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第7話

 侯爵邸の朝は静かだった。

 だが、屋敷の空気には、わずかながら変化の兆しがあった。


 使用人たちは気づいていた──かつての“お飾り夫人”ティエナが、今や堂々とこの屋敷を歩き、言葉を放ち、笑顔と威厳を併せ持つ“主”となりつつあることを。


 彼女の姿は、以前のようにおどおどしたものではなかった。失敗しても謝罪だけで終わらず、自ら手を動かし、不器用なりに励ましの言葉をかけ、理不尽な命令は許さなかった。


 ある老執事はこう評した。


「今の侯爵夫人は……まるで北風のようだな。冷たくもあるが、顔を上げて前へ進ませる風だ」


 そんな主への態度は、次第に“従属”ではなく“共に在る”ものへと変わっていった。


 だが──。


「……面白くないわ」


 屋敷の裏手で、小声が交わされる。


 声の主は、晶子──いや、以前のティエナを“無能で愚かな令嬢”として嘲笑い、己の鬱憤を晴らす道具としていた者たちだった。


「今のあれ、誰? 威張ってるつもり? 侯爵様の庇護を勘違いしてるのかしらね」


「じゃあ、“本当の居場所”を思い出してもらいましょう。身の程ってやつを」


 彼らはバケツにぞうきんを絞った水を入れた。廊下の角にさりげなく置き、ティエナが通るタイミングで倒れるよう細工する。まるで「事故」のように──。


 その様子を、厨房に野菜を運び終えた一人の若い使用人・マリエが目撃していた。


(……あれ、わざと?)


 マリエは震えた。かつて、怒りを買うことを恐れ、何も言わずにやり過ごしていた彼女。

 だが、彼女には忘れられない言葉があった。


 ──「報告はすぐに。それがプロでしょ?」


 それはあの日、花瓶を割った自分に向けて、侯爵夫人がかけてくれた一言だった。

 ただ叱るでもなく、ただ庇うでもない。


 彼女の目は、自分を“使用人”ではなく“一人の働き手”として見てくれていた。


 マリエは決心した。

 あの時、自分が“救われた”のなら──今度は、自分が“救う”番だと。




 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 晶子は書斎から出て、廊下を歩いていた。日当たりのよい部屋での作業に向かう途中だった。


(午後の商人との面会、その前に企画案をまとめておきたいわね……)


 その時、廊下の角からマリエが慌てて飛び出してきた。


「奥様、そちらはお通りにならない方が……!」


「え?」


 マリエが駆け寄った次の瞬間、バケツが――倒れた。


 床を伝って流れた汚水は、ぎりぎり晶子の足元に届かなかった。


「……危なかった」


「申し訳ありません、奥様! でも、わざとです。あのバケツ、さっきあの場所に運ばれたのを見ました。罠です……!」


 マリエの告白に、他の使用人たちも気づき始めた。誰かが意図的に仕組んだと。そして、それを告げたのが臆病だったマリエであることに、皆が息を呑んだ。


 晶子はマリエの手を取り、小さく微笑んだ。


「ありがとう。……よく、声を上げてくれたわね。あなたの勇気、見事よ」


 その穏やかな笑みに、マリエの目に涙がにじんだ。


 ──その様子を陰から見ていた者がいた。


 執事長、厨房長、書庫係、下働きの少年──多くの者が、その光景を目撃していた。


 そして、確かに理解した。


 “この侯爵夫人は、守る価値がある”



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 その夜、罠を仕掛けた使用人たちが屋敷から姿を消した。

 誰が動いたのかは分からない。ただ、事務的に処理され、空いた持ち場には新たな配属がなされた。

 

 翌朝、フィオナが淡く微笑みながら言う。


「昨夜、使用人の一部が“辞職”されました。奥様に不快な思いをさせたこと、心よりお詫び申し上げます」


 晶子は返事の代わりに、湯気の立つ紅茶に口をつけた。


 ──守る者ができる。それは、一人ではなくなった証。


 それは、侯爵家という屋敷が“ただの冷たい城”ではなくなっていく第一歩だった。





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