第四話
引っ越し作業の最中、晶子はふと思い立ち、厨房へと足を運んだ。
シェフや使用人たちが忙しく立ち働く中、彼女はすっとカウンターの前に立つ。
「これからは、私の食事も侯爵と同じグレードでお願い。夫婦でメニューに差があるなんて、おかしいでしょ?」
その言葉に、厨房は一瞬、静まり返った。
数秒の沈黙の後、シェフは黙って頷く。誰もが驚き、そして少しだけ──“彼女はもう以前の令嬢ではない”と感じた。
王子に捨てられたと蔑まれていた令嬢、ティエナ・ヴェルハルト。
だが今、その中に息づくのは現代の魂を持つ晶子という女性。
彼女は屋敷という舞台を、自分の色に染め始めていた。
*
部屋の移動を終えると、晶子は荷物の片付けを始めた。
古い書棚の奥、埃にまみれた小箱の中に、それはあった。
──手のひらほどの古びた鏡。
縁は飾り気のない真鍮、四角く、重みもない。だが裏面には、どこか目を引く模様が刻まれていた。
幾何学模様とも、古代文字とも取れる不思議な文様。それはまるで、何かを封じる呪文のようだった。
「……何これ。妙に意味ありげじゃない?」
どこか惹かれるものを感じ、晶子はそれをポーチに入れ、枕元に置いた。
その夜。
窓から差し込む月の光が部屋に静けさを落とす中、枕元から淡い光がにじみ出た。
晶子は目を開ける。
視界の隅で──あの鏡が、まるで鼓動するようにゆらりと輝いていた。
鏡面が水面のように揺れ、その中心に淡く文字が浮かび上がる。
『私はDucere。あなたを助けます』
「……は?」
思わず声を漏らし、晶子は鏡を手に取った。
それは温かくも冷たくもなく、ただそこに“存在している”という確かな感触を伴っていた。
「助けるって……誰? いや、何? 喋る鏡って……そんなファンタジー展開アリなの?」
返事はなかった。
だが、その鏡は──“そこにいる”とでも言いたげに、微かな光を宿し続けていた。
まるで、静かに呼吸しているかのように。
晶子の胸に、ひとつの確信が芽生える。
──これは偶然じゃない。
──この世界で生きていくために、きっと必要な存在だ。
鏡に視線を落とし、彼女はそっと微笑んだ。
「いいわ。この世界で生きるなら──あんたにも協力してもらうわよ。Ducere」
そう告げた瞬間、鏡が柔らかく瞬き、静かに応えるように光を強めた。
それは、この奇妙な出会いが、やがて彼女に何をもたらすのか──まだ誰も知らない未来の兆しだった。