第六話
朝靄が薔薇の咲く中庭を優しく包み、侯爵家の屋敷に一日の始まりを告げていた。
ティエナ──晶子は、執務室で帳簿に目を通していた。
フィオナが脇で静かに書簡の整理をしている。まるで昔からの主従であるかのような、自然な距離感。
ふと、晶子が小さく笑った。
「フィオナ。……今朝の紅茶、少しレモンを控えたでしょ?」
フィオナは驚きつつも微笑んだ。
「お分かりでしたか。……昨夜、奥様が少し咳をされていたので、喉への刺激を避けた方が良いかと思いまして」
「気が利くわね。ありがと」
言葉は短く、それ以上は交わさなかった。けれど、机を挟んだふたりの間に流れる空気は、以前とはまるで違っていた。
それは、信頼という名の無言の絆だった。
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はじめこそ、“王子に捨てられた侯爵夫人”という噂が使用人の間でささやかれていた。
冷たい皿、曖昧な返事、わざと擦り寄らない態度。誰もが距離を保ち、ただ“仕える”という枠内で動いていた。
だがある日。
食堂の調理場に晶子が自ら姿を現し、献立表を見ながらシェフに言った。
「野菜の仕入れ先、変えてみない? このままだと旬の香りが活かせないわ」
誰もがぎょっとした。
侯爵夫人が厨房の意見を聞きに来るなんて、前代未聞だった。
「献立を、奥様が……?」と年配のコックが呟くと、晶子は肩をすくめて笑った。
「私、料理は素人だけど、食べるのは得意よ。任せっきりにするより、うまくいくでしょ?」
──その瞬間、厨房に流れた空気が、わずかに変わった。
そして日が経つごとに、変化はじわじわと屋敷中に広がっていく。
「お掃除の導線、ここの家具の配置を変えるともっとスムーズにできるんじゃない?」
「今日は皆に菓子を配るわ。お茶休憩くらい、楽しみがないとね。ほら、報酬って、“金貨”だけじゃなくて、“笑顔”と“労い”でもあるのよ」
そんな晶子の行動は、やがて使用人たちの間にさざ波のような敬意を生み始めた。
元々のティエナとはまるで違う。
毅然としながらも、使用人の仕事を尊重し、名前を覚え、会話を交わし、努力を見てくれる。
──そんな主人が、他にいただろうか?
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ある日、若い使用人が誤って花瓶を割ってしまった。
「申し訳ありませんっ……!」
顔面蒼白になったその少女に、晶子は静かに近づき、壊れた欠片を拾いながら微笑んだ。
「割れるのは、物の責任。人の責任じゃないわ」
その言葉に、少女の目が潤んだ。
晶子はそんな彼女に指を立てて微笑む。
「ただし、報告はすぐに。それがプロでしょ?」
「……はいっ!」
それを傍で見ていたフィオナが、ふと口を開いた。
「奥様……屋敷が、少しずつ変わってきておりますね」
「……そう? まだまだ課題だらけよ?」
「それでも……“自分の居場所がある”と、思える人が増えてきたのではないでしょうか。私も含めて」
フィオナのその言葉に、晶子はしばし黙っていたが──やがて、ふっと柔らかく目を細めた。
「それなら……この屋敷も、捨てたもんじゃないわね」
風がそよぎ、窓の外で薔薇の花が静かに揺れていた。