第三話
朝食を終えたその日。
晶子は屋敷の書庫から間取り図を探し出し、くるくると鉛筆を回しながら吟味していた。
「……あった。ここ、南向きで日当たり最高。しかも書斎にも近い」
現在の寝室は北側の薄暗い部屋で、壁紙もどこか湿っぽい。
精神衛生に悪いにもほどがある、と晶子は地図を持ったまま、侯爵の執務室をノックした。
扉の奥から、無感情な声が返る。
「入れ」
「間取りの件で。部屋を変えたいの。あの南の角部屋に引っ越すわ」
侯爵アレクシスは、書類から一度も顔を上げずに答えた。
「好きにしろ」
その返答に、晶子は小さく口元を緩めた。
──はい、願ったり叶ったり。
彼女はすぐに行動に移した。
屋敷の使用人たちに荷物の移動を命じ、動きの良かった数名には自分の小遣いから臨時ボーナスを配布。
「このくらいは当然の報酬よ。働いた分、ちゃんと渡すから」
その一言に、使用人たちは目を丸くした。
今までの“ティエナ様”は、こんな風に言葉をかけることも、金貨を自らの手で渡すこともなかった。
一部の者は戸惑いながらも、金貨の重みには逆らえず、次第に引っ越し作業の空気が本気のそれへと変わっていく。
──“令嬢”が部屋を移るというだけで、屋敷の空気がこんなにも動くものか。
晶子はそんな様子を、少し可笑しそうに見つめていた。
*
その後、晶子は「専属メイドをひとり立てたい」と屋敷内に通達を出した。
しかし、応じる者は誰もいなかった。
表向きは「多忙ゆえ」だが、実情は明らか。
“侯爵の愛人と本妻の板挟み”など、誰も務めたがらないのだ。
仕方なく、外部募集へ踏み切る。
数日後、晶子のもとにひとりの女性が面接に現れた。
名前はフィオナ。かつて伯爵家に仕えていた教養ある元侍女で、礼儀作法も身のこなしも申し分ない。
「奥様は、面白いお方ですね」
初対面のその言葉に、晶子は思わず目を細めた。
「面白いって、貴族のお屋敷じゃ、あまり褒め言葉にはならないわよ?」
「いいえ。変化を恐れない方は、貴族の中でもとても貴重です」
その落ち着いた微笑みに、晶子は心の中で小さくガッツポーズを取った。
──この人、使える。いや、信頼できる。
こうして、令嬢ティエナ──否、晶子の新しい日々が、本当の意味で動き出したのだった。