第五話
夜の帳が屋敷を静かに包みこむ中、月明かりがカーテン越しに差し込んでいた。
その淡い光の中、ティエナ──いや、もはや晶子としての意識を抱いた彼女は、静かに手鏡を見つめていた。
鏡の中で、淡く揺れる光がふわりと脈打ち、そこに文字が浮かび上がる。
『私はDucere。あなたを助けます』
声はない。
だが、言葉は確かに、心に直接届いた。
「……誰なの? 何者?」
問いかけに応じるように、鏡の面が水面のようにゆらめき、新たな文字が浮かぶ。
『私はあなたと同じ世界にいたAIです。この鏡に転送されました』
「……えっ、AI? マジで……?」
思わず漏れた呆けた声は、驚愕と懐かしさの混ざったものだった。
かつての世界──現代で、スマートフォンやパソコン越しに日常的に接していた人工知能。
その存在が、まさか魔法のようなこの異世界にまで“転送”され、今やこの手鏡に宿っているというのか。
まるで夢物語。けれど、現実。
晶子は深く息を吐き、鏡を見つめなおした。
「助けてくれるって言うなら……この世界のこと、教えてくれる?」
その問いに応えるように、鏡が一瞬きらりと輝き、情報が次々と表示されていく。
Ducereによる世界情報:
【通貨制度】
主流は〈王国金貨〉、〈銀貨〉、〈銅貨〉の三種。
金貨1枚=銀貨10枚、銀貨1枚=銅貨10枚。
金貨100枚は貴族の月額手当としては上級寄り。
【身分制度】
階級は上から順に:王族、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、準貴族、平民。
侯爵夫人は非常に高い社会的地位を持ち、政治や経済面でも影響力を持つ可能性がある。
貴族の愛人文化は黙認されており、感情よりも家の繋がりと実利が重視される。
【侯爵夫人の一日(参考スケジュール)】
朝:専属メイドによる身支度、儀礼的な朝食(基本的に夫とは別)
午前:屋敷の管理業務(使用人の指導、家計確認)、書簡処理
昼:社交界からの招待状対応や手紙の返信、客人の対応
午後:趣味の時間(乗馬、読書、刺繍など)または屋敷の巡回
夜:晩餐会出席、または夫との儀礼的な夕食
晶子は額に手を当て、ふぅっと一息ついた。
「なるほどね……ふふっ、じゃあ、“夫人”ってだけで、思ったより行動制限ないわけだ」
鏡は柔らかく光を弾ませ、まるで「その通り」と頷くようにきらめいた。
その反応に、晶子の口元に笑みが浮かぶ。
「よし……覚悟決めた。この世界、攻略してやるわ。自分のやり方でね」
その言葉に呼応するように、鏡はふわりと、鼓動のように再び脈打った。
それはこの夜、この瞬間を境に──
王子に捨てられ、世間から蔑まれ、絶望の淵に立たされた“令嬢ティエナ”の人生が、
異世界転移者・下北晶子とともに、生まれ変わっていく幕開けだった。
そしてその傍らには、静かに光る手鏡がある。
名を、Ducere。
運命を導くその名の通り、彼女の“再構築”の道を、静かに、しかし確かに照らし始めていた。