しながらも手を止めず、器用に作業をこなす者。逆に、やたらと立ち話ばかりしている者──それぞれの働きぶりが、自然と目に入ってくる。
晶子は立ち止まり、腕を組んだ。
「なるほどねぇ……」
トントンと顎に人差し指を当て、唇の端をゆっくりと持ち上げる。
「この屋敷、まだ“見せかけ”の綺麗さだけに頼ってるわ。なら、やるべきは――再建、ってやつね」
フィオナが横に立ち、小さく尋ねた。
「再建……でございますか?」
「そう。この屋敷を“見せかけの城”から、“機能する本拠地”に変えるのよ。住みやすく、働きやすく、そして誇りを持って“ここにいる”って思える場所に」
彼女のその言葉は、ただの理想論ではなかった。現代日本で、壊れかけの組織と人間関係の間にいた彼女だからこそ、どこを立て直すべきかが見えていた。
「具体的には……まずは人事評価制度ね。働きぶりを正しく見る目が必要」
彼女は小さく笑い、Ducereをポーチから取り出してひとこと囁く。
「次の課題、まとめといて。優秀な人を評価できる仕組み、始めるわよ」
鏡が淡く光り、『了解しました』の文字が浮かぶ。
その夜、フィオナが晶子にそっとお茶を差し出しながら言った。
「奥様がこの屋敷に来てから、空気が少しずつ……明るくなっておりますね。皆、最初は戸惑っていましたが……今は、期待しているように思います」
「期待?」
「ええ。奥様が、何かを変えてくれるんじゃないかって」
晶子は湯気の立つカップを持ち上げ、軽く目を細めた。
「ふふ、それなら応えなきゃね。……でもその前に、ちょっと資料をまとめさせて。使用人配置、業務の無駄、改善ポイント……今日は眠れそうにないわ」
そう言って書斎へと戻る彼女の背に、フィオナはそっと頭を下げた。
──“あの方こそ、侯爵夫人に相応しい方”──。
心から、そう思った。